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今の子どもの生活実態は?

                      浅井 定雄 (京都教育センター・発達問題研究会)

 この文章は、2004年12月5日に京都学童保育指導者研修会で講演した内容をもとに、2005年4月より2006年7月まで京都学童保育連絡協議会機関紙「はばたけ」に連載されたものです。


(1)小学生低学年の子ども

 今、小学校現場では、一年生の入学当初から、教室で子ども達が「落ち着いて座っていられない」「話が聞けない」「毎日トラブルが起こる」「授業以前の課題が多い」等の話が聞かれます。小学校高学年の子ども達の「荒れ」と共に、小学校低学年からの「学級崩壊」も深刻です。こうした小学校低学年からの、従来とは違う子ども達の変化の特徴として、次の点をあげることができます。 

 第一には、衝動的傾向が強いという点です。大人から見ればなんでもないようなことがきっかけでパニックを起こしたり、セルフコントロール不全となることがあります。

 第二には、友だちとのコミュニケーションを成立させるための諸能力に欠落が見られるという点です。言葉による関わりが未熟で、その結果、小暴力を多発させ、友だちとのトラブルを生じたり、逆に友だちからの「引きこもり」を起こしたりすることがあります。

 第三には、家庭生活の多様化および全体としての「夜型生活」への傾斜が、子どもたちの基本的生活習慣の未確立・乱れを生み、そのことが集団性を前提とした学校規律とぶつかり、時にはそれを崩壊させていくことがあるという点です。

 第四には、親に愛されたいがために「良い子」を演じ続けなければならないイライラ、さらには能力主義・競争主義の学校に順応しなければならないというイライラが、ストレスとなって、パニックや無気力症状を生んでいる場合があるという点です。(以上の4点は、尾木直樹氏『学級崩壊をどうみるか』などの意見を参考にしています。)


 また、こうした子どもの変化は、就学前から準備されているとも言われています。幼児期にあっては、そのまま父母の価値観や生活の変化が反映していることが多いのです。今の若いお父さん、お母さん自身の子ども時代を考えても、核家族の中で育ち、地域の子育て共同体もない中で育ってこられた方がほとんどです。また受験競争の中で、助け合うことより競い合うことが重視されたり、「手伝いより勉強」と、家事を学んだり、親になるための子育て・保育の学習をするという機会も保障されてこなかったのです。

 おまけに、現代社会は、バブル崩壊後の長期不況に陥り、「リストラ」「過労死」など政治的経済的混迷は深まり、家庭はしわ寄せを受けるばかり。その結果「余裕を持った子育てができない」「孤立化した子育て」が事態に拍車を掛けていると言えるのだと思います。

(2)小学生高学年の子ども

 次に、ポスト学級崩壊における小学生高学年の子どもたちの「変化」について、その現象的な側面をいくつかにまとめてみました。  第一は、学校によっても格差はありますが「勉強をしなくなった」という点です。

 「宿題」の提出は、教師が何も言わなければ、提出者は三分の一、うるさく言って、あと三分の一が提出、残りの三分の一は、最後まで提出しないことも多くあります。「居残り」とか「休み時間に」というように、「教師がそこについて、半強制的に」でもやらさない限り、学習に取り組まない。これが、毎日繰り返されます。

 忘れ物は、きわめて多くあります。体操服・絵の具・習字道具・音楽リコーダーなど、「これがないと困るもの」の忘れ物が特に目立ちます。女子の中では、体操服は、持ってきても「友だちか着ないから」着ない子どももけっこう多いという状況も生まれます。学校や学級によってひどい場合は、授業中、「机の上に何も出さない」「ノートを一切書かない」「(静かに)マンガ本を読む」教師が注意しないと見るや、立ち歩いておしゃべりをしたり、トランプやゲームを始めるという状況も生まれます。

 全般的な学力の崩落が必ずしも起こっているとはいえませんが、子どもたちの「勉強」離れが進み、勉強時間が短くなってきていることは確かです。学力の中位層が分解して、下位層が大きくふくらんでいます。

 第二は、友だちと一緒にいることが「フツーでない」難しさを生んでいるという点です。 教室の中に、四〇人でいること自体がストレスの発生源となることがあります。一人一人が「わがまま」さを持っている中で、人といること自体がストレスになるのです。「生身の他者」という存在は、ただそこにいるだけでも脅威、圧迫になり、その他者と一緒にいることは「異常な接近」状況にみえます。こうした感覚が「フツー」になってきています。

 小此木敬吾(心理学者)が、「山嵐ジレンマ」ということを言っていますが、さまざまな理由から一人一人が「トゲ(無意識的な攻撃性)」を持っていて、気持ちとしては友達と親密になりたい、けれども実際に接するとなってきたら、自分は意識していないけれども、攻撃性を持っていて相手を傷つけてしまう、自分が傷つけられてしまう。だからそこでトラブルが起きてしまう、相手とうまく関係を築けない、というような状況が生まれています。

