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★★講演記録を一挙掲載!!★★
京都教育センター年報 第20号(2007年度)

「第38回京都教育センター研究集会 記念講演[要旨]

未来を拓く教育を−−教師の仕事と学力の形成
−−新しい学力評価・管理システムと新指導要領体制批判−−

講師 佐貫浩 先生(教科研副委員長/法政大学)   
日時 2007年12月22日(土)午後1時〜3時   
会場 京都教育文化センター302号室


 本記録は2007年12月22日に行われた「京都教育センター研究集会」の記念講演として行われた佐貫先生の講演をセンター事務局の責任で編修したもので、文責は京都教育センター事務局にあります。見出し等は編集者がつけました。


 今、本当にものごとをダイナミックに考えることができる、そういう時代と状況の中に私たちは置かれていて、そのダイナミズムを頭脳の中に写し取ったときに、人間もダイナミックに思考し行動することができるようになるのではないかと感じています。しかし現実は、新自由主義が作り出す独特の圧力や論理に圧倒され、浸透されて、私たちが現に今その上に立っている歴史の転換点が見えないままでいる。そういう地点に今私たちは立っているのではないかと感じています。本当にその時代の性格を把握した時、大きな可能性と新しい視野が広がっていく、そのダイナミズムを捉える視点が今求められていると思います。そういう観点でいくつかの柱立てで、話をさせていただきます。


(一)「学力低下」問題をどう見るか

 第1点目は、この数年間「学力低下」という言葉が流布され、浸透させられるなかで、それに基づいて教育政策や人々の教育行動が大きく組み替えられてきたという事実をどう見るのかという問題があります。「学力低下」と今日の事態を評価して良いのかという問題がありますが、確かに学力形成をめぐる困難が拡大し、一定の計測可能な「学力」が数値的にも低下しつつあることは否定できないと思います。

 ではどうしてそうなっているのか。その原因は、私はきわめて明快だと思っています。第一の原因は、「社会の階層格差の拡大」ととりわけ底辺の貧困層の増大ですね。後藤道夫さんに推計によると、今、子どもの3分の1が貧困世帯の中で養育されている(『人間と教育』54号、旬報社「ワーキングプアの急増とその歴史的意味」参照)。そしてその底辺の子どもたちが大きな問題を抱えて、学習意欲が低下したり、虐待も増加している。日本社会から子どもが健全に成長していく条件が、この間急速に奪われてしまった。

 第二に、「教師の主体性の剥奪」です。困難に直面している教師が、「こういう子どもと今全力で取り組まなければいけない」という思いで格闘し、そしてそれをみんなが、行政も支えるということが必要であるにもかかわらず、そういう支えや励ましがなくなり、逆にいま「教師は具体的に自分の頭で考える必要はない」という所まで管理が強化され、「学力テストの点数が何点」という形で教師の仕事も全部点数化されて測られるようになりつつあります。教師の創造的な力を引き出すシステムが奪われてきています。

 第三には、この間の「政策の迷走」が非常に激しいですね。「総合学習」や「ゆとり」を言っていたかと思うと、今度は「基礎学力だ」となったりして、迷走しています。現場の先生方が自分で考えて、納得のいく形で試してみて変えるというのではなしに、上の方からコロコロ変わっていく。そして常に「新しい」指示で教師の行動を無理に組み替えようとしています。そのため現場は次々と新しい課題を押しつけられて、大量の報告づくりに追われるという悪循環に陥っています。まるで文書の量か改革の量であるかのようになっている。こういう中では、統一的な教育力量が現場に蓄積されていきません。

 第四には、教育予算が非常に少なく、それがさらにこの間削減されています。子どもたちの困難が明らかに増大しているなかで、教師の定数の改善、少人数学級の実施は第一に取り組むべき最優先課題です。

 第五には、日本の場合、フィンランドとかヨーロッパ諸国と比べると底辺の子どもに対する特別な支援策が非常に少ない。大量の落ちこぼれが生み出されている事態に対する特別策が何もなく、自分でお金を出して通う塾に任せっぱなしになっているというこの異常さを何とかしないと学力の平均点が上がるはずがありません。 これらの明確な「原因」を取り除かなければ問題が改善するはずがないのに、政策の側は、学力テストなどで競争をもっとシステマチックにやれば学力は向上するという論理にしがみついている。

 しかし今までのような競争の魔力はもう通用しなくなりつつあります。興味ある数字があります。OECDのPISA2006では、イギリスが、読解力でPISA2003から7位から17位、、科学的リテラシーで4位から14位、数学的リテラシーで8位から24位と全部落ちています。日本の教育改革は「イギリスの学力が上がった」というので、あの競争システムをまねようとしたものです。イギリスでは全国一斉の「リテラシー・アワー」(読み書き訓練)とか、「ミューメラシー・アワー」(計算訓練)が設定され、基礎学力向上のかなり機械的なスキルが行われるようになっていますが、社会格差の拡大と、詰め込みのストレスなどでかえって矛盾が深まってきています。そしていわゆるPISA型学力は低下しつつあるという結果が出ているのです。日本をまねてイギリスは基礎学力向上策を取ったわけですが、そのイギリスの「改革」を手本に学力テストと基礎学力の向上を再輸入するというのは、どう考えてもおかしなことです。

