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京都教育センター年報 第19号(2006年度)
第一部 問題提起

中教審答申を読む、私たちの課題

-混迷の中での展望をどこに見いだすのか-

     
植田健男(名古屋大学大学院教育発達科学研究科教授)

京都教育センター06公開講座

どうなるの?義務教育・学習指導要領
==中教審答申にみる義務教育の「構造改革」==

  ○日時:6月11日(日)10:00〜12:30
  ○場所:京都教育文化センター202号室


はじめに

 おはようございます。名古屋大学の植田と申します。先ほどご紹介いだだきましたように、私は教育課程づくりの問題に関心を持っておりまして、学校づくりとの関係で教育課程というものをどんなふうに考えたら良いのか、といったことを中心に教育・研究をしています。

 ひょっとしたら、私に今回頂いたご要請の趣旨は、この度の学習指導要領の改訂によって教育内容がどう変わるのか、といったことにあったかもしれませんが、私自身は教科教育を研究している者ではありませんので、今回の中教審答申で学校の教育課程や義務教育そのものをどんなふうに扱おうとしているのか、といったことに主眼を置いてお話をさせて頂きたいと思います。

 それと、今、教育基本法の「改正」問題が非常に重要な局面にきているわけですけれども、この答申を読めば読むほど、彼らの言う「改正教育基本法」との一体性というものが非常に明確に書き込まれていると感じています。従いまして、もう何度もそういうお話を伺っておられるかも知れませんが、政府が提出している「教育基本法案」―あれは「改正法案」ではなくて、厚かましくも「基本法案」を名乗っているのです。つまり部分的に条文を修正するというのではなくて、全文を丸ごと変えるという案になっているんのです―の内容についても、できる限りふれたいと思っています。ただ、準備の時間がなくて、十分にレジメの方にまとめきれずに来てしまいました。なおかつ、私はいつもA版を使っているのですが、B4版に縮小されていますので、たいへん字が小さくて、読みづらい資料になっていることをお許しいただきたいと思います。

 今日は一時から大阪で全国の登校拒否・不登校の集いの実行委員会があり、そちらの方に参加するために昼前に失礼させて頂きますことをお許し下さい。誠に、申し訳ございません。


教育の構造改革

 それでは、レジメの方をみていただきたいと思います。今回の中教審答申にはいろんなことが書かれていますが、教師の問題についてもいろいろと書かれていて、「ほっといたら何ともならない」とか、「もっと評価をかけて厳しく対処しなければならない」、教育内容の統制ももっとやりたい、というような考え方が根底にあるように思えますが、いつも申し上げていますように、すべての問題を教師の問題とみなしてしまうところに非常に貧困な学校観・教育観が現れていると思います。

 問題の本質が小泉「構造改革」路線、「教育の構造改革」にあることをしっかりと見ておかないと、なぜこんなものが出てくるのかがよく解らないということになるってしまいます。文部科学省は、教師や親に対してこの「教育改革」について説明するときには、教育的な言葉で粉飾して教育的な改革であるかのごとく説明するわけです。たとえば、前回の学習指導要領の改訂の時にも「勉強ができずに困っている子がいるから、教育内容を減らしてじっくりと教えれば解るようになるんだ」と、平気でいかにも教育的な意味があるかのように言っていたわけです。しかし、その大本にある小泉「構造改革」路線、たとえば「骨太方針」と言われるものを見れば解りますように、そもそも教育的な考え方に立ったものではなくて、産業に貢献する人材の育成という観点が明確に貫かれていて、それに対して不要なものをどれだけ削るのか、ということしか書かれていないのです。そうした考え方に従って文科省が動いているのですから、そもそもそれを教育論で扮飾しようとすること自体が、いかに偽りに満ちたものであるかを彼らは知っているはずなのです。

 そもそも彼らも自分たちの縄張りを減らしたくはないので、ギリギリのところまで―面従腹背とまで言えるかどうかはわかりませんけれども―既得権を守りながらも、服従しているポーズを取り続けてきたのです。けれども、現段階では「教育の構造改革」などということまで言い出すようになっています。独自の相対的な位置を見失いつつあるのではないか、と思えるようなところまで来てしまっているように感じます。