 だから,「距離」を保たざるを得ない。だけど教室は一種の過密状態になっていて、その中で子どもたちがどういう方法を現実の選択肢としてとるのかと言うと、一つは「相手を消す」。つまり、自分を主張して自分勝手に振る舞って、他人のことを配慮せず、自分の居場所を確保しようとします。そして、人からの注意が「自分の結界を侵すものだ」という感じで排斥しようとする傾向が生まれます。もう一つは、逆に「自分を消してしまう」。つまり、自分が自己主張すれば人とぶつかるわけだから、いわば付和雷同的に友達に「同調」する。そして同調して、自分というものを消してしまって、その中にいるというふうな形が生まれます。いわば「透明な存在」というわけです。


(3)子ども社会と「いじめ」問題

 第三は、「友だち関係を切り結ぶ中に、いじめの芽がある」という点です。

 高学年の子ども達の、特に男子の子ども同士の会話を聞いていますと、友達を「ちゃかす」「けなす」「揚げ足を取る」というような言葉が大変多いのが気になります。そうした形で、「ふざけあって」交流を深めているのです。当然その中には、「いじめ」や人権に関わる話題も含まれてきます。しかし、子ども社会には明らかに「力関係」が存在しますから、当然その「的(まと)」にされるのは一部の子ども達に絞られてきます。そこから「いじめ問題」が生まれてくるのです。でもそうした姿は大人には見えにくいし、子ども自身もどこまで「自覚して」やっているのかわかりませんから、今日の「いじめ問題」が「どこまでが遊びやふざけで、どこからがいじめなのか、そのはっきりとした境界がわからない」と言われているのです。

 また、女子の子ども達の会話を聞いていますと、「第三者に対する評価・うわさ話」といった類が多いのも気になります。井戸端会議ではないのですが、そこにいない人を話題にして、「あの人、ああやで、こうやで」と話して、友達同士の共感を深め合うのです。会話だけでなく手紙のやりとりや交換ノートといったものも、そのコミュニケーションの場となります。つまり、自分たちの外に「敵」を作ることによって、その仲間同士の連帯を深め合うのです。(ターゲットにされるのは何も子どもとは限っていません。むしろ子ども同士の連帯を深めるためには、教師などは格好の的となるのです。仲間の和を乱すことなく、安心して「攻撃する」ことが可能だからです。)だから、誰かが「あの人、ムカツクわ。」と言えば、やがて「みんなで無視しよう。」ということになって、共同した行動が起こされることになるのです。

 つまり、今日の子ども達の社会は、「共通のターゲットを作り、それに対する話や行動を通して、仲間同士の『友情』を保つ」というような「友達作り」の方法が展開されていると言えます。ここに今日の子ども達の「攻撃性」がひそんでいると思います。そして、 この攻撃性は必ず「弱い」ものに向かうのです。

 こうした子どもたちの実態の背景には、「幼い頃からさまざまな友達と遊び、交流して、豊かな人間関係を築いてコミュニケーション能力を発達させる。」ということができなかったという「つけ」と、今日の社会の「弱肉強食」的な新自由主義的価値観の子どもたちへの浸透があります。

 今日、高学年の子どもの成長は、それをとりまく「子ども社会の質」と切り離すことはできません。親や教師から見て「いい子」であっても、子ども社会の質によっては、(放っておけば)「いい子のままでは生きられない」という状況があります。仲間外れにされたり、いじめられたりする危険性が存在しているからです。「いい子」であっても、友達は欲しいし、仲間といっしょに楽しみたいという気持ちを強く持っています。だから、羊が狼社会の中で生きていくために、狼の毛皮をかぶってカムフラージュするように、友達社会の中に「同化」していくのです。

 子ども社会がこうした「いじめ社会化」しないためにも、子どもの相談相手になったり、人権や思いやりの心など人間として大切にしなければならない価値観を教えるといった、親や教師の適切な指導や援助が必要とされていると思います。


(4)子どもをめぐる状況──社会的弱者に矛盾が集中──

 今、国政では「構造改革」が声高に叫ばれていますが、その影で、不景気やリストラ・失業者の増大、増税などが国民の生活を苦しめています。その中でも注目してほしいと思うのが、特に社会の矛盾が、困難を抱えた家庭や子どもたちなど、社会的弱者に集中していると言う点です。

 具体的な例として児童虐待があります。最近でも、神戸で「しつけのつもり」として、「四歳の男児に、自宅の風呂場などで、手足をひもで縛って背中や顔にたばこの火を押し付けたり、冷水のシャワーをかけたほか、殴るけるの暴行を繰り返し、全身やけどや全身打撲のけがを負わせた」(毎日新聞 八月六日)などの事件もあり、「少年が被害に遭う児童虐待と児童ポルノ事件が急増しており、警察庁は『刑法犯少年は減ったが、非行防止と保護の両面で依然予断を許さない』としている。」(共同通信8月5日)状況です。