 日本は1960年代から、そういう意味の基礎学力をあげるということは、受験競争システムの中で世界に例の無いほど緻密に行ったのです。その結果、世界に例のないほどの「基礎学力の高い」子どもたちが生まれたわけです。しかし、そういう「競争の教育」が矛盾を拡大し、落ちこぼれ、不登校、イジメ、学級崩壊などを量産し、学力もいわゆる日本型詰め込みで、思考力や主体性の喪失を招いてしまった。その結果、PISA型と言われるような試験問題に対応できなくなってきているのです。その日本のベクトルをまねたイギリスの教育改革を手本にしても、日本の教育問題はいっこうに解決しないどころか、もっと矛盾を深めてしまう。

 この学力や学習意欲が低下している一番の理由は、私は、この10年間の日本の新自由政策それ自体にあると考えています。さきほど言いました社会の階層格差の増大はまさに新自由主義の「成果」ですね。その結果、勉強のことなど考える余裕がない、さらには子どものことなどかまっていられないという貧困階層を増加させているのです。それから教育予算の削減もまた、新自由主義の構造改革の最も重要な「成果」であるわけです。新自由主義の論理は、「構造改革で、公的な費用を削減」し、公的サービスも「民営化、民間活力の利用」で行けということです。だから私費負担が増える。2008年度の予算をめぐる文科省と財務省の交渉でも、「全体は公務員を減らしているのに教師を増やすのはけしからん」という、議論が相変わらず続いてます。教師の数は絶対増やさないというのが新自由主義の路線です。その結果、あいかわらず「競争を強めれば学力が上がる」という論理が「学力向上」策の強力な指針になっている。そう考えると、新自由主義の政策こそが、日本の子どもたちの学力を低下させ、混乱させ、人間として生きる意欲を奪ってきている。それに対して、さらに競争を強めて「学力テストだ」というふうになってくると、これは後で触れるように、ますます子どもの生きにくさを拡大してしまうのではないでしょうか。


(二)新学習指導要領の問題点

 さて、そういう教育政策を学習指導要領の新しい展開によっていっそう進めようとする政策が今出されています。中教審の教育課程部会の「答申」((答申は講演後の2008年1月ですが、ここでは答申として議論を進めます――注)というのが出ました。ところが、これに対する批判が非常に弱い。今度の「答申」は、「PISA型学力に対応している」とか、「応用力が足りないことを克服の課題にしている」とか、「ゆとりによって落ちた学力を回復するんだ」等と言われて、今までの批判を表面的には受け入れたという印象もあって、「これで本当に効果が出るか」という疑問は提示するけれども、そこに含まれている本質的なものの批判は、ほとんど展開されない状況があります。特に一般の新聞の批判では、4つぐらいの欠落があります。

 第一点は、安倍内閣が倒れたということで、「これで統制は問題にならなくなった」という雰囲気があるんです。実は安倍内閣の掲げていた、一方の靖国派的な国家統制は少し後退するでしょう。しかし同時に新自由主義的な統制は、これは小泉政権の時代から、福田政権まで一貫して強まっています。学力テストによる教育内容の管理や、ニュー・パブリック・マネージメント(NPM)だとか、PDCAという学校の中に目標管理システムを組み入れるだとか、学力の達成度合いで教師を評価するとか、そしてそういう中に深くはめ込まれた学習指導要領は、新自由主義的な方向で教育内容を強力にコントロールしていくものですが、この点についての批判が非常に弱くなっています。

 第二点目は、新しい学習指導要領は、結局教育のなかで格差を広げ、階層化を広げ、そして学力を高める市場的な競争を強めるという新自由主義の教育政策をいっそう「無政府的に」展開させていく。学習内容の差別化を公然と奨励するものになっていますし、習熟度別の学習も進むでしょう。これに中高一貫学校や小中一貫校の新しいカリキュラムが重なると、複線型学習コースがまさに「多様に」広がってしまうでしょう。

 第三に、「生きる力」の論理への批判が非常に弱いですね。これは後で、今日の話の中心として問題提起しますが、私は率直に言って教職員組合や民間の研究運動からの批判も弱いと思います。

 第四に、実は21世紀にどんな「学力」、「能力」が求められているかという視点からの批判が非常に弱いと思います。「学力テスト」は、そういう本当に今、日本社会の転換のために子どもと大人が獲得しなければいけない人間の力量、能力、学力というものを教育の中心に据えるものなのか、逆に遠ざけるものかというふうに考えたときに、私は決定的に遠ざけるものになってしまうと考えます。新しい「学力テストシステム」は、単に統制するだけではなしに、新自由主義的な世界観、それに基づいて人間が行動し、強い者が生きのびていくのに必要な価値観や考え方、行動様式を、学力テストというスクーリニングによって、次第に社会の中に広がらせ、個人にも獲得競争をさせる。こういうものとして機能するものだということを、しっかりと押さえておかないと、「ワナ」にはまってしまう。

 このワナについては、――これはていねいに言わなければいけないんですが――、教育社会学というものが90年代末から今日まで、「学力低下」をある意味で非常に、統計学的な意味で「科学的」数値として押し出し、だから「基礎学力をなんとかしなければ」という方向を強めました。ところが、この方法では、そもそも学力とは何かということが明らかになってこなかった。「学力とは何であるか」という議論抜きに、数値で表れたものが学力であるという、いわば転倒した学力観が浸透して、それで「学力が落ちている」ということが「科学的」証明済みとして押し出されてきた。テストの質、あるいはあることを数値的に評価することの妥当性や可能性を吟味しないで、とにかくテストで出た数値が「これが学力だ」となって、それが「上がったか、下がったか」という。だから、我々が「どういう力をつけなければいけないか」という問題から見たら、罠にはまったなかだけでのこんな論争をやっていていいのかというのが正直な感想なのです。


