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京都教育センター年報 第20号(2007年度)

講演 〔要旨〕
改悪「教基法」以降の新たな教育統制施策にどう立ち向かうか

   
講師 八木英二 先生(滋賀県立大学)

日時 2007年6月9日(土)午後1時〜4時半
会場 京都教育文化センター101号室

 本記録は2007年6月9日に行われた「京都教育センター公開研究会」で行われた八木先生の講演〔要旨〕をセンター事務局の責任で編修したもので、文責は当事務局にあります。見出し等は編集者がつけました。


 レジメを刷っていただいていますので、それに従って話をさせていただきます。テーマが「改悪教育基本法以降の新たな教育統制施策にどう立ち向かうか」ということで、私もこの答えをお聞きしたいんですけれども、応用問題をいただいたということで、ごいっしょに考えてみたいと思います。

 これは、のっぴきならない我々の置かれた立場なので、どう立ち向かうかということをいっしょに考えるためにも、今、我々が置かれている状況を取り巻く困難ですね、難しい問題の性格について、どういうものかということを明らかにしていく、そういう作業が最も重要なのではないかなと思っています。

 それで、レジメに順番に1、2、3とつけているんですが、下にページ数を打っておりまして、裏表で4ページまであると思いますが、最初に3ページの下の「終わりに」のところの、2)ここから最初に話をさせていただきます。教育センターのほうから、ここの所を「時間切れで落とすな」と伺っていまして、私もこれはお話したい所ですし、情勢にも絡みますので情勢の論議として最初にお話して、あと心おきなく残りの所を時間まで消化いたします。もし途中で切れてもあとの論議につなぐことができるという安心感がありますので。


教師の置かれた立場と果たすべき役割

 といいますのは、「終わりに」ということで今日の話を情勢と合わせて締めくくって、言おうと思ったテーマはですね、教師の役割論議についてなんです。要は情勢の進展という点では、3ページの下から3つめの黒丸ですけれども、社会における貧困と階層格差化が、非常に進行しております。そのことと教育における格差、このことが相互に促進し合っている。テーマあるいは情勢ファクターといいますか、学力形成や教育課程等々をめぐってですね、いろいろあると思いますけれども、様々な局面で社会が割れる、破れるというんですか。それぞれの問題が吹き出しつつ、相互に格差問題や貧困問題が作用しあいながら、急速に進行しているということを感じます。

 そういう中で、教師の置かれた立場と教師の果たすべき役割が急速に変化をしつつある。挨拶で野中先生は、「今、時代が変わってきている」とおっしゃいましたが、このことを我々は共同で明らかにしていかなければいけないということと重なっていると思うのです。

 今日の話の半分はこのことを念頭に置いてお話するわけですが、たとえばその次の黒丸にある「朝食を食べない子どもたち」。戦前、あるいは戦後の教育運動の中でも取り組まれてきた社会的貧困ともかかわっていた問題があります。70年代でしょうか「昔の貧困と違う」ということで、新しい貧困という用語で、あらたな経済発展における日本社会の問題の論議が進み始めたことを思い出します。そこで表面上は経済発展をとげた日本なので、ごはんを食べることが出来ない子どもたちというのは、少なくとも日本社会からは姿を消したのではないかと感じておりました。

 ところが去年の暮れから今年にかけて、関西のある地域の学校調査をした折なのですが、小・中・高と比較した結果、もしかしたら小学校低学年の子ですら朝食を食べていないのではないかと疑われる一定の割合がでてきたのです。いつものように、高校生になるに従って、朝ご飯を食べずに学校に来ている連中がぐっと増えてくる実態はありました。これはまあ、だいたい直感でわかるというか、高校生がズボラで学校に早く行って朝練をしたり、生活全体のルーズさや、子どもの生活が夜に食い込んでいくといういったようなことを勘案しますと、そういう傾向があるというのはわかっていますけれども、小学生で、そういう理由ではなしにですね、どうも生活の状況から、朝食を食べれない子どもがいるのではないかなという、これはまだきちんと調査、確認をしていませんので、ただ数字上に出てきた我々の今のところの推測なんですが、疑われる数値が一定でてきていることに、ちょっと我々は、大げさに言えば驚愕をしています。「これは大変なことだな」と。つまり、かつて、昔話であったような、弁当を持ってこない子、あるいは友だちだけ食べている間、そこから抜けてがまんしている幼い子が小学校にいるかも知れないという、このことを予測しなければいけない、そういう時代に戻ったのではないかなという感じを持っております。


スウェーデンの学校で

 それで、最近の我々の研究会で話題になったことがあります。ちょうど1年前にスウェーデンの大学に行ったんですが、ついでに先方の大学の紹介で地域の中学校に飛び入りで参観して、いくつか授業を見させていただきました。そのときに、言われるように、ヨーロッパはどこもそうだし、スウェーデンもそうなんですが、飛び入りで入った数学の授業をしている中学校の子どもたちの数を数えたら20人ぐらいだったんです。その中にいる先生は、びっくりしたんですが3人いるんですね。特別な教育ニーズや学習障害の子に一人の先生がついていますし、弱視の子にもう一人ついています。それでクラスの担任がもう一人いて、3人の先生が授業中、うろうろしているわけです。まあ、もうラフな感じで、何というんでしょうか、教育条件という点では本当によく言われることだけれど、比べものにならない実態を目の当たりにしました。それはそれで再確認ということなんですけれども。学校の給食をいただきました。カフェテリア方式ですから、自由にとって食べる。それは校長先生も先生も自由に出入りして、座ったら、子どもが隣に座って話しかけてくるという状況ですね。校長先生が言うには、私が入ったクラスは20人中7人が外国人労働者の子弟で、昔から定着している外国人のご家庭ではなくて、途中からこられた方ですから、親御さんはこちらの言葉はしゃべれない。いなか町の中学校ですが、こういうふうに非常に移民の比率が高いわけです。私は、日本の子どものことを思って、「どういう問題が教育でしんどいですか?」ということを、いろいろな角度から質問していたんですけれど、「子どもについては心配がないんだ」ということでした。親との関係がなかなか難しい。言葉がしゃべれないのが大きいということで、今、中等教育では職業教育を重視していまして、スウェーデンは職業教育の国で、名古屋大学の横山さんがそれを専門にしておられるんですが、専門家などにお聞きしますと、職業教育では何を基礎に重視するかというと、これはコミュニケーションというか、言語の教育ですね。そういう意味では、よく言われる一般教育。まずどんな職業に就くにしても、とにかくコミュニケーションが職場でできないといけないというので、それは今、国際化が進んだ、いなか町まで進んだスウェーデンの国際国家のひとつの姿だろうと思うんです。