 不登校は、さまざまな取り組みで最近少し減ったと言われていますが、それでも13万人台(2002年度、13万1211人)が続いていると言われていますし、小学校では280人に1人、中学校では37人に1人という状況です。「数がへったのはいいこと」と言われますが、そう簡単には言えません。たとえば、学校に行っても保健室ですごし、教室で授業は受けていない子がいたときでも、出席に扱いにされるなど、数字では見えてこない部分も多いのです。また、国立教育政策研究所が行った調査では、不登校の中学一年生のうち半数が、小学生のとき不登校の経験があるというデータも出ています。

 少年事件は、男子高校生による両親殺害(六月、東京都)など衝撃的な事件が続発し、少年による殺人は前年同期比18・5%増の32人となったなど、あまりにもたくさんあって、詳しくは言わないのですが、たとえば「ホームレス集団暴行事件」などは、攻撃の矛先が「弱者」に向いているということを典型的に示していると思います。

 7月12日に東京都墨田区立大横川親水公園でホームレスの男性が殺害された事件では、事件に関わった高校生二人は「ストレスを発散させるため、公園で寝泊まりしている人を探しに行った」(共同通信7月17日)と述べています。そして、「公園内の段ボールの上で眠っていた面識がない男性の頭などを繰り返しけり、男性を死亡させた」(同)のです。

 今、世の中で「新自由主義」とか「生き残り戦争」とか言われている中で、高齢者や障害者・失業者など社会的弱者がいじめられたり、自殺に追い込まれるというのが出てきているわけですが、こうした中で、困難を抱えた家庭や、学校の中でも弱い立場の子どもたちに集中的に矛盾が現れてきていて、子どもたちの発達が歪められてきていることが大きな問題点だと思います。


(5)子どもをめぐる状況──生きづらさとインターネット──

 未来ある子どもたちが「自殺」に追い込まれる、こういう状態を生み出す社会というのは、いったい何なのでしょうか。  今、「レンタン」という言葉が子どもたちの中で使われています。小学校四年生の子どもが「先生、レンタンって知っている?」と聞いたことがあります。私が、「火鉢に使う練炭のことか?」と言うと、「ううん、ネット自殺のことをレンタンて言うんや。」と説明してくれました。2003年春頃からインターネットで知り合った20代の若い男女が車中で「練炭」自殺を遂げるという事件が続いています。これは大変現代的な様相を呈している事件だと思います。若者の自殺というのは「生きたい」ということの裏返しだと言われますけれども、インターネットの「心中サイト」で知り合って、自殺を相談をして、用意周到ののち実行すると報道されています。これらの事件での出会いはホームページの自殺掲示板でした。

 しかし、これらは氷山の一角にしか過ぎません。ある新聞の記事にこう書いてありました。「(事件後)一週間たって、ネット上で「自殺」をキーワードに検索すると30万件以上の項目がでます。「自殺サークル」というだけで1万8000件、「自殺仲間募集」だと300件もパソコンの画面に出ている」と。そして、今の日本の青年の死因の第一位が自殺になっているということです。やはり若者にそういう「無気力感・閉塞感」というものが広がっていて、孤独になっている。この問題を、すそ野の広い問題として、同じ思いに多くの若者たちがさらされているし、追い込まれているという状況をとらえなければいけないと思います。未来ある青年たちが、死にたいと思って生きている。死にたいというのは人生に絶望しているわけですから、この絶望している状況が広汎に広がっているし、未来ある青年が生きていけないところまで追い込まれているという状況があるのです。

 そして、それはさらに低年齢化の様相を示しています。総選挙たけなわの今年(2005年)9月9日、北海道滝川市内の小学校で六年生の女子が教室で首をつってぐったりしているのを登校してきた同級生が見つけました。早朝の教室で、天井に設置してある「スクリーン台」に自転車の荷台ひもをかけて、自殺を図ったのではないかと見られています。また、9月14日には、長崎県佐世保市早苗町の畑の脇で、中学二年の女子が木にロープをかけ首をつって死んでいるのを同校の教諭が見つけています。いずれも場合も、周りの大人は「原因がどこにあるのか、思い当たるところがない。」と語り、子どもたちの心の中を理解することすらできていないのです。

 子ども達は気持ちとしては、「生きたい」「友達とつながりたい」と心の中では願っていると思います。それは,死ぬ間際であっても、「ネット心中」事件のように「一人で死ぬのはさみしい」と言って仲間を募集していることにも知ることができます。友達とつながりたい、そういう思いを持ちながら、最終的には、生きていくということを絶望すると言うところまで行かざるを得ないような所におかれているのです。