(三)「生きる力」とは何か

 次に、「生きる力」をどう考えるのかが大きな問題です。「生きる力」はいったいどこから来ているのかということです。答申に書いてある「生きる力」というのは、子どもの分析から出てきているものではありません。この答申には、読んでいただくと一目瞭然ですが、本格的な子ども分析がない。ただ「生きる力」がないと書いているだけです。そして「ないから生きる力をつける」。ではその「ない」原因は何か、「それは生きる力に不可欠な学力がついていないからだ」となっているわけです。だから、「コミュニケーション能力」とか、「活用力」とか、「国語力」とか、こういうものを身につけさせなければならない、という構造になっているんです。「なんで生きる力がないの?」――「そういう学力がついていないからです」、こういう答えと問いが循環するものになっているわけです。

 そうすると、この「生きる力がない」という判断はどこから来ているのか。これは、グローバリズムの中の資本の世界的な展開ということからみて、その資本の活動を担って生きる人間に求められる「(生きる)力が足りない」ということです。資本が活力を持って生き延びるために必要な労働者の力(学力)が足りないということです。  グローバリズムの中で、日本の労働が非常に激しく階層化しています。これを私は4つの階層に分けてみたいと思うんです。

 一番トップの階層に、世界を支配し勝ち抜いていくための戦略を立てる、知的な戦略的労働があります。戦争で言えば将軍や参謀ですね。この部分は、世界全体を見渡して「どうやって勝利するか」という戦略をつくって、先手先手を打って、そこで必要な技術開発や投資をうまくやっていく。高度な管理力と統率力、理解力が求められる。

 第二の階層の労働は、同じく戦争のことばで言えば、戦場のフロンティアにあって敵と戦っている最中に全体を統率し、勇気をみんなから発揮させて、突撃させる指揮官ですね。企業の中では、いろんな所でそういう仕事が求められています。たとえばチェーン店の店長などもそういう役割を引き受けさせられていますよね。正規雇用の店長が一般の社員や大量のアルバイトを使って、ここの店でどうやって経営を成り立たせるか、アルバイトが見つからなければ、自分が夜中まで仕事をするとか、みんなを励ましてどうやってやるかということを指揮するというような仕事です。これはある程度の戦略的な判断能力や管理能力もいります。それから高度化したコンピュータを駆使できなければならない。みんなを教育する力も求められる。これもかなり高度な能力ですね。

 第三の層は、従来なら普通のホワイトカラーや工場での技術的な部門で働く人たちと言ってもいいと思います。しかしこの層は急速に二極分解しつつあります。一方で、コンピュータ技術がどんどん入ってきますから、従来の専門性や管理労働のかなりの部分をコンピュータがやってしまうわけです。そうすると、そういうコンピュータのソフトをうまく操作しつつ指揮や管理にあたる部分と、単純化されたマニュアル労働に分解していく。いま非常に増えているのは「データ打ち込み労働」ですね。

 第四の層は、一番底辺にある単純なマニュアル作業で、派遣労働なんかでやっている作業が典型的ですね。派遣の場合には、一日訓練すれば仕事ができて、一週間やったらおしまいというような働き方が、増えています。

 1995年に日経連が「新時代の日本的経営」という方向を打ち出して、雇用形態を「長期蓄積能力活用型」と「高度専門能力活用型」と「雇用柔軟型」の三つにわけて、後ろ二つを短期雇用化するという方針を出しました。それで一挙に短期雇用、非正規雇用が増大していきました。グローバル化と採用方針の転換で、一挙に雇用構造が変化していったのです。今、非正規労働が三割を超えて、もっと増加しようとしています。

 その中で、どういう能力が不足かというと、特に第一および第二の層に求められる力が足りないとなった。戦略的に思考し、高度の技術を使いこなし、さらに対人関係能力が求められるようになってきました。さらに第3次産業、流通業界、あるいはサービス業が増加するなかで、そのサービス(商品)をどう売るかを考えると、対人関係を重視して、信頼を獲得しないといけない。これはもう人間の人格的な力を含んだトータルな人間力量が求められる。非正規雇用の場合でもそういう対人関係能力が非常に重視されるようになってきました。日本の場合、1960年代から80年代にかけて、マニュアル化された労働を大量に必要とする大量生産システムで競争力を高めてきたけれど、それではもう世界競争に勝てない時代に入ってしまった。マニュアル化された労働は、もうフリーターとか海外の低賃金労働者に依拠すればいい。いま求められているのは、高度な管理統制能力と対人関係能力を持って、創造的に技術開発を進め、みんなを組織し、また顧客を満足させるキャラクターが必要だとなってきています。

 そういう文脈のなかで、「生きる力」が必要だとなってきた。ですからもっとわかりやすい言い方をするなら、それは資本と企業が生きる(生き延びる)ために不可欠な力を労働者に身につけさせろということでしょう。そういう「生きる力」を持たないと企業は世界競争には勝てないということですね。そういう目で今の子どもたち――将来雇用すべき人間――をみたら「こんなところが足りない」。だから「生きる力」が足りないと言って、「コミュニケーション力」や「読解力」「応用力」等々をもっと重視しろとなってきているのです。