 給食場面に戻りますが、校長先生が私に自慢するんですね。「この子どもたちは、家に帰っても食事もままならない子どもたちがたくさんいるんだ。だけども少なくとも学校にいる間は、友だちとの関係で、食べることについて全く気にする必要がない」そのことを強調されました。しかもご存じのように、就学前から大学まで全部無料ですから社会に定着しているその迫力というものを感じた次第です。時間は静かに動いているわけですけれども、比較してみると、必ずしも北欧諸国の実践を美化できるわけではありませんが、いわば社会の貧困と階層格差がダイレクトに教育につながって、学校の中に見え隠れするような、日本の実態がいっそう深刻になってきているなと思うこのごろなんです。

 社会の矛盾というのは、そういう幼い子どもだけじゃなくて、中等教育段階で、あるいは二十歳段階で大学生まで入れますと、義務教育を終えて社会に出るまでの間が、いわば接続と言いますか、つなぎですね。それから大学を出ても就職できない。まあここ1、2年ちょっと就職状況が上向きということは、カッコつきですけれども、大学については言われていますが、それでもマッチングの問題はあるし、3年たったら3分の1は辞めるという状況は深刻化していますし、何よりも非正規雇用の数が飛躍的に増えている。ヨーロッパの国をとると、ほとんどの先進国も若者の雇用問題で深く悩んでいて、スウェーデンなんかは一時期、数年前、青少年の失業率は20%を超えたことが確かあったと思います。


学校を卒業して再就職するまでのつなぎをどうするか

 そういうことで、学校を卒業して再就職するまでのつなぎをどうするかというのは、本当に今先進国が抱えている最も重大な課題のひとつですけれども、日本でいうと高校教育の中退率とか、登校拒否・不登校の問題と重ねて、それと二十歳前後の若者の非正規雇用やフリーター状況があります。とくにこの一年間深化したのは、ワンコール・ワーカーというやつですね。携帯電話が普及し尽くしましたから、そこらあたりのネットカフェで寝泊まりしている若者、毎日仕事をしている、親元から離れて都会に出ている子どもたちは、自分の居どころも持っていない青年がたくさん増えているんです。その生活のスタイルでたいへん気になるのは、外国にも報道されたことなんですけれども、社会との接点が−−従来は「日雇い労働」ということになると、雇われる側が職安のところにたむろして、そういう状況にいる人たちは少なくともお互い、だべりあったりして接点があったけれども、今の若者の日雇いというのは、携帯電話を経由してしかないという。だから携帯電話はメディアの有力な武器、人類の一つのテクノロジーの達成であるに違いないんですけれども、その使用のされ方が、いわば若者を孤立化させる最先端の道具になっている。しかも職業生活のありようの中で、それしか接点がないという状況に置かれる事態が、昨年度一気に広がったということが報道されています。

 そういった時代社会の様相について、子どもから青少年の生活と、まだ成長途上の若者ですから、あるいはまだ中年の失業問題もたいへん深刻で、いったん失業したら、再雇用につながる職業訓練の場が無料で社会的に用意されてはいないという、本当に深刻な課題があります。近い将来、そういう社会を設計していかなくてはいけないという新たな課題がだんだん浮き彫りになりつつあるんじゃないかなと思います。


「教育再生」という、政策担当者がつくる言葉

 そういう暮らしの変化に対して、今、政府がもっとも重視しているのが、憲法改悪ともうひとつはやはり「教育再生」というテーマですが、教育再生会議の事務局の山谷えり子氏が、今の、たとえば家族の生活という点で言いますと、食生活の変貌とか、学校給食のあり方、あるいは子どもの就学の無償化といったことには指一本ふれずに、単純に「いっしょに家族で、団らん、食卓を囲もう」といったような道徳的提言をしてみたり、つい最近は「赤ちゃんには子守歌を」とか言って、ひんしゅくを買って引っ込めるとかですね。また「親学」と言って、あまりにも批判がきつかったから、今回はその言葉をひっこめて「親が学ぶ」と、ちょっと言い換えるなど右往左往しているようですけれども、その山谷えり子氏のインタビューの姿をテレビ画面でみると、『世も末だなあ』とそんな感じをしないでもない。しかし、そういう事態がいったいどうして起こるのか、我々はもう少し冷静に考えて、これからの行く末を議論し合わなければと思うこのごろです。

 そういう状況の変化で教師が振り回されている。数十年ぶりに教師の生活の調査というのを文科省がやったようで、文科大臣もやや「教師もなかなか忙しいらしい」というようなことを口走るという変化があったらしいですけれども、この教師の置かれた状況は、本当に本気で考えないと、「社会がいったいどこで持ちこたえているのか」という、大人は次世代の人間を育てることにかけながら生きているはずで、そこで学校と教師の果たす役割をないがしろにして、人類が持つわけでもないといったことに、思いをはせなければいけない。そういう時代になっていると思います。


教師の役割の変化

 この「教師の役割の変化」というふうに3ページの一番下に書きましたのは、今、野中先生の話でちょっと再確認をさせていただいたんですが、この京都教育センターは早い時期から、当時の代表の細野武男先生が最初に言われたんですかね、組織者と労働者と専門家というんですか、教師の役割規定をされたんです。私の「教師の役割の変化がある」という思いの中には、細野先生が語られようとして、また教育センターで実践されてきた、この役割規定を今の時代の新しい変化の条件のもとで、さらに発展させていく必要があるのではないかなと言うことなんですね。  議論することがたいへん重要なんですけれども、そのための材料を少し提案してみたいなと思ったわけです。それは別の角度から言いますと、この教師というのは組織者であれ、それは地域の中で役割を果たすということだと思うのですけれども、労働者であることも間違いない。これまた、専門家であるという規定でもある。専門家であるというのは、66年のILOの地位勧告の提案、勧告以来、世界中に定着した規定だろうと思うんですね。