 こうした子どもたちの心情をどう理解し、心に寄り添い、「生きる」ことをはげましていけるのか、私たち大人に鋭い問いが突きつけられていると思います。


(6)子どもをめぐる状況──商品市場とケータイ電話──

 それに加えて、今考えていかなければならないのは、子どもの世界が、商品市場としてのターゲットにされているという点です。もちろん文房具やテレビゲームなどは大きな市場になっていますし、金額が高いというのもありますが、たとえば女の子のファッションでもブランドものが宣伝されているとか、ティーンむけのファッション雑誌なども何十万部という発行の雑誌が幾種類もあるという状況が生まれています。

 また、この間テレビでやっていたのですが、「美容エステ」、これをお母さんと一緒に小学校高学年から中学にかけての女の子たちがやっているという報道がありました。いっしょに行って、お母さんはお母さんで、子どもは子どもでエステを受けているというものです。そういうふうに今の商業ベースにターゲットにされているという状況を抜きにして、子どもたちの問題は語れないのではないかと思うんです。

 もう一つの大きな問題として、携帯電話や出会い系サイトをめぐる問題があります。

 小学校では、「授業中、こっそり手紙を回す」という四年生〜五年生初期の頃から、六年生の卒業までの間に、子ども達の、友達同士のコミュニケーション手段=情報伝達手段は大きな変化をとげます。ここ数年で「交換ノート」「長電話」「FAXのやりとり」から、「ケータイ」「メール」へと急速に「進化」しています。私の調べた限りでは「ケータイ」(携帯電話)保有数は、実に六年女子の四割に達しています。さすがに、まだ学校には持ってきていませんが、家に帰って、友だちどうしてメール交換がさかんに行われています。教師が、「毎日、学校で会ってるのに何を連絡するの?」と聞けば、「何言ってんの?」と言うような顔で、「おやすみ、とかの合図。これは学校では言えないことだから。」と返ってきました。

 しかし実際は、友だち同士で携帯電話を通じての情報交換がなされるとなると、持っていないことでグループの中で共有される情報から外されたり、友達関係から外されるなどの問題も懸念されます。すでに「みんな、持っているから私も・・・」という声が生まれています。親はどう対処すれば良いのでしょうか。多くは、先行する実態に、振り回されて事後承諾を与えているのみになっているのです。

 中学校の先生の話では、最近「ケータイ」も普及をして、実感としては八割以上の子どもが持っているように感じられるという話でした。学校への持ち込みとか、携帯を通じての問題行動等も、やはり最近急激に増えているということです。「ケータイ」を通して、様々な情報が子どもたちの中に入ってきていますし、子どもたち同士の情報のやりとり、それから出会い系サイトの問題もありますし、最近扱っている問題行動の約半数以上が「ケータイ」が何らかの形で使われていると言うことがありますし、この問題は見逃せないということでした。ただし「ケータイ」だけを取り締まるとか管理をするとかいう問題ではなくて、なぜ子どもたちにとって「ケータイ」が必要なのか、子どもたちにとっての「ケータイ」の意味、「ケータイを通じてのコミュニケーションの意味」というものを、やっぱり考えていかないといけないのではないかと思います。


(7)子どもをめぐる状況──人間関係の希薄さとその回復──

 人間関係が希薄になっているのは実感しますし、その希薄になった人間関係をかろうじて維持しようとする行動の一つとして、「ケータイ」というのがあるんじゃないかなと思います。携帯電話を持っているだけで「いつもつながっている」という安心感を持っている子どももいますし、一日に何回かはメールでやりとりしないことには、落ち着かない、眠れないという子どももいます。また昼間と夜の区別がなくなるほどコミュニケーションのやりとりがさかんになっているということで「ケータイ」が子どもたちに及ぼす影響というのは、生活そのものを一変させる、また生活に対する考え方を変えてしまうほどの影響力があると思います。

 まさに、子ども社会の中にあっては、「ケータイを持たない」ということは、「生きられない」ということに等しい、ともいえる状況です。だから、保護者の方からは「ちゃんと取り締まってほしい」「指導をしてほしい」と言うことを言われるんですけども、「ケータイ」だけを扱うのではなく、「ケータイ」の背景にある子どもたちの仲間や集団に対する意識、自分に対する意識というものを考えていかないといけなというふうに思います。

 それは、今の子どもをどう見るか、という関連があると思うのですけれど、今の子どもたちはよく言われるように時間も空間も仲間も奪われた状態の中で、当然「人との関わりの力」(コミュニケーション能力)もついてこなかった。その子どもたちが、問題行動・トラブルを起こしているという、子どもたちが今コンビニにたむろしているとか、携帯電話で連絡を取り合ってやっているとかいうのは、ある意味では、現代的なあり方ではあるけれども、なんとかコミュニケーションを回復をして、そこで今まで身につけてこれなかったものをちょっとでも補っていきたいという、願いの表れと見ることもできると思います。もちろんそこには、「出会い系サイト」の問題とか、落とし穴はいっぱいあるわけなのですが、落とし穴があるということと同時に、そこに現れている子どもの願い、発達への願いを、しっかりと我々がくみ取っていく必要があると思います。