 ところが、非常に奇妙なことに――いやむしろそういう文脈のなかでは当然のこととして――、この「生きる力」は、子どもたちが生きられない現実におかれているということから出発したものではないのです。実は、当然のことですが、「生きる力」を身につけるためには、子どもが一生懸命生きようとすることが必要なのです。子どもが未来に希望を持ってよりよく生きようとする意欲をどう引き出すかということなしに、生きる力の獲得は子ども自身の課題とはなり得ないのです。]

 『児童虐待』という岩波新書がありますが、この中で、孤立した子育てのなかで、あるお母さんが、どうやったら子どもが立って歩くのかとか、言葉はいつ頃話すのかということがわからなくて、「うちの子どもはまだ立てない、大変だ」ということで、手を引っ張って歩かせて、寒い頃だったので〇歳児の赤ちゃんの足がしもやけになったという話が紹介されていました。赤ちゃんは、歩く前に、「立って歩きたい」という内的意欲が形成され、興味ある物が向こうにある、這って行きたいと思い、その衝動に突き動かされて、這い、つかまり、腕で体を支えて頭を上げ、腕の力が付き、つかまり立ちができるようになって、高いところのものがさわりたくて、いっしょうけんめい立つことを試み、やがて立てるようになるわけです。「生きる力」もそれと同じだと思います。

 ところがこの「生きる力」路線は何かと言うと、この赤ちゃんが立って歩けるためには、たとえば腕の力が5まで必要だとか、足の力が6まであれば立てるとかいうふうにして、立って歩ける時のそれぞれの部分の筋力などを数値化し、それらの部分的な要素を別々に訓練し、それらの要素が全部そろったら歩けるようになるというような考え方をしているわけです。ですから部分を訓練する時、赤ちゃんには立って歩きたいという意欲がない。だから親が手で引っ張って、無理に歩行訓練させるというおかしなことになってしまう。「生きる力」路線は、まさにこういう「生きる力」を構成している部分要素を個別に分解して、国語力とか、コミュニケーション能力とか、活用力とかとして獲得させ、それらが全部獲得できれば生きる力が獲得できるというようにいっていることになるのです。

 正高信男著『0歳児がことばを獲得するとき』という中公新書がありますが、ここでおもしろいのは、実は赤ちゃんは言葉を獲得する以前に、すでに親と赤ちゃんとの間に、非常に微妙なコミュニケーションが成立しているということを指摘しています。お母さんの顔をみてにこっと笑うとか、音を聞いて「あっ、おかあさんだ」とか、すでにそういう関係が成立していて、その成立している関係に言葉が組み合わさっていくために、言葉は意味を伝えるものとして要求されるし、意味を含んで理解される。言葉によるコミュニケーションが成立するためには、その土台に、人と人とが意欲や感情を持って交流し支え合うという関係――まさに生きるということの内実――が豊かに形成されていることが不可欠なのです。コミュニケーション力を獲得すれば生きる力が実現されるというのではなく、生きることが豊かに形成されるという土台が必要であり、今問題なのはそういう関係、子どもの生きるということが抑圧され、不安に脅かされ、衰弱させられつつあるのです。

 ところが、「生きる力」路線は、そういう子どもの生きる現実の困難や矛盾とどう取り組むのかという問題意識を欠落させて、将来の労働能力としてこんなところが欠落しているから、もっと要素的な力(学力)を訓練しろと要求しているのです。「生きる力」というのは、人間が生きているときに働かせている個別の要素能力を訓練で獲得させれば獲得されるというのではなく、その根本にある人間としての「生きる」ということを、中側からずっと作り上げていかなければだめなんだという視点がない。それは結局、子どもが今を生き生きと生きられるかどうかという問題にほかなりません。


(四)PISA型コンピーテンシーと「生きる力」

 それはまた、子どもたちが新自由主義の論理に取り囲まれて人間らしく生きられなくなっているという問題でもあります。「新自由主義に対抗する」ということを、ともすると私たちは「政策に対抗する」と考えてしまいます。ところが、新自由主義というのは、大人の世界では、競争とか自己責任とか、能力主義とかという形を取っていますが、子どもの世界のなかにもこれとほとんど同じ論理が組み込まれてしまっているのです。

 まず子どもたちは競争にさらされています。そして競争に勝てなければ、一人前に生きられる見通しはない。それから、子どもたちは「能力がないのは、お前の責任だ」と思わされ、「こんな能力のない自分を生んでくれた親をうらむ」という様な無念さを持って、自分自身を受け入れられないで生きている。多くの子どもが、自分に与えられた体や頭脳によって生きていくことができないという“自分との和解”ができないままに、希望を喪失し、自暴自棄になったり、絶望感を持ったりして生きている。さらに子どもたちは暴力に曝され、あるいは「強いものでないと生きていけない」というようなメッセージに囲まれて生きている。

 こう考えてみたら、新自由主義は、子どもたちが未来において出会う不安――大人の世界を見ても、フリーターやワーキングプアが沢山いて、子どもたちも「将来自分は、フリーターになるんじゃないか」という恐れを持っている――として存在しているだけではなしに、現に今生きているこの空間の論理として、そして子どもたちの価値観や行動様式に浸透して存在しているんです。そうすると、ここで生きるということは、どうやって「勝者」になるかという戦略を行使することとして生きることが存在しているのです。そういう中で、新しい学習指導要領で「生きる力」と言われているのは、まさに「もっと競争しろ」、「勝ち残り」になれというメッセージとして子どもたちの中に響いていく。