 そういう意味で今次「教育改革」の本質は、もっぱら公教育の縮減・切り捨てにあり、こうした政治のあり方に対する批判を強める必要がありますが、教育にかけられる政治的な攻撃に対して、いかに教育的な反撃をするのかがより大事であると考えています。その反撃こそが私たちの「学校づくり」であり、当然ながらそれはどんなものでも良い訳ではなくて、憲法・教育基本法の精神を実現する教育課程づくりにもとづいた学校づくりであると思っています。この視点をしっかり堅持する必要があります。


財界からの改革要求

 現行指導要領が改訂されるときに、当時の教育課程審議会は、教育課程と教育内容、そして教育課程の基準としての学習指導要領とを明確に区別して論じ、ほぼ半世紀ぶりにと言って良いと思いますが、学校の教育課程の必要性を説いたわけですけれども、今回の中教審教育課程部会は、教育課程観を大幅に後退させてしまっています。教育課程と教育内容との区別をほとんどつけられていない記述になっているのです。学校で教育課程をつくることの必要性を、前回にはあんなに語っていたのに、今回はそうした観点はほとんど影も形もなくなっています。前回も今回も深くこの審議会に関与している教育学研究者がおり、おそらくその人がこの教育課程関係のことを書いているものと推察しているのですが―本人にお会いしたら、是非ともこの点についてお伺いしたいと思っています―、枠組みそのものからして相当に問題があるものになっているわけです。そこで、その問題点についてもう少し詳しく触れ、問題提起ができれと思います。

 第一番目の柱(二十一世紀「教育改革」の本質と行き詰まり)については、簡単にお話したいと思います。今「教育改革」と呼ばれているものは―これは90年代半ばから今日に至る約10年間の「教育改革」のことを言っているわけですけれども―さきほど小野代表からもお話がありましたように、まさに財界からの「改革」要求によって進められてきたものであるという事実をしっかり見ておく必要があると思います。

 90年代に入って、旧社会主義国が崩壊していく中で、全世界を資本主義的市場競争の舞台とする「大競争時代」(メガ・コンペティション)に突入しました。当然ながら、そうした国際競争にどうやって打ち勝つのかが日本の財界にとっての重要な課題となり、それを支える教育の在り方についてもが問題となったのです。彼らはこれまでのような競争のやり方では勝てないと判断し、その基礎となってきた教育についても変える必要があると判断したのです。今までのような教育、つまり子どもたち全員を学校に連れてきて全く同じ教育内容を与えて、競争的序列化を迫るというような教育のあり方では、この大競争時代には打ち勝てない。しかも、そうした競争を組織できた前提となっていた「日本的経営」、すなわち完全雇用と終身雇用という二大前提が大きく変えられてしまっているのです。言ってみれば、従来はトップからビリまで全部労働力として使い尽くすのだから、企業にとっては全員に対して教育をやってもらわなければ困る、ということであったのですが、大競争時代においては、生産部門は海外に出していくので、そもそも日本の青年たちを国内で雇おうという気がないのです。つまり前提が変わってしまっていて、子どもたちすべてを雇い上げる気はもうない。急速にこの数年間で完全雇用・終身雇用というものが解体してきており、企業が史上空前の利益をあげているのに、労働者の所得は大幅に下がっているという状況のもとにあるわけです。


下位の七割は労働力として期待していない

 1ページの真ん中にある図に書いていますように、上位三割についてはそれなりにお金をかけなければいけないけれども、下位の七割については労働力として期待していないので、この人たちに教育をすること自体がそもそもムダであるという発想があるわけです。だからと言って治安維持の問題もありますので、丸ごと公教育を捨てるわけにはいかない。だから下位七割の人たちには最低限の教育を与えれば良いというのが、「義務教育の構造改革」という発想の中心にあり、そこに重大な問題があるだろうと思います。一応、すべての子どもたちを対象とするみたいに書かれてはいますけれども、明らかに目的を限定して、最低限のコストで効果的なコントロールを最大限にきかせられるものとして、義務教育の中身を変えようとしていると見るのが妥当ではないかと思います。

 彼らの要請は、国際競争力を発揮するにいたる三割のエリートをつくりつつ、七割の教育をどう減らすのかという二本柱なのですけれども、実際には七割の教育のお金を減らすということがもっぱら中心になっていて、前者のエリート教育の方はいまだに姿がよく見えないという状況にあるのではないかと思っています。  したがって、今の「教育改革」の主たる側面は、全体として「スリム化」という名の下での、ほとんど公教育の切り捨てに近いものと見てはどうだろうかと思います。