 特に中学生頃の思春期にゆれる子どもたちにとっては、自分に対して自信がない、また自分を仲間によって確かめてほしい。だから「ケータイ」を媒介として確かめ合い、集団の結束を確認するというのが行われている。そういう意味では彼らにとって「ケータイ」というのは貴重なのかなと思います。

 それと、直接面と向かって表情を見ながら、相手の対応を感じる状況の中でするコミュニケーションに比べて、「ケータイ」やメールとなると、非常に間接的なコミュニケーションになっていく。そのことが、人格形成、パーソナル形成が完成した成人がそういう手段をとることと、文字通り人格の統合というかアイデンティティの形成の時期にあるような中学生や高校生が使うと言うことでは、やっぱりその持つ意味が違ってくるだろうと思います。子どものコミュニケーション欲求の表れだし、現代的な形ではあるんだけれど、コミュニケーション能力の形成というか、人格形成の視点からするとやはり問題がある。弱さとかゆがみを生んでしまいかねないな要素であると思います。コミュニケーション能力というのは、言葉やスキルだけではなく、相手の表情やその時の雰囲気を理解していくという力も必要なのです。

 新聞のある相談欄に書いてあったのですが、「私は中三です。人と電話では話せるのですが、人前で話すことができません。どうしたらいいのでしょうか?」というのです。「ケータイ」では話しできるが、直接的にということになれば緊張してしまってうまくできないという、それは特殊な子どもではなくて、多くの子どもの中にその傾向はあるんだろうと思います。だから、教室へ行ったら「生(なま)の友達」がいるわけだから、そこで緊張状態に置かれるし、ストレスも生まれる。けれども、この女の子が「先生ならば少し話せます」「お母さんとならばよく話をします」とかいうことから、そこの所からコミュニケーションを広げていくということを、もう一度やっていく。そこで、自信を持っていくということが大事ではないかと思うのです。「ケータイをやめろ」とかそういうことではなくて、家族の中の生(なま)のふれあい、あるいは友達との生(なま)のふれあい、関係作りを見直していって、一からになるかもわからないけれど、そこから作っていくという、そういうことをやっていかなければいけないし、親や教師としても、そういう所を大事にしていく。面倒だし、大変なことなんだけれど、それを作っていくということを課題として取り組まなければならないと思います。


(8)「コミュニケーション不全」と「モラトリアム人間」

 私は、今の子どもたちの状況を読み解く上で、キーワードになるのは二つ。「コミュニケーション不全」と「モラトリアム人間」という言葉だと思います。

 「コミュニケーション不全」というのは、言うまでもなく、他者とうまくコミュニケーションがとれないということで、「言語表現力」「理解力(相手の言葉や表情や態度から相手の気持ちや考えていることを読みとる力)」「共感力」「他者と交わる力(社会的スキル)」などが不足して、さまざまな問題を生み出していると言うことです。これは京都教育センターのアンケートで明らかになったことなのですが、たとえば自分に悩み事があったときに、誰に相談するかと言った場合、男の子は35%の子ども、全体の三分の一近い子どもが「相談はしない」というふうに答えています。要するに、自分の悩み事があっても、もちろん「友達に相談する」とか「お母さんに相談する」というのが全体としては多くて、お父さんはその次ぐらいなのですが、それでも男子の三分の一近い子どもが、誰にも相談しないと言うのです。悩みを自分で抱え込んでしまうという問題は深刻です。

 それとアンケートで「いやなことを言われた時、あなたはどうしますか」という質問で、「話し合って解決をしていこう」というのが、本当に少ないのです。5%ぐらいしかない。そのかわりにあるのは、「二倍返しをする」というのとか、「悪口を言う」とか、「その人から離れる」というのが多い。そういう形で、確かに友達との関係を結ぶというのは難しくなってはいるのですが、それをなんとか、そのもつれた糸をほぐして良い関係を作っていこうと努力する方向ではなくて、むしろ「二倍返しをする」だとか、「悪口を言う」だとかいうように攻撃的に出たり、逆に「離れてしまう」というように関係を切る方向に働いているということが、アンケートの結果に出ているのですが、そういうようなことがますます子どもを孤立化させていくし、そのことが同時にまた友達との交わりの能力、コミュニケーション能力というものを非常に貧弱なものにしているし、その行き着く先がさっき言いましたように、引きこもりや自殺といった問題につながっているような気がするのです。友達とどう関わるか,そこに一つの鍵があるのではないかと思います。