 しかし、今一番求められていることは、こういう子ども世界の新自由主義的な性格を転換して、子どもたちの世界を、誰もが生きられる、そして他者と安心して繋がっていける、人間として生きられる世界につくり変えるということではないでしょうか。そして、この「人間として生きられる」という関係のなかでこそ、豊かなコミュニケーション力や、沢山のことを学びたいという学習意欲が高まってくるのではないでしょうか。

 これに関連してPISA型学力と「生きる力」の関係を見ておく必要があります。「生きる力」はOECDのPISA型学力と同じだという説明がされます。本当にそうでしょうか。

 ちょっと荒っぽい説明になりますが、PISA型学力概念においては、コンピテンシ−(能力)という概念が使われていて、@リテラシー(知識を活用し応用して生かす力)A他者と繋がっていく人間関係力、B自分の目的を持って主体的に生きていく力、の三つをキーコンピテンシーと捉えています。重要なことは、「人間としての目的の発動」(コンピテンシーのB)と「他者と繋がって生きていく」(コンピテンシーのA)という基盤が展開してこそ、PISA型キーコンピテンシーの@としてのリテラシーが展開するという構造を持っているということです。生きることから切り離された訓練プログラムの中で、要素的な「生きる力」(言語力の獲得、コミュニケーション力の獲得、活用力の獲得、等々)を獲得させることでは、この生きること自体は、一向に発動してこないのです。子どもが現に生きているなかで取り結んでいる関係を発展させないままで、「人間関係能力」のコンピテンシーを発達させたり、目的を子どもの中に育てないままで「自律的に行動する」コンピテンシーを獲得させるなどということはできないのです。子どもの中に目的を育て、関係を豊かに生きさせという生きることの組み替えこそが求められており、リテラシーはそういう基盤の中で生きる主体性と知識の獲得とが結合される時に発動するものと考えるべきなのです。そのためには「なぜ今子どもが生きられないのかと」いう問いこそが究明されなければならないのです。

 ところが、日本の中へPISA型学力概念が持ちこまれる時には、その「リテラシー」が、「応用力が足りない」、「コミュニケーション力が足りない」という風に要素に分解されて、それらの能力が個別に訓練される、そのために競争が有効だとなってしまうのです。そして、この「生きる」こと自体を組み替え豊かにすることなく、「はい、今日は活用力の練習の時間」「今日は文章力の時間」「次はコミュニケーションの訓練時間」というふうになるわけです。


(五)戦略的コミュニケーションから主体的自己表現へ

 コミュニケーションといっても、現に子どもたちが行使しているものは、戦略的コミュニケーションという性格を持っています。戦略的コミュニケーションというのは、どうやって攻撃されないで済むかとか、全体を支配していくために自分はどう行動すればいいかとか、本当の自分を表現するのではなしに、まさに教室がある意味で戦場になっていて、その中でどうやって敵から攻撃されないかとか、敵をうまくやっつけるかとか、そういう意図に下に発せられるメッセージになっているということを指しています。つまりそのコミュニケーションは本当の自分の表現ではないわけですね。

 たとえば児童虐待の子どもたちの表現というのも、まさに戦略的にしか出てこないわけです。どうやったら虐待をする絶対的支配者から攻撃を受けないで済むかということで、人の目を伺って行動し、自己表現を自ら閉じこめている。イジメの空間もそうです。あるいは子どもたちのなかで孤立を恐れて過度に強者に同調する関係が広がっています。そういうなかでは、戦略的コミュニケーションしかできない。そういう関係をそのままにしておいて、コミュニケーション能力が必要だから、「はい、コミュニケーション能力をつけましょう」と言っても、本当の自己表現は展開していかない。

 でも、今子どもたちの間に獲得させなければならないのは、本当の自己表現なのです。今、子どもたちが本当に生きにくい空間の中で、どうやって他者と共感しあう関係を作り出せるかが問われているのです。子どもと先生が対話をしながら、その子どもが抱えている問題を意識化させて、その問題をいっしょに取り組む、あるいはそれに共感して他の子どももその子どもを支えていく。そして「この教室の中では、君は受け入れてもらえるんだよ」という安心感の中で、自分の思うことを表現して、そのことによって一人の人間として、みんなの中に参加していけるような、そういうコミュニケーションが必要になっている。そういうコミュニケーション関係が作り出される時、子どもたちは自分を力一杯その中に投げ出し、一生懸命努力し、生きることをこんなにすばらしいことだったのかと実感していくことができる。  だけれども、新しい学習指導要領の論理がそれとは全く違っている。そこでは、個々の人間の能力が、その能力を使ってその子どもがよりよく生きるという視点からではなく、企業に入った時に、みんなにプレゼンテーションできるとか、全体をまとめて行くとかの能力を、個別のプログラムとして訓練するようなものに、学校の教育が変わっていく。