 歴史的に見ると、教師の役割とは伝統的には、ヨーロッパでは聖職者がキリスト教を中心として、中東はイスラム、日本は仏教徒系を中心に寺子屋等の大衆教育を担ってきたのは聖職者でありましたから、よくも悪くも、いい意味でも社会を支えてきたわけで、それは戦前、学校の先生というのは聖職者であるということは、戦前の教育行政において、ある歪んだ運営されたということも一面ではあった。戦後もその聖職者規定は尾を引き、また一面ではその積極的側面もあるという、尊い仕事であるという引き取り方をしようという議論があったと思うんです。しかし、労働者であることも間違いはないです。どういう労働者であるかということも議論で引き継ごうということだったと思います。それからさらに、今申し上げた専門家。専門職性を持っているということです。

 そしてその後、今から遡っても70年代まで遡れば数十年前までということになりますが、その後「反省的な実践家」であるということがある研究者から言われ始めて、今日の教師論としては、世界的にはこういう規定が、学問的には最も一般的になっているのではないかと。「反省する実践家」。英語で言えば、リフレクティブですけれども、リフレクション、反省する。イメージ的に言うと、例えが悪いですけれども、いつでしたかね亡くなられたお猿さんですか、「反省ザル」という、「反省ー!」という奴ですけれども、あのコマーシャルを思い出すたびに私は、「教師の仕事って、これだなあ」と思い続けてきました。

 それはやっぱり、教師の仕事というのは教科を教えるだけでもないし、今まで申し上げた聖職者とか、完全な一般の「もの」を対象とする労働者とは違って、人間を相手にするという特殊性がありますし、専門家ということで弁護士や医師とよく喩えられるけれども、それとは比較にならないその特殊性という、良くも悪くもですね、すぐれて持っていると。それはやはり人間を相手にするわけですが、ただ人間を相手にするのでも、お医者さんのような、弁護士のような人間を相手にするのと違って、成長途上の子どもを相手にして、働きかけるわけです。その子どもを教師が育てようとする場合に、思うようになる存在ではない。だから、これは教育思想という所まで振り返ると、教育決定論、教育万能論が克服されてきた歴史なんだろうと思うんですね。要するに子どもというのは教師や親の思うとおりには育たないと言う。ところがずっと近代社会を切り開いてきた時に、この世に教育思想なるものが大衆的な教育現象をバックに、書物というか、学者の論として成立した最初はそうだったわけですね。はじめて人間は、教育する可能性に目覚めたということです。しかしその後の、近代から現代まで、さらにこれからの社会を展望する上では、今の我々が経過をしている歴史的、社会的な経験、特に教育的な経験は、もういやというほど「子どもは思うとおりに育たない」という現実にぶつからざるをえないわけです。しかし当然ながら、逆に教師の指導は人間形成に何の役割も果たさないのかと言うと、もちろんそうではないところに検討すべき課題があります。

 私は学生によく言うんですけれど、「もしあなたのお父さんやお母さんが、『お前は、もう俺の思うとおりになった』と言ったら、どう思う?」と。「心で舌を出すか、まあまあそう言っとけとか、そうだろうと。」人間はものをつくるように計画通りに仕上がるものじゃない。この点は、教育センターでもう亡くなられた京大の数学の山口先生が何度も言っておられましたよね。私もよく例に挙げさせていただく「教育というのは、宇宙にロケットを打ち上げる仕事と比べて、より難しい」。特に中学校の先生は、「非行を直す」というのは、「こうやったら非行を直せる」というふうに、つまりいくら良い設計図を描いても、それはもうその通りにならない。なるんだったら、もうとっくに地球上から非行なんてのはなくなっているはずなんで。だから中学校の先生の仕事というのは、ロケットを宇宙に打ち上げる仕事よりもはるかに難しいと思うんですけれども、世間一般にはそう思われていなくて、NASAからロケットを打ち上げる方がはるかに高度でレベルが高いと思っている。NASAから来られた研究者も多くいらっしゃいますけれど、そんなことは夢にも思われないのではないでしょうか。中学校の先生の方が、はるかに高度な仕事だというのは想像もつかないわけです。なぜかというと、ロケットというのは、10回に1回か2回、失敗するかも知れないけれど、たいがい成功するんです。失敗しても、どこが失敗したかが明確に分かる。だけど教育の成果というのは、そういうふうに目標設定と結果の因果関係というのが、数値的に単純に検証できるものとはちょっと違う。教育実践で人間の育ちがすべて決まっていくという、そういうことではないということです。歴史的には現在、その教育決定論を克服する過程にあると思うんですね。


「教育パパ」という言葉が登場

 去年1年の新しい現象で私が思うのは、「教育パパ」という言葉が登場したことではないかなと思います。それ以前にも言われていたかも知れませんけれども、70年代、80年代で、受験戦争下「教育ママ」という言葉でもって、お母さんに悪罵が投げかけられていた。特に「子どもの育ちが悪いのは、母親が悪い」という非常に絶好の攻撃のターゲットになったネーミングだろうと思うんですけれど、根拠がないわけじゃなくて、受験戦争を煽る者は、とりあえず家庭の中ではお母さんということで、そうなったと思うんです。けれども、今日、新しい時代の変化の中で、受験戦争、大学を出ても、学歴が従来のようなブランドを発揮してくれません。もっと別の角度で受験戦争というものを考えていくべき時期にきています。

 大学を出ても、本当に生きていける職業につけるか、非常にリスクが高い時代になりました。ということで、親が、特に医師とか、お医者さんがおられたら申し訳ないですけれども、事件などをみると、自分の職業を後継したいという、非常にそういう衝動というものが、社会的に詰められる、そういう事件が目に付くようになりました。まあ、統計をとっていませんが、大企業のお父さんも子どもの教育に熱心になったと言うことが去年の社会現象として報道され始めて、「教育パパ」というネーミングがあったということです。私はそれも変化と言うよりは、やはり何か親ががんばったら、子どもが思う通りにがんばってもらわなければいけないようになるという、親の思うとおりに子どもが育つという、同じ枠組みというか、教育決定論の土俵は変わっていないと思うんですね。

 だから、何か世の中で政治家にとって都合の悪いことが起こると、いっさいがっさい教育のせいにする。一般には「人間というのは教育によって作られるから」という観念が定着していますから、だから教師だけを責めるのは非常に都合がいいわけです。さらに都合がいいのは、教師自身もそう思いがちな傾向がある。「子どもがこんなになっているじゃないか」ということで、教師を責められると、やはり「自分が悪い」と思わない教師はいないわけですね。逆の裏返しで、そう思わない教師がいた場合には、それはまたおかしいということになる。なぜなら教育は確実に子どもの成長発達に関わっているからですね。だけども、子どもの成長発達を教師だけが決定づけるわけではありません。