 同時に、本来自分の悩み事を相談する相手は友達や親であるにもかかわらず、かなりの子どもが相談相手として選んでいなかったり、自分一人の心の中に悩みを閉まっているということが、結果的にはどんな形で現れてくるのか。いじめや仲間外しなどの事件が起きても、我々が気づいた時にはかなり進行した状態になっていることが多く、だからそれが解決の方向に向かわずに、一年近くもトラブルが尾を引いたり、ひどい場合は親も巻き込んだトラブルに発展していくというようなことにもつながっているのではないかと思います。

 だから、やっぱり我々が見ていくのは、その子どもと、その子どもが親とどういう関係にあるのか、どういう関わり方をしようとしているのか、友達とではどうか。そこの部分にやはり注目をして改善のメスを入れていかない限り、事態が前進していかないのではないかと思います。


(9)大事な大人への「猶予」期間=「モラトリアム人間」の時代

 もう一つは「モラトリアム人間」というキーワードです。モラトリアムという言葉は、もともとは経済用語で、お金の支払いを待ってもらう「支払い猶予」という意味なのですが、これをアメリカの心理学者でE・H・エリクソンという人が、彼のライフサイクル理論の中で、人間が大人として一人前の責任を請け負っていくのを、青年期は一時「執行猶予」してもらっている時期だというので使ったものです。しかし、これが現代では大きく変わってきています。たとえば、ニートと呼ばれる若者の存在や、フリーター、パラサイト・シングルと言うように。こういう現象を、日本の心理学者の小此木啓吾が「モラトリアム人間」と名付けたわけです。

 具体的には,こんな点があげられています。

 一つ目は、以前の青年の場合は,「半人前意識」というのがあって「早く自立したい」という願いが強かったのに、現代の青年は、むしろ(経済的には自立していないにもかかわらず)消費者として自分の要求が満たされるので、「なんでもできるという全能感」を抱いています。「自立する」必要性か希薄になっているのです。

 二つ目は、以前の青年の場合は、青年期に「若きヴェーテルの悩み」のように「真剣かつ深刻な自己の探求」をし、いわば「修行」を行っていたわけですが、消費文化の中で、現在の青年は、むしろ「修行感覚から遊び感覚へ」と変化してきています。

 三つ目は、以前の青年の場合は、身体は一人前であるにもかかわらず、経済的自立や結婚も出来ないために「禁欲主義を強制され,性的なフラストレーションをためて」いたわけですが、現在の青年は、そうした「禁欲主義」とは無縁です。

 四つ目は、以前の青年の場合は、将来は自分が社会を担うという「社会の継承者(あとつぎ)」としての自覚があったのですが、現在の青年は,「継承者としての自覚から局外者(アウトサイダー)意識へ」変わってきています。

 こうした青年期の意識の変化は、実は今の社会の変化(情報化社会、消費社会)が生み出しているもので、今の社会に生きる子どもや青年にとっては、いわば「当たり前の意識」になっているのです。しかし、それが、私たち大人から見れば、「早く一人前になってほしいのに、いつまでも寄り道をしていて、一人前になってくれない。」と見えるし、子どもたちとのすれ違いを生み出していると言えます。やはり今一番大切なのは、こうした変化した子どもや青年達と、どうコミュニケーションを作り上げていって、共に生きる人間同士としてつき合っていくかと言うことではないでしょうか。

 (なお、蛇足ですが付け加えておきますと、最近、日本の心理学者の小此木啓吾や河合隼雄などは、日本の体制側と結びついて「道徳教育の重視」とか「心のノート」作成など、日本の教育を復古的な方向に動かすやり方に加担している面もありますので、注意は必要です。私はそう言う所まで肯定している訳では決してありません。)


(10)子どもに関わる大人に求められているもの

 「学級崩壊」が問題になった頃から、小学生低学年の時から非常に衝動的な傾向が強いと言われていて、本当に大人から見れば「なんでもないようなささいな事」から、子どもがパニックを起こしたり、セリフコントロール不全というような、自分で自分を律しきれない行動が起こったりしています。それにはいろいろ原因があると思います。消費社会の中で「わがまま」になってきているとか、自由保育の問題とか、市民的社会的ルールが身に付いていないとか、いろいろあると思うのですが、しかし少なくとも集団生活に入って「自己と他者との関係」とか、「周りの状況を理解して自分の行動を理性的に考える」とかいうあたりが、その認識の方も、考えて行動するというプロセスの方もしっかりと鍛えられてこないで、そのまま中学校にまでつながっているという、そういう問題もあると思います。