 それはしかし、今までのある意味で客観的に評価できる学力というものから、人格とか、マクドナルドのように「笑顔をつくってお客さんに対応していける」能力とか、そういう人間の表情や感情や意欲や、そういうものをどうやって演ずることができるかという、そういう部分にまで及んで、資本にとっての「生きる力」に対応するような労働能力を形成するような競争空間が、学校の中に入ってくることを意味している。それが「生きる力」を強調する新しい学習指導要領の特徴と考えられます。にもかかわらずそれは、子どもたちが「今、生きられない世界を、もう一回、どうやって生きられる世界にしていくか」という課題意識を欠落させたものになる。ここに問題があるのです。


(六)新自由主義に対抗する二つの教育実践

 東京の山崎隆夫さんの教育実践記録(『現代と教育』73号、2007-05「子どもに手渡す“幸福な時間”」)をプリントでお配りしております。

 山崎先生は東京の小学校の先生です。今子どもたちは、教室空間の中で、まさに無秩序なバトルをやっている。そして自分の感情を攻撃性としてぶつけ合っている。そういう空間が出現している。だから、力のない先生のクラスが学級崩壊するというのではなしに、最初、学級崩壊した状態から、どうやって支え合う空間を作るかという、そういう困難にすべての教師が直面させられていると言った方がよい。

 そこでは子どもたちはとにかくいらついていて、先生がちょっと目を離すとケンカをしたり、殴り合いをやったりする。言葉が通じない。言葉というもので人間の心の中に変化が引き起こされて、「ああそうだな」というふうに納得してきて、自分をコントロールするということができない。言葉が人を動かす力を奪われている。そういう中で、山崎先生は、子どもの思いに教師がどれだけ共感できるかということで、いろいろ工夫していく。山崎先生の実践の特徴は、授業がそういう関係を組み替えていく場になっている。たとえば国語の文学作品を読む場合でも、みんな子どもたちに発言させて、その話した言葉をひとつひとつ拾って、「そうだね」とか「この言葉からそういうイメージを君は持ったんだ。すごいね」とか言いながら、みんなの声を黒板に全部集めて行く。子どもたちは「自分の思っていることを言っていいんだ」という安心感を持ち、次第に授業の中に、本当の自分を表現していく。「『もっと』ってどういう意味?」と聞くと、子どもが「これじゃあ足りないから、もっとやってほしいという気持ちがそこに表れているんだ」とか、「もっとガンバレって、一生懸命応援しているんだ」とか出てきて、それを教師は、「ああ、そうなんだ」とか、「すごいな、みんなが一生懸命支えているということを読み取ったんだね」とか、共感し、教室全体に、「共感」が生まれていくような授業空間を作り出している。そういう中で、お互いに信頼できる関係が生まれていく。そういう関係が授業で生まれると、たとえばいじめられている子どもについての話し合いが成立して、いじめている側といじめられている側の本音が出され、問題が克服されていく。

 そういう意味では、山崎先生の教育実践は、今求められているコミュニケーション能力とは何かを典型的に示していると思います。

 もう一つ、大阪の私立千代田高校の例をちょっとお話したいと思います。この高校では、入学してきた生徒の多くが、「もう、俺なんか勉強できない」と思って入ってくるわけです。ところが学校に入ったとたん、生徒会の議案書で、強烈なメッセージが送られる。自分たちは小学校や中学校の時に全然勉強ができなくなって、もう学校が嫌で嫌でしょうがなかった。でも、今、3年間勉強して「勉強ってこんなにおもしろいものなんだ」ということを発見できるようになった。「こんな勉強なら卒業してからも止めたくない」、というようなメッセージがワーッとくるわけです。子どもたちの心の中には、「勉強ができないって、いいよそんなこと。いまさらほじくり返したって、自分のしんどさがより自分に自覚されて、たまったもんじゃないよ」と思っていたところが、でもやっぱり心の隅では「こんな弱者のままで、勉強ができないままで、将来どうなるのだろうか」という不安の心がある。ところが心の奥に封印されていたそういう思いが、みんながおかしい、こんなんじゃ人間として生きられないよ、どうして僕たちがこんな苦しい状況におかれてきたのか考えてみよう、とか、新しい生き方がこれから作れるんだという呼びかけのなかで、みんなが心の奥に閉じこめてきた思いと向かい合うようになっていく。そして、「やっぱりこれじゃ生きて行けないから、僕にも勉強がわかるような、そういう勉強があるはずだ。それを教えてほしい」という要求が表面化してくる。その中で、自分の弱者であること、その困難と向かい合うことこそが、逆に今生きるということの基本的な土台なんだということを受け入れていく。そして学び合いの関係をつくていく。(『法政大学教職資格課程年報』2007、佐貫浩「千代田高校の教育実践に学ぶ――学力回復のプロセスと学力観の検討 」参照)

 新自由主義の空間は、弱者であれば、それは恥ずかしいこととして、しかも自己責任だから、「そんなの解決できないよ」という絶望感に襲われていく。それに対抗するには、「弱い」ということは実はみんなに共通のことで、それを克服していく生き方をみんなで支え合っていく空間がここにあるんだという関係が対置されなければならない。そういう新自由主義を越える空間をどう作り出していけるかが問われていると思うのです。そういう空間を作り出すとことを通して、子どもたちがもう一回希望を回復していくことのできる教育実践を作り出すことが非常に重要だと思います。


(七)今求められている学力の質を問う視点を・・環境問題に触れて

 今回の学習指導要領は、はたして今求められている学力・能力を呼び寄せるのか、遠ざけるのか、ということを深く考えてみることが必要です。その意味を地球温暖化問題との関係で考えてみたいと思います。