 そろそろ私は「発達保障」という言葉も、これ本当に条件整備論として議論しなきゃいけない時代にきていると思います。つまり「発達保障論」で、本当に先生の「指導性の文脈」だけで完璧に発達保障できるか。もしそれを引き取るんだったら、子どもがおかしくなったらすべて先生が責められるリスクも出てききます。だから、そんなことは現実の事態としてはありえない、事実を説明することにはならないという点まで踏み込む必要がある思います。


教育再生会議を後押しする「日本教育再生機構」

 とにかく教育再生会議、今日資料が出ていますけれど、1次報告と2次報告を見れば、基礎的な哲学レベルでものを言わなければいけないのは、そのことだろうと思うのです。教育再生会議は、これは肝いりで、首相の音頭でもって公的な意味を持たせてやっていますけれど、ご承知のように文科省は中教審とさや当てをしながら矛盾をはらんだ展開をしております。いわば悪政を競い合う形で複雑な情勢になっていますけれど、この教育再生会議を後押しする「日本教育再生機構」というのがあるわけですね。昨年、再生会議が動き出す前につくられて、今、教育再生会議を後押ししている民間の機関です。いわゆる靖国派と言われる人たちが焦って、皇国史観にむけて、日本の侵略戦争という戦争観をくつがえそうとやっきになっている団体なわけですね。

 特に最近はエスカレートして、各県、タウンミーティングとか称して、やっています。栃木市だったかな、ほとんど全域の全教職員を集めて講演をしたというんですから驚きです。それで、理事の中に向山洋一が座って、これまた暴れているわけです。だから、教育再生会議の方でヒアリングをして、講演に呼んでいる3人の中の2人がそうです、八木秀次と向山洋一。向山洋一は、教育実践をなさっている方はご存じだと思うんですけれども、教育技術の法則化運動で名をはせた方ですね。2000年ごろだったと思うんですけれども、TOSSという、教育技術化運動の英語の頭文字をとって、トスという機関に化けておりますけれど、向山洋一は、とにかく「教育技術の法則化」という用語にあらわれるように、「もう、このマニュアルを覚えたら、すべて、私のいう通りにすれば絶対に学校の授業はうまくいきます。子どもは育ちます」と言い切っているように思える哲学の持ち主で、マニュアルを乱発して急成長する教育産業の権化のような感じで、個人営業の責任者でしょう。京都にも賛同者は根付いているようです。ネットを見たら、表面上はすごいものです。


『いじめは必ず解決できる』という本

 彼が最近、3月に『いじめは必ず解決できる』という本を出版したんですね。私はここ数年、いじめ、非行というのはマニュアルの決まったやり方で必ず解決できるというふうに教育者が言うと、「これは、まやかしだ」という話を必ず入れるようにしていますから、「あっ、すごいまやかしの本が出たな」と。しかし笑って済ませられないんですね。その宣伝ちらしに書かれていることなのですが、向山洋一編で実践例があがっているんですけれども、どういう内容かというと、小学校2年生で、クラスで同じ班で、机同士を子どもたちがくっつける。ところがいじめられている子どもが、3センチだけ机を離して座っていた。それを担任の教師が、その3センチ、30センチなら私の教育力量で、これがいじめだと誰でも見抜けられるはずだろうと。「この私ですら」というか、「3センチの隙間に気づかなかった」ということで自分を責めているんですね。「何という教師、ふがいなさ」ということです。それで「この3センチを離している子どもがいるんだよ」と言って学級で話し合いをしているわけです。子どもたちに投げかけているんです。「給食の時、一人だけ机を離す子がいるんだよ。しかも先生にわからないように3センチだけ離すんだよ」そうすると子どもたちが「えー!」と言う。「これって、どう思う?」と教師が言う。すると子どもが「それはひきょう者がすることです」と答えているんですね。「君はどう思う?」「机をつけてもらえない子がかわいそうだ」と答えている。すると先生が「こんなこと許せるか?」すると子どもが「許せない」それで先生が「本当にそうだよな、許せないと思う人は手を挙げてください」全員手を挙げる。それでその記録には、「全員の手が再び天井に突き刺さった」と書いてあるんです。あと紹介している文章を読みますと、「いじめていた子たちは、完全に孤立状態。いつの世でも子ども集団が持つ正義感は健在だ。私はそれを味方につけた」そして最後に一言「今度同じようなことがあったら、クラスのみんなと先生を敵に回すことになるんだ。心しときなさい」と、こういう形で締めくくった実践例が紹介されているわけです。「以後、この手のいじめはピタッとなくなる」翌日の日記には、『ぼくはいじめはきらいです。でもときどきやってしまいます。これからは絶対やめます。そんなものは用水に捨てます。かわりに人を助ける良い心を今度は用水から拾います』これで締めくくっているんです。

 もう私は、ぞっとしたんですけれども、要するに単純な、よく言われる厳罰主義、強制、心がけ主義です。これだったら、小学校に2年生で、いじめた側の子どもはどうなるのか、救われないなと思うんです。私は、低学年の授業もこれまでたくさん見てきましたし、幼児教育の現場は今でもしょちゅう見ますけれど、いじめなんてのは日常茶飯事です。やはり大人の世界を反映しますし、またこれから社会性を身につけていく子どもたちですから、ちょっとしたことで、トラブルに発展するわけです。つねった、けった、けらないとか言って。それを全部こういう形で収めていくというよりは、要するに基本的にそういう、社会関係の力をこれから少しずつ身につけていくような教育実践そのものが、教師の間で議論されていかなければいけない、そういう時期だと思うのです。もう「いじめに対してこうやればいい」という答えがローラーみたいに引かれているというか、「教育はこうしたらうまくいくんだ」式のマニュアルの最たるものが、いよいよこういう形で出てきています。まだ百マス計算なんかかわいいもので、こういう人間形成の機微に関わる問題で、教育再生会議にかかったら、「子守歌を0歳の時に歌うか歌わないかが勝負だ」と。そんなの、歌わない親はいないわけで、それを何で上から言われなければいけないのか。本当に狂っている世の中になったなと思います。