 それともう一つあるのは、今の社会の矛盾というのは原因が見えにくいという点です。非常に複雑に絡み合っていて「何が原因で、自分はこんなに腹が立っているのか」ということが見えてこない。単純に「このことで僕は腹立つ」ということが言えないほど、実際の原因は複雑だと思います。だけど、子どもにとっては目の前にあることが原因のように見えてしまう。たとえば子どものことを一番好きで、一番子どものことを思っている母親なのに、「あなたのためよ」という形で、たとえばイヤでたまらない受験勉強に子どもを追い込んでしまって、子どもにとっては母親が自分を苦しめる原因のように見えてしまう。あるいは教師でも「君のため」「将来のため」だとか言いながら、現実には「勉強しろ」「学校のきまりを守れ」とか、子どもの自由を束縛するように追い込んでしまって、子どもにとっては先生が自分を苦しめる原因のように見えてしまう。

 そのような形で、本当の原因が見えにくくなってしまっています。今の複雑な社会の矛盾は、子どもが理性的に「本当は,何が原因で自分が腹が立っているのか」ということを考えにくくしているし、しかも「自己表現がへた」だということになれば、子どもは、自分の思いが言語化されないで、心の中にたまってきただれにぶつけて良いかわからないようなむしゃくしゃしたものを、何かのきっかけで一気に噴出させてしまって、パニック状態になって、家庭であれば親を刺し殺すとか、学校であれば校内暴力などという形で現れているんだろうと思います。結局、それは本当の社会の原因がはっきりと見えてこないから、社会的な矛盾の被害者同士が争っている形になって、「親子の問題」「先生と生徒の問題」として片付けられ、責任が転嫁されてしまうのだと思います。


(11)保護者に訴えるもの──「自分の子どもとは何か?」──

 最後に「保護者に訴えるもの」という事で、三つの点について話します。一つは「自分の子どもとは何か?」という事、二つ目は「子どもと接する三つの原則」、三つ目は「子どもにとっての『決まり』とは、親にとっての『指導』とは」についてです。

 はじめに、「自分の子どもとは何か?」という点ですが、少し前にトマス・ゴートン著の「親業」という本が評判になったことがあります。その本からの一部を紹介しますと、

・・・・・・自分の「子ども」とは何か。 子どもを、あらかじめ作った鋳型通りに育てあげようとする試みを、多くの親は次のように正当化する。「結局『私の』子どもですからね。そうじゃありませんか?」「親は、自分が一番いいと思うやり方で『自分の 』子どもを良くしてやる権利があるんじゃありませんか?」 子どもを所有していると考え、したがって、子どもをある一定の鋳型にいれる権利があると思う親は、子どもの行動がその鋳型からはみ出すと、それを受容しない気持ちになりやすい。子どもを、自分とはまったく別の、自分とは違う一人の個人を考えて 親−−親が「所有する」などとは考えない親−−は、子どもの行動をもっと受容する。なぜなら。子どもが従うべき鋳型も、事前に考えられた行動パターンもないからである。そういう親は、子ども一人一人の独自性を受け入れる用意があり、子どもの持つ能力に応じて成長する事を許す。・・・・・・私はよく親に次のように言う。「あなたは、自分の人生を作りあげてきたではありませんか。今後は子どもにそれをやらせてあげなさい。あなたが与えた人生で彼がやりたい事は何か、彼に決めさせてあげなさい。

 そして、次のような言葉が添えられています。

  あなたの子どもは、あなたの子どもではない。待ちこがれた生そのものの息子であり、娘である。あなたを経てきたが、あなたから来たものではない。あなたと共にい るが、あなたに属してはいない。あなたは愛情を与えても、考えを与えてはならない。なぜなら、彼らには彼らの考えがあるから、・・・・・・。あなたが彼らのようになる努力は したとしても、彼らをあなたのようにする事を求めてはならない。なぜなら、生は 逆戻りしないし、きのうのままにとどまりもしないのだから。

  世界中の子どもたちの幸せへの願いを込めて、1989年に国連総会で「子どもの権利条約」が採択されました。この「子どもの権利条約」では子どもの「生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利」が保障されています。そしてその基本精神は、子どもを人格的主体者としてその権利を尊重することにあります。私たちは、今一度、子どもを大人の付属物や所有物としてではなくて一個の人間として対等に向き合うことから始めることが大切なのではないかと思っています。


(12)子どもと接する三つの原則

 少し前になりますが『眠れぬ夜の教師のために』という本がありまして、その中で、著者の三上満という人が「子どもと接する三つの原則」というのを言っています。

一つは「共感」、
二つ目は「肯定」、
三つ目は「信頼」です。

 こういう態度で、子どもたちに接する事を大事にしようと。まず、子どもを共感的に受け入れてやる事、そして子どもの言う事を頭から否定するのではなくて、子どもの側から言っている「りくつ」を考えてやる事。案外、大人にとって痛い所をついている場合もあるものです。そして、子どもを信頼して、できる事を思いきって任せてみる事も大切です。小刀の使い方一つでも、いつまでも「危ない!危ない!」では、子どもは小刀を使いこなす機会すら失ってしまいます。「多少の怪我も、勉強のうち」と、考えて接してみたいものです。子どもは信頼すれば、必ずその信頼に応えようと頑張ってくれます。そうした中で、子どもとの信頼関係が作り上げられ、私たち大人も子どもを良く理解できるようになるし、子どももまた、本音を語ってくれるのではないでしょうか。