 『日本の科学者』の2007-12月号の特集で、環境問題が取り上げられていました。そこには、「温暖化阻止のために人類に残された期間は後10数年」という強烈なメッセージが込められていました。

 地球温暖化がある程度まで行くと後戻りできないポイント(ティッピングポイント)に到達してしまう。具体的には、南極やグリーンランドの氷床が大崩落する時がそれだというのです。そうすると大規模な海面上昇が起こる。氷は反射率が高いんですが、海水は太陽光の吸収率が高いですから、さらに温暖化が促進される。シベリアの永久凍土が解凍されていくと炭酸ガスの20倍ほども温暖化効果のあるメタンのガスが出て行き、さらに温暖化が進む。それから温暖化が進行していくと、海面が温かいものだから、その水が下に沈み込まない。そうすると、世界の海の中に組み込まれているベルトコンベアーのような深層海流が回転しなくなる。そうすると、さらに気候が不安定になる。そういう複合的な悪循環が進行してしまうともう後戻りできなくなってしまう。すでに琵琶湖でも温暖化で表面の水があまり冷やされないので、冬に水の沈み込みが起こらなくなって、表面の酸素を含んだ水が下に降りて行かないので、底辺に酸素が届かなくて、湖底無酸素状態が起こって生物が死ぬということが琵琶湖でも起こっていると言われています。

 イースター島がなぜ無人化したかについての有力な仮説は、次のようなものです。イースター島に人が暮らし始めた頃は、そこは世界有数の巨大椰子が生い茂る亜熱帯雨林の島だったが、10世紀頃から、モアイ像の製作が始まり、またカヌー製造、農耕の拡大などで森林の伐採が進み、島全体から森林が消えてしまう。その結果、表土が流出し、農地は荒れ果て、また木材が不足してカヌーの生産にも支障が出たことから大規模な飢餓が発生し、16世紀から17世紀にかけて部族間の紛争が起こり、モアイの破壊合戦が起こり、最盛時1万人以上とも想像される人口は激減し、人肉食さえ行われて、やがてすべての住民が死んでいったというのです。今それに近いことが地球規模で起こりうるかもしれないと考えてみる必要があるのです。

 私のバングラディッシュの友人が言っていましたけれど、国土の3分の1ぐらいは、地上3メートル、300km奥に入っても3メートル、雨期にはたびたびそこが洪水に見舞われる。1億4000万人という、日本よりもたくさんの人が、日本の3分の2位の土地に住んでいる。温暖化が進行したときに、自分たちがまず大きな被害を受けると。

 今、世界の自動車メーカーが、中国への売り込みを競い合っていますが、日本の10倍の人口の中国で、人々が自動車を乗り回したら、地球は本当に破壊される。今年は長崎の五島列島で「光化学スモッグ注意報」がいっぱい出たそうですが、それは中国から来たんだそうです。しかし日本で車を乗り回しておいて、後発の中国は自動車を乗り回して手はいけないとは言えない。先進国日本で、車を乗り回すようなスタイルを止め、また技術の点でも中国へ大きな援助をして、一緒になって温暖化ガスの半減というような巨大な目標を必死で実現する道を探らなければならない。しかもそれが後10年ぐらいの猶予しかない。地球の人類がみんな生きられるためには、大幅に自分の生き方を変える行動変容が不可欠になっている。イマジンにあるような「連帯」を急速に形成しなければいけない。でも、そのためには、今各地で民族紛争があり、中国と日本にしたって、侵略戦争への反省を棚に上げて、未だに侵略ををやったとかやらないとかいう論争をしていたのでは、連帯なんて生まれるわけはないから、そうすると地球上で今まで勝者が弱者を生け贄にして成長してきたという、こういう過去を徹底的に反省して「和解」を達成し、連帯と相互援助を急速に高めていかないといけない。そうすると、政治、経済、生活、歴史、これらのあらゆる事柄についての認識や価値観を、本当に短い時間に変えていかないと、地球世界は崩壊へと進む可能性があります。

 そう考えた時に、人間が獲得しなければいけない能力とは、こういう地球的な行動変容や価値意識の転換を達成していく力量とは何かという視点から、教育のあり方を考えていかなければなりません。こういう世界史的な課題を自分の課題として引き受けながら、自分の行動様式を変えたり、多くの人といっしょに生きていく力を獲得していかないといけない。まさにこれは巨大な「能力の転換」だと思うんですね。「人類の運命を考える能力」とか、「世界的規模で弱者に共感しあえる力」とかが求められているのです。いや、多くの人は、日本社会のなかでも「弱者」として生きさせられているわけですから、弱者として他者と共感しあうような能力といった方がよいかもしれません。自分は強者で弱者に施しをするというのではなしに、自分の中に生きられないものを持っている、そういう人間同士が共感し合い相互に支え合う力が求められている。

 それから、こういう価値や行動の人類的な規模の変容においては、「あの人よりも私がたくさん持っている(知っている)から、自分に価値がある」というのではなしに、「私の考えていることも、あの人が賛成してくれるから、それは社会的な力になるんだ」という意味では、みんなが理解し、みんなが共有することで力を発揮するような考え方とか能力とか、学力というものがある。そして今求められているのは、そういう、人類が共有すべき知恵、共有することで本当に社会的、地球的な力として表れるような知恵ではないでしょうか。学校というのは、そういうものを共有するための拠点にならなければならないのではないでしょうか。