「教師の役割」に対する教師と父母の見方の違い

 「教師の役割」に関して、今、学校の先生が「やるせない」というのは本当に、それで処理しなければいけない文書攻撃ということで、まあ私もいまそういう仕事に携わっているのでよくわかります。教師の役割変化、子どもとなかなか交流する時間がないのだということは、文科大臣まで届いたようですけれども、レジメの4ページのところにお見せしているのは、最近、我々が教師調査した結果なんです。図の作り方がまずかったものですから、表がちょっと読みにくいかも知れませんが、意味だけご紹介しますと、左から棒グラフが「思う・思わない」の組み合わせて、@〜Eまでいっています。@というのは、図の上に書いています「教職は専門性を必要とする職業だと思うか、思わないか」。Aは「教職はつねに研修・研究が必要な仕事だと思うか、思わないか」。Bは「教職は同僚と協力・共同が必要と思うか、思わないか」。Cは、「教職は父母・地域の協力を必要とすると思うか、思わないか」。Dは、「教職は社会的に尊敬される仕事と思うか、思わないか」。Eは、「教職は自分の考えに沿って自律的にやれる仕事だと思うか、思わないか」。

 この6つの設問に対して、回答傾向が教師と保護者で違う項目があります。教師と保護者は、@〜Cは、全く同じ解答の傾向です。90%以上、みんな教師も保護者も、専門性を必要とする仕事、研修が必要、父母・地域との協力を必要としますと。教育運動でよく言われますが、「父母・地域と協力・共同しよう」と言われますけれども、これはもうみんなわかっている。少なくとも意識の上では。

 ところが、実に見事にDとEが正反対。5割以上の保護者がそうは思っていない。教師はそう思っている。それが逆転しています。図が見にくいんですが、数値はちょっと紹介しませんが、そういう意味です。つまりDの「教職は社会的に尊敬される仕事だ」と教師は圧倒的にそう思っているんだけれども、父母は思っていません。それからEの「教職は自分の考えに沿って自律的にやれる仕事だ」と、教師は思っているけれども、保護者は思っていない。この見事な逆転をどう解釈するか。これが現時点の状況ですね。

 ということで、それは我々の討議の課題になるわけですけれども、だいたい教師の自律性の理解というものについてのずれがあるわけです。この「自律性」をめぐって、非常に複雑な意識状況が社会にあるということです。実際に保護者の中にも教師は入っているわけですしね、教師の多くは同時に保護者でもあります。にもかかわらず、保護者は自律性がある職業だと思っていないんです。それは、もしかしたら、保護者にとって教師は保護者と離れた勝手な行動をしてもらっては困るということなのかもしれません。教育本来の共同性を示すものかもしれませんし、保護者のエゴが含まれているかもしれません。

 他方、教師のほうは自律性があると思っている。申し上げたように、教師の役割というのは「専門職だ」という共通意識は定着しているわけです。少なくとも表面上は。しかし、実態がどうかが問題です。というのは、教師も意識では「自律性のある職業だ」とみんな思っているわけです。それは当たり前だと。弁護士や医師の専門職性を担保するもっとも重要な原理は、自律性ですから、やはり自律的な職業団体を持つかどうかということです、伝統的に。そういう意味では教師が、自分たちの教職員集団が自律性があるというふうに考えるのが、当然だと思うんですね。しかし、現実は違います。決定的なのは昨年の2月か3月でしたが、東京都は今ズタズタですけれども、東京都教育委員会は現場に対して「職員会議の挙手による採決をしてはいけない」という通知を出しましたから、だから文字通り伝達機関というのを絵に描いたようにというか、運営上も徹底させたわけですが、民主社会ではあってはならない事態です。これだったら子どもに対して民主主義なんて語れない。教師のおかれている状況が、挙手による採決もやったらあかんというわけですから、そういう強圧的な自律性の破壊が、実態が違うという、意識の上では自律性のある職業だと思っている、圧倒的に。だけども、実態がそうではないという置かれた現実の状況があります。多かれ少なかれ姿を変えて、京都もそうですし、いろいろ自治体によって違うわけですけれども、現実がそうではないということが、教師の心模様にダメージを与えるに違いないと思います。どれだけ、教育が本質的に民主主義に関わる仕事だとすれば、教師の良心をどれだけ傷つけるかということは推測できるわけですね。


国家統制を伴いながら新自由主義が進行している

 「世界は新自由主義の時代だ」と言っているにも関わらず、新自由主義が勝利したようにみえるこの言葉が世界を飛び交っております。実態をみると、他の先進国もそうですが、日本ではとりわけ国家統制が強まっている特徴があります。世界中、国家統制を伴いながら新自由主義が進行しているという点から見ると、今日の時代の最も深刻な矛盾の一つで、それがダイレクトに教師の世界に入ってきている。

 教師が自律性を持った、特に教職員集団が、あるいは教師の振るまいが、それはある意味当然の根拠を持って「自律性のある専門職だ」と言っても、保護者にとっての「自律性」というのは、「自律性を持っている、いやそんなことはないだろう」という、そう解答する裏には、私は「勝手にやってもらったら困る」という「自分の言い分も聞いてもらわなければ困る」という、「そういう自律性のある仕事ではないんだろう」という願いがあるだろうと思うんですね。典型をあげると、最近特にマスコミで報道されているのは、昔から我々にはわかっていて、お互いに議論をしあっていたことですが、大阪の、あの「いちゃもん」の議論ですね。保護者がいちゃもんをつけるという。だから、それは否定的な形で学校に出てくるわけですけれども、ともかく無理難題を保護者は学校に押し付けてくる。

 しかし、保護者の意識からするとですね、すべて無理難題も含めて教師はやってもらわなければいけない。しかしある意味では「勝手にやらないで、我々の言うとおりにやってもらわなければ困る」という願いがひそんでいます。これは奥底には子どもに対する成長・発達の願いがあるんだというふうに、いくら頭に収めても、教師の側は困ってしまう事態です。「朝、子どもが起きないから、先生が起こしてくれるのが当然だ」というふうに「電話をかけてくれ」というたぐいの無理難題も、保護者にとって疑問を持たれない時代というのは、やはり教師の専門職性は一回白紙に戻してみる必要もある。それは、従来の、66年のILO勧告の「自律性を持った専門職」というのは未完の提言であったかもしれないという問題があるからです。社会に根付くかどうかという点から見ると。それは日本だけじゃなくて、世界的に我々の業界では問題になっていて、特にヨーロッパ、著名なカナダ、アメリカの学者たちも、当時の専門職性論というのは、ゴールデンエイジのものであったというふうに規定をし直し始めています。日本ではこの問題について早くから手を付けていた一橋大学の久冨善之さんも、それに最近倣われました。