(13)「決まり」とは何か、「指導」とは何か

 三つ目は、「子どもにとっての『決まり』とは何か、親にとっての『指導』とは何か」という点です。結論から言いますと、子どもにとっての「決まり」とは、「自分が参加して了承した約束」ではないかと思うのです。子どもは、友達との約束は、学校の決まりを破ってでも守ろうとする場合があります。それは、自分が決めた事であり、子どもにとって大事な決定となっているからなのです。ところが、大人は余りにも「決定する時」に子どもを参加させないで、「決まりを守る」ことだけを子どもに要求をしているふしがあります。やはり、決まりという場合に、できるだけ子ども自身に決めさせるか、子どもにかかわる事は、決定に参加させて、了承を得るという事が、大事なのだと思います。子どもにとっての「決まり」と言うのは、本当はそういうものだと思います。大人は、ただ権威や力で押しつけている場合が多いのです。

 しかし、「子どもに判断できないものでも、絶対に決まりとして守らせておかなければならないものも多くある」とお考えの事と思います。そこに、大人の「指導」がある、と思います。しかし権威や力で言う事をきかすのは、「指導」ではありません。新聞にも、時々体罰をふるう教師の事が記事なりますが、「体罰」は指導力の無さを暴露しているようなものです。「指導」というのは、端的に言えば「説得と納得」です。「本人が納得するように、説得する」という事です。やはり、子どもは甘いといいますか、「これくらい言いだろう」と簡単に考えたり「善悪の判断が分からないで行動」する、という事もよくありますから、大人の指導が大事なのですが、その際「最大限、本人が納得するように説得する」事が大切だと思います。今の子どもたちは、結構家でも体罰を受けていて、「たたかれて、言う事をきく」事に慣れている子もおりまして、なかなか難しい点もあるのですが、大きくなればなるほど、このことは重要になってくるだろうと思います。「子どもの言う事は、十分に聞いてやりながら、親の気持ちや思いもしっかりと伝える」ことが、これからの親子関係にとって大変重要になっているのではないでしょうか。

 古い中国のことわざでしょうか、こんなのがあります。「二つ叱って、三つほめ、五つ教えて、良き人と為せ」と言います。子どもは、大人が思っている以上に「分からないで」「できないで」失敗する、事のほうが多いものですから、しかるのは二つ、ほめるのは三つ、そして何よりも、(いい事をしても、失敗をしても)五つ教えて、良き人に育てよう、という事です。これはとても理にかなった事だと思います。


(14)おわりに

 最後になりました。私たちは、教員、指導員、父母という立場は違っても、目の前の子どもに幸あれ、すばらしく育てたいと思う気持ちは一つです。本当に手を取り合って、良い教育・子育てを実現していくために、がんばって行きたいものだと思います。いろいろな困難な状況が、子どもたちを取り巻いていますが、子どもたちは、喜び・悲しみ、感動をもって毎日を生きています。私たちも、子どもの喜びを共に喜び合い、子どもの悲しみを共に感じ合い、私たちの人生と子どもの若き人生とを重ねあわせて、共に毎日を、充実した感動のある日々にしていきたいものです。最後に、出典は不詳ですが、一つの詩を紹介して終わります。長期の連載におつきあいいただき、ありがとうございました。

   「今」   

 二度とない今だから、
  一輪の花にも
  たくさんの愛をそそぎたい。
  どうせ今を生きるなら、
  小さな声にも、心の耳をかたむけたい。
  めぐりあいの不思議を思い
  足をとどめて 見つめたい。
  今から 今には
  もう帰れない
  二度と来ない 「今」だから。

●現代の子どもを理解するのに役立つ参考文献

・小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中央公論社1981.
・小此木啓吾『モラトリアム人間を考える』中央公論社1985.
・香山リカ『ぷちナショナリズム症候群/若者たちのニッポン主義』中央公論社2002.
・京都教育センター発達問題研究会『コミュニケーション能力 に関する調査アンケート』京都教育センター2004.(イ ンターネットでも公開 http//www.kyoto-kyoiku.com)
・京都教育センター『つながりを求める子どもたち(ひろば・京都の教育143号)』京都教育センター2005.1.
・斉藤貴男『機会不平等』文藝春秋2004.
・斉藤貴男『教育改革と新自由主義』子どもの未来社2005.
・佐藤学『「学び」から逃走する子どもたち』岩波書店2000.
・中島梓『コミュニケーション不全症候群』筑摩書房1995.
・野田正彰『コンピュータ新人類の研究』文藝春秋1994.
・正高 信男『ケータイを持ったサル』中央公論2003.
・三宅 晶子『「心のノート」を考える』岩波書店2003.
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