(八)本格的な参加への学力を

 PISA型学力というものを、今日はある意味で、我々が学ぶべきものとして述べてきました。しかしPISA型学力は、ある意味でヨーロッパ資本がアメリカ資本に勝つための戦略でもあるわけです。『人間と教育』の56号に、法政大学の増田正人さんが「PISA型学力の戦略」について書いていますが、次のように説明していました。

 ヨーロッパは今、環境対応型の技術開発を目指している。ところがアメリカはそういうことにお構いなしに、安い物を大量生産して、競争に勝つという戦略だ。これにEUが勝つためには、単に環境対応型が大事だというだけでは勝利できない。なぜならば、それはアメリカの方が環境に負荷をかける分だけ安いからだ。そうすると、このEUの環境型経済が勝利するためには、「環境型が大事だ」という政治的な発言力が市民の間から起こって、それが国際基準になったときに、ヨーロッパは勝利できるんだ。そのためには、そういう地球にやさしい生産のありようや生活の形態を自ら要求する市民を、ヨーロッパだけではなしに、アメリカや日本にも育てなければ勝てない。だから国際標準としてPISA型学力を広めるというのは、EUの経済戦略の一環でもあるんだと。

 これはヨーロッパというものがある種の市民社会としての力量に支えられており、その上に立って、確かに経済の論理を介してではあるけれども、新しい社会を作り出そうとしているということだと思うのです。ところが日本の場合、そういう市民の政治の力量が非常に弱く、学校の学力においてもそういう力は、ほとんど視野におかれていません。

 私は人間が持っている力が最も強力に発揮されるのは政治という方法によってだと考えています。歴史の転換を考えればそのことは明白です。フランス革命とか、明治維新だとか、戦後民主主義の形成とか、これらは政治の転換によって作り出された巨大な社会変化です。政治というものが変わることによって社会は決定的に変わるわけです。ところが、今、大学生に聞いても、政治というものについて、それが自分たちの力を発揮する方法や空間だというイメージが全くない。

 実はこれは1960年代から90年代までの日本人の行動様式が、まさにそういうふうに作られてきたということです。高度経済成長時代、確かに自治体革新運動とかありましたけれども、一般の日本人にとってよりよく生きる方法は、高い学力を身につけて、いい会社に入って、そこで終身雇用で生きるということが中心になりました。その中で、会社というものが、人間の共同性を実現する場ともなったのです。ヨーロッパ社会には、「政治が人を結びつける」という面、「労働組合が人を結びつける」という感覚もまだ残っています。しかし日本の場合、大人も青年も、連帯し、相互援助しあいながら生きるという場をほとんど持たない孤立のなかに放り出されてしまっています。福祉や自治体行政は本来そういう相互援助で生きる方法が制度化されたものであったわけですが、規制緩和や民営化によってそれも大きく後退してしまっているのです。だからこそ「自己責任」という論理は人々の日常感覚になってしまっているし、そういうなかでは、競争の勝ち組になることよってしか未来への希望を獲得できなくなってしまっています。

 そういう事態を組み替えるということが、今、日本社会の課題になっているのです。「コミュニケーション能力」の獲得とは、そういう孤立した個人が、もう一回、相互に共感し連帯し、互いに支え合う関係を作り出していく力を獲得しようということでなければならないのです。親密な親子とか兄弟とかの生き合う空間(親密圏)をどう作るかということもあるし、中間世界――組合だとか自治会だとか地域だとか――、さらには公共的世界を立ち上げて政治をにない、自分たちの要求や理念を実現していく、そういう主体へと成長していくための関係形成能力が、今求められているのです。だからディベートをやって相手に勝てばいい、ということではないわけです。コミュニケーションの能力とは、社会をもう一回作りなおしていく力の中心にあるのです。だからこそそういうコミュニケーション能力は、教室の中に新たな共感と共同を生み出していく関係の作り直しの教育実践によってこそ獲得されていくのです。

 今私たちが作り出さなければならないのは、子どもたちが生きられるような空間であり、また大人たちが本当に生きられる空間です。今、子どもを企業などに参加(体験学習)させるということが広がっています。大学でもやっています。企業にインターンシップで行って、そこで企業世界の論理を身につけるわけです。もちろんそれは、就職についての主体的選択をする一つの方法として意義があることです。しかし、より重要なことは、本当に人間らしく生きられる世界をつくりそれを広げようとしている大人がいるという、そういう場に子どもを参加させて、「ああ、自分たちもこういう生き方を選んでいきたい」というような希望を育てることなのです。新自由主義の競争空間に「参加」させて、「自己責任」で生き抜けというメッセージを伝えるのではなく、それを組み替える大人の努力、人々の希望への努力に触れるような「参加」をこそ実現したいものです。そういう参加の力、政治の主体になる力、等々をしっかりと学力や教育目標のなかに組み込んだ教育のあり方を考えることが必要になっているのではないでしょうか。

 学力テストはそういう視点を剥奪して、点数に示されたものが学力で、それを高めるのが教育だという閉ざされた思考へと私たちを追い込んでいきます。それを打ち破って、今求められる人間の力とは何かという視点で、学力問題を考えることが重要になっていると思います。

 以上で私の話を終わらせて頂きます。


2008年3月
京都教育センター
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