 つまり、振り返ってみると、50年代、60年代、70年代が典型的だったわけですけれども、どういう時代だったかというと、50年代は、まだ高校進学率は5割行っていなかったわけです。だから大衆教育が60年代に急速に進んで、高校進学率が9割を超えたのが75年ですから、50年代から60年代というのは、教育大衆化の時代はすべて悪かったわけでもないし、良かったわけでもない。つまり非常のゆがんだ形の大衆化が進むと共に、確実に戦後の民主主義的な、教育の民主化が進んだ。進学率の面で大衆教育が中等教育で成立したわけですから、圧倒的に少なくとも矛盾をはらみつつも、国民の支持を得たわけですね。ゆがんだ形ではあったわけですけれども、教育予算を投入する。だからそういう意味ではこれを清算的、否定的に言うのはダメなんですけれども、我々はもう一度この専門職性のあり方をレベルアップさせる、今日の時点で、今日の新たな民主主義の観点からつくっていかなければいけない、そういう時代なのではないか。そこで、教師のリアルな教育実践の実態と生活実態を合わせて役割論議を本格化すべきだろうと。同時にその点に専門職性の議論を難しくしている大きなファクターがある点があるのではないかというわけです。まさに教育の企業化であり商品化が核にある、これも国際的な、日本でも特化している動向に他ならないわけで、この商品化動向が専門職性の形骸化を一気に進めているにちがいありません。つまり60年代70年代というのは、少なくとも公教育が一定の「安定性」を保って、その上に教師の役割が一応信頼されていました。教師の運動も、民間の教育運動もみんなそこに乗っかっていた。これは清算的に申し上げているのではなくて、今の時点でさらにレベルアップしようという議論なので、かんべんしていただきたいと思うんですけれども、しかし、私自身は小さい頃から塾に行ったことは一回もないんですけれども、日本社会の裏の世界では、70年代80年代、たぶん表の民主教育の世界と裏の世界が合体して、みんな塾に行って受験戦争で突破するという、つまりお金を教育にかけてやっていくという日本社会の国民的常識が広がったわけです。塾産業がすべて悪いとは決して言えませんが、そういう意味では、今日、残念ながら教育の企業化、商品化が深く定着した面があるといえるのではないでしょうか。

学校の本体の商品化が進んだ

 だから、いよいよ最後の公教育の堰が、今日、ダムが崩れた形で学校の本体の商品化が進んだというふうに言うことができるのではないかと思います。だからこのことが、学校教育の教師の役割論議を非常に困難にしている。教師自身も展望を失っているし、自分の仕事と民間の人の仕事との区別がなくなっているということなのではないかと思います。  それと、もう一つ、この議論で大きなファクターを指摘しておきたいと思うんですが、従来というか現在でもそうなんですが、教育の議論をする場合には、学校(教師)と地域と、この二つの大きな領域でもって議論されがちで、現在もそうですね。しかし、我々は現実世界をくみ取る場合に、もう一度問題の設定を、土俵の作り替えをする必要があるのではないかなと思います。それは、子どもを取り巻く教育環境の変化として、学校と地域だけで本当に子どもを育てているかというと、そうではなくて、もっと言うなら子育て環境の重要なファクターがあるということです。父母・家庭と学校だけではなくてですね、それはもちろん基本なのですけれども、引き続き二大ファクターとして。しかし、もう一つ重要な消費文化というものがあるのではないか。消費文化というと、家庭の中に入ってくるテレビとかゲームとか、インターネット、ケータイですけれども、これらが子育て環境の主体的ファクターだというにはおかしいじゃないかという反論がありうるかも知れません。けれども、これははっきり大企業の母体が子どもの子育てに深く影響する主体として、子育ての内容にまで入り込んでくる事態を注視する必要があります。なぜなら教育環境の文化面に最も影響を与えるのは、やはり消費文化であるからですね。だからはっきり土俵の作り替え、子育て環境のファクター、地域と学校と消費文化、あるいは消費文化産業というふうに三本立てに置き換えるべきではないかと思います。

 この話をするときりがないと思いますけれども、私は昨年12月に東京に出張するときに新幹線に乗っていったらですね、クリスマスの前日で、クリスマスプレゼントに使われた費用のテロップが、調査機関によるテロップが流れていて、びっくりしました。1億数千万円使われた。プレゼントのトップが、ゲーム機とソフトだったといいます。

 一部の識者によれば、子どもの非行が起こると、子どもの発達のゆがみがあるとゲーム機のせいにする議論もありますが、まあ公平に見て、ゲーム機や消費文化そのものを攻撃するというのは、さきほど私が申し上げた教育決定論を避けるという意味でも、警戒をしなければいけないし、私自身はゲーム機自体が悪いとはちっとも思っていません。やはり子どもの成長・発達の環境ということで、少し精査していく必要があることは間違いないだろうと思います。

 細かい話ははしょりますが、この問題に最もコミットしている人に中西新太郎さんがおられますので、彼の議論ともかみ合ってまたやっていったらいいと思うんですね。要するにさきほどから申し上げています学校と家庭の間に軋轢、きしみを生じさせているの最大の理由は、やはりメディアを軸とする消費文化社会の展開にある。コミュニケーションを困難にしている。やっぱり、ある一定の人生観も遊びの世界も、全部「垂れ流し」をして、非常にそういう世界を分断していっているという。ゲームはそれ自体悪いわけではありませんが、犯罪ゲームや戦争ゲームで、私はしていないし持っていないんですけれども、テレビの報道を見る限り、現実のイラク戦争の場面をそっくりそのまま持ってきて、そこにキャラクターを載せて動かして、実際に殺した場面で運用していくという、こういういわば消費文化自体が見過ごすことの出来ない価値的なメッセージを持っているということですね。それはやはりすぐれて教育的な歪みを持っている、見過ごせないということで、一事が万事ですね。そうでなくても、中西氏が喝破するように、良くも悪くも子どもの今日の自立の過程というのは消費の文化の力を借りるものです。また、それが人間を孤立化させるメカニズムとしても作動する事実があるわけですね。最初に申し上げた青年期の就職活動までぶつ切りの分断化になって、ネット、ケータイが入ってきているといったような例ですね。

 そういうことで、この教師の役割論議というものを新しい社会の中で更新させ、新しい民主主義を構築していく際の組織者としてまさに、また専門家として、それから労働者として立ち上がっていく、そういう議論ができたらいいと、教育センターにかかわる者としてはですね、思っている次第です。


4月24日に行われた全国学力テスト

 レジメの最初に戻りますと、そういう教育をめぐる情勢全般をめぐって、教育政策が新たな段階に入ったということですね。それで、その新たな段階に入った最も直近の事件というのは、言うまでもなく4月24日に行われた全国学力テストです。このことにつきましては、今月の20日に発売されます雑誌のクレスコに私が書きましたので、それを読んでいただければと思いますが、どういうことを書いたかと言いますと、この全国学テに対する批判は、もう昨年から予備テストもやられました。それと犬山でそれをやらなかったということもあります。

 今回は、実施されたという新たな情勢を受けてですね、しかも教基法が改悪された段階で、学習指導要領を、彼らなりに、本当はもっと早く出るはずだったんですけれども、教育三法を通し、学習指導要領を改定してという新たな日程が入ってきたので、それに対して新たに、新しいテーマを持ち込むというのっぴきならない課題と合わせて、この学テがやられているんだろうと思います。

 今回は、実際にやられたテストの内容問題、あるいは実施の方法をめぐって議論を深めるべきだろうと、そこに対して一、二問題提起をしておきたいと思います。  今回の学テは、60年代はじめの全国一斉学力テストと似た面があるし、違う面もある。似た面というのは、当時生じた教育荒廃と同じような特徴がすでに出ているということです。それもまた現在イギリスで派生している荒廃した事態と全く重なっているということですね。それに対する着目、反省というものが安倍首相の「美しい国」の著書の中にはありませんけれども、その教育再生会議を後押ししている「日本教育再生機構」も、その理事長の八木秀次氏も「自分たちはイギリスの教育改革を後追いする」趣旨を書いています。学テによる教育荒廃という事態から見ると、60年代の再現をほうふつとさせるのですけれども、私が大変心配しておりますのは、内容面の「斬新さ」です。従来のテスト、日本社会にはなかった新しいテスト内容が現出している。これは当然予期されたんですが、一言で言いまして、文科省の言う「ピザ型学力」ですね。読解力向上を目指すというようなピザ調査で用いられた問題に似せた内容が出題されておりますし、記述式の問題が非常に重視されております。問題Bは小学校においては8問中6問が記述式ですし、それから図とか画像とかが表示された文書、印刷物、チラシなんかを読みとらせるというのもピザと似ている面があります。しかし、似てもにつかない点も重要です。ピザというのは教育政策を考えるためのサンプリング調査なんですけれども、日本は、まああってはならない、あろうことかと言うか、悉皆調査をやっている、これも後で話す重要点ですが。


子どもの表現力、読解力を求める点に焦点が当てられている

 問題提起をしておきたいのは、この試験問題を見ると記述式が多い、特に子どもの表現力、読解力を求める点に焦点が当てられている問題です。これは、斜めから見ますと全く戦後数十年に渡って日本の民主的な教育運動が営々と努力してきた観点なのですね。つまり60年代、先ほど申し上げた、50年代、60年代、70年代と進んできた、定着させてきた日本の受験学力というものは、機械的な暗記主義に終始し、またその尾っぽは切れていない面があったわけですね、現在も。で、ピザ型の全国学力テストを見ると、また予備調査を見ると、これはもう今後の予備校の問題も含めて、今後日本社会の学力テストは、かくあるように様変わり、一変するのではないかと言われています。すでにそういうふうに関係者も塾も動いております。

 本当にそれでいいのか?いやあ、今まで現場もそういう子どもの自由表現を求めてきた、自由記述を求めてきたと言う方も多いわけですが、私は深刻な矛盾が新たに生まれたなと思っております。

 レジメ1ページに戻ってほしいんですが、1ページの下の両括弧の2の上に、深刻な矛盾で@〜Dと五つ指摘しておりますが、@は、今回この記述式のような解答を求めたばっかりに、この採点がやっかいなんです。いくらベネッセの社員が採点するとしても、社員では百万単位の回答者の数を公平にやれるはずがない。体育館にバイト生を集めて、集中的にレクチャーをしてやると。だけど、当事者や住民のレベルから見ると「評定の基準」がどこにあるかと言うことが重要であり、公開されなくてはいけない。これは矛盾の焦点のひとつになるだろうと思います。さらに、どんなに考えても、解答の正答を見つけることが不可能な問題がたくさんあります。一つだけ言うと、チラシの「みなさんおいで」というチラシ文の正解を求める例で、正答例を文科省でみると「ぜひおいでください」となっているんです。関西にいたら、桂三枝風の「ぜひ、いらっしゃい」でもいいですしね。あえて言うならば我々の議論では、「『おいで』がなんで悪いの?」という国語の先生もいらっしゃいました。だって子どもは、テレビのキャッチで流れているんだから、コマーシャルの。それが「おいでよ」とか「おいでー」とかいろいろある。「おいでー!」とか言ったら、ちょっと荒っぽくなるけれども、口頭表現になると「丁寧な表現形式」はまさに多様になるのであって、全国の方言を入れると、この答えはたぶん採点者の手に余る多様さがあるに違いない。ぜひこれを公開してもらいたいと思うんですけれども、そういう問題が記述式の評定につきまとうという悩ましさがあります。これは根本矛盾です。

 それから自由記述を求めているのですが、やっぱり態度主義と道徳主義あるいは操作主義になってしまう。算数・数学と国語の問題ですけれども、環境教育の問題が1問ありますが、これはやはり「自分たちはゴミを捨てたらあかん」みたいな態度主義の例としかなっていない問題だとかですね。それから全体に表現の推奨を求めているんですが、それを「評定」として答えを求めるあまり、正答があるわけですから、しかも点数を出して、学校のランキングをするというわけですから、これは表現が最悪の定型化として、いわば国家管理の表現として定型化を迫られるということになり、これも最大の矛盾です。だから、営々と戦前から求められた、教育現場では子どもの自由な表現、あるいは書き言葉でいうと生活綴り方のような子どもの表現をよりあわせてクラスをつくっていくといった方向とは対極にある、こういった本来の教育実践の根幹をゆるがす、いわば国家管理と言いますか、子どもに表現のレベルで詰めていくという、そういういわば矛盾があります。それから「評定と評価の混同」についてですが、文科省の議論も今回の学テをめぐる議論も含め全部「評価」論として議論されがちなのですが、私は非常に不満です。それは何かというと、これはみなテストの世界に閉じ込められるいわば「評定」なのですね。評定の議論というのは、まずは社会的な機能が問題になります。社会的な機能は文脈によって千差万別で、評定のテストの効用というものを考えると、例えば中学受験なら中学受験としてはあってはならない評定、高校受験は、私は将来的にはあれはなくなってもいいと思うけれども、その評価をどうするかということは、独自の、大学の評定とは別個の問題として議論しなきいけない。それが全部切り離されて、今回の問題というのは、国際的にもピザ調査と重なっている、パフォーマンス評価論と重ねて安易に議論するのも注意が必要です。テストというのはその都度、その社会的な文脈の中で、社会的な機能をもったところにその本質があるのであって、そのことが議論されないことが本当に深刻だと思います。

 そういうことで、いわば従来の日本社会を悩ませてきた教育実践の中枢に向かって、つまり記憶・暗記主義、あるいはセンター入試などで人間の能力を狭めてきた、ここの操作的な「学力形成」に手を付けた。ですから、うっかりすれば、従来の受験戦争を批判する立場からみると、「この新しい学テはいいじゃないか」という感想を持ちかねない。

 しかし同時に、まさにその点をめぐってすごく深刻な矛盾を持ってしまったということを言いたいのですけれども、五つめに、Dと書いたのは、「学ぶ」とか「知識を身につける」とか、我々が教養を持つということは本質的に人々の共同の作業であるし、人々の連帯を広げるものに、人々を結びつけるものであるはずなのです。それは子どもと教育実践のあり方によって多様だし、そこで我々は実際に悩んでいるわけだから、そう言うリアルな問題が本当の意味でのいい矛盾点といえるのだが、ここと決定的にすれ違ってくるだろうと予測ですね。だから、本当に学力や知識や教養というものを問題にするなら、人々を離反させる学力なのか、それとも本来の教育のあり方にふさわしい人々を結びつける学力なのかということは、常に入口から出口までプロセスすべてにおいて問題にならざるを得ないと言うことが学テの本質的にはあるだろうと思います。


再生会議の中に専門家が入っていない

 レジメの2ページは、その傍証となる文科省の資料とか、それから後で議論になるので、2ページ下の教基法「改正」以後の、これから憲法「改正」に向かう教育三法、それから3ページ上の教育再生会議の資料を書いています。なかなか議論は難しいですね、教育再生会議には「日本教育再生機構」が暗躍していると言う問題もありますし、再生会議の中に専門家が入っていないということもあって、散髪屋さんには悪いですけれども、いわゆる「床屋談義」といういわば雑談のレベルで、非常に誠実な方が「こんな議論、相手に出来ない」ということで、なかなか議論の中に入りにくいという問題もはらんでいるので、しかし持っている問題というのは、ものすごく深刻だと思います。

 そういう意味で、3ページの下の「終わりに」で、私が「今、学校現場が岐路に立たされている」と書いているのは、そういういわば実践のレベルで、書くこと、表現のレベルで、教師が子どもに表現の自由を狭め定型化する、いわば侵害する形で迫るのか、そういう立場に立たされるのかどうかと言う、本当にのっぴきならない岐路に立たされている現実についてです。これは仕事の中身に関わるということで、頭の芯を痛めることを恐れますが、しかし他方では戦前の大変な時代でも、表現の自由を大切にする実践に努力されてきた痕跡が残っているわけですし、今の時代は全く条件が違うわけなので、お互いに改めて教育実践を持ち寄って励まし合うという、そういう作業がますます重要になってくるのかなと思います。

 4ページの最後のところには、しかし教育決定論もそうなんですけれども、次から次に「モグラたたき」みたいに違う問題が出てきて、こういう所で議論していくと問題の根っこは共通だと言うことがわかるのですが、一つ一つの問題に、もう「途方がくれる」というんですか、そういう気にもなります。だからこそ、自分に言い聞かせている言葉ですけれども、「解決には時間がかかるなあ」ということを、私たちは考えておかなくてはいけないのではないか。なぜならば、今起こっている事態は世界現象なのであって、この新自由主義の克服には、世代にまたがる時間が想定されるということですね。

 その次の教育計画を議論するためにいろんなものを持ち寄る段階だと思うんですね。そこにさきほど最初に言われた野中先生が「教育基本法というのは確実に新しい問題、未完のプログラム」と言われる課題が提起されていますし、憲法がむろんそうです。私は解決に時間がかかると言うことをお互いに頭の隅に置きながら持ち寄りましょうよ、というふうに自分に言い聞かせているのは、今の成果主義で子どもや学校間や、先生間を競争で断ち切っていく力というのが、余りにも強いので、この問題について教師の役割論議ではありませんが、ILO、ユネスコの機関におられるこの問題の担当者の方、私はこれまで十数年以前からお会いしている方なんですけれども、今年はなんと初めて調査団を日本に送ります。秋、暮れにね。私は去年もILOの機関でお会いしましたが、その時に、この教員評価の日本や世界での現れ方について、ラトリーさんという担当者の方もご存じですし、私も関西の教師調査の結果を英語版をお渡しているんです。で、その議論をやりとりしていて、十分理解されていると思うわけですが、全教本部からもデータはたくさん送られていますし、今ちょうど、ILO、ユネスコ勧告の解説書改訂版が出版直前で、そのこともあって、勧告が何とか成果主義批判の方向に動いて新たな合意の道筋を先導してほしいなという希望もあって意見交換をしたりもしています。

 「教員評価にあらわれる成果主義の克服などにはどのくらい時間がかかるのだろうか?」と質問したら、「事柄の性質から世代にまたがるのではないか」といわれました。世代というのは、通常社会学では30年ということなので、「30年かかるんか」と思ってがっかりしたんだけれど、言われるには、やはり国家主導で動いているから、国民国家があるかぎり、これだけ結束して動いているかぎり、その方針が変わらないと国際機関としても動けないということもあるようです。OECDのピサの調査があれこれ言われますけれど、結局は国家間競争に使われる面もあるわけで、その点でのOECDへの批判的なスタンスは学力論をめぐる論議のなかではまだあまりありません。ですから、現場にかかわる立場上、手をつけて動き始めなければいけないかなと思っておりますけれど、もっと教育現場の教育実践の事実に即してですね、ぜひリアルでていねいな議論にしていければと願っております。予定の時間を大幅に超過してすみません。これで終わります。ありがとうございました(拍手)


(この後、八木先生の講演に対する質疑応答が行われました。この詳細は「京都教育センター 年報20号」に掲載されています。極めて有意義な議論が展開されましたので、ぜひお読みいただければと思います。) 
2008年3月
京都教育センター
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