 「ゆとり教育」などという言葉が使われて、幻想が振りまかれたわけですけれども、そもそも「ゆとり教育」を言い出した三浦朱門自身が「本当はエリート教育と言いたかったけれども、国民の反発を買うから言わなかっただけなんだ。アメリカのように、思い切りできる少数の人たちと、どうしょうもないくらいにできない人たちに二極分解するぐらいまで行っちゃわなければダメだ。みんなをすくい上げるような教育では、それはできないんだ」ということを発言しているのです。あられもなく支配層の人たちはそういうことを考えて、この「教育改革」なるものを進めているのです。

 この間の情勢を見ていて、注目しないといけないと思いますのは、2ページのところに書いていることです。一時は「学力低下」批判に対して、彼らは強固なまでにそれを認めなかったのが、「レインボー・プラン」を出すあたりから少しずつ言っていることが変わってくるわけです。2ページの真ん中に書きましたけれども、いわゆる「PISAショック」による、文部科学省の「政策変更」ということがでてくる。つまりこれまで学力低下を認めなかったのを、中山文科大臣が学力低下を公式的に認め、さらにそれを克服するとして「全国学力テスト」の実施とか、生活科や総合的な学習の時間の見直し、ゆとり教育の見直し、それから学習指導要領の改訂などの方針を続けざまに出すようになりました。

 表面的には、文科省自身がここに危機感を持って動いているかのように見える状況がでてきているわけです。しかし、私はそれはかなり怪しいのではないか、と思っています。本当に、彼らは「学力低下」と判断して、それに対応する政策を打とうとしているのだろうか、と。と申しますのは、確信犯的に、どうもこの状況を逆手に使っているように思えるふしがあるからです。


PISA調査の結果

 私は「国際学力調査」という訳語に抵抗があります。それは日本の「学力」に対応する英語はないと思っているからです。それで、私のレジュメには「学習到達度の試験」とかいうふうに書いています。マスコミは全部「国際学力調査」などと言っていて、「学力」論議をさらに混乱させるような報道の仕方をしているので、どうだろうかと思うのですが、たとえば「PISA調査」自身は―昨年、高知市教組にお話に行ったときの資料を後ろにくっつけましたのでご参照いただければ幸いです。(レジュメの)4ページから5ページにかけて二つの調査―私なりの名称をつけたもの―とこれに関する新聞報道を載せています。例えば、5ページの真ん中上あたりに「2003年PISA調査の結果」とありますが、2004年12月の『日本経済新聞』は「学力大幅に低下、読解力8位から14位、数学的応用力1位から6位、文科省『トップ水準と言えず』」という見出しを掲げています。

 順位で見ると、確かに8位から14位であったり、1位から6位であったり、格段に下がっているように見えます。しかし、1位、2位、3位という順位間の差は均等ではありませんから、順位の上がり下がりだけで見ること自体に、機械的な見方が入ってしまっているのです。統計的に見ると、順位に関わらずやはり日本は、依然として上位グループの一角を占めているのです。それは文科省も解っていて、だからこれまで「学力低下」認めなかったのです。しかし、解っているはずの文科省が「学力低下」を認めて、先ほど言ったような政策を出してきている。しかも、今日はそういう会ではありませんので詳しくは展開しませんが、彼らがやろうとしている政策は、むしろ、今回の国際調査で「そんなことやっても効果はないよ」と解ったことを、わざわざやろうとしているのです。

 ご存じのように、早い時期から習熟度別にやっているアメリカとか日本の方が成績は低いのです。それから単純反復が問題ではなくて、むしろ考える問題が解けないことが指摘されています。単純反復のような部分にはいい成績をとっているのです。

 いろいろな理解があるでしょうけれども、国際調査の結果を本当に見てやろうとしているのであったら、この時点になって全国学力テストをやるとか、低学年から習熟度別をやるとか、反復学習を徹底してやるとかいうのは、むしろそれは逆行なのです。

 バカじゃないから解っているはずなのに、わざと「学力低下」を認めたふりをして、もっと今の学校現場の問題を矛盾を激化させるような形での方針に突き進もうとしている、としか見えません。これは一体何なんだ、ということなんですね。人が悪いのかも知れませんが、私はやはり勘ぐってしまうのです。世論の声に応えるふりをして、義務教育を中心とする学校教育の矛盾をもっと大きく、深刻なものにしようとしているのではないか、と。現にこういうふうに思えるような動きをしているのです。

 従いまして、政策が揺れていることは間違いないのですが、全くその原因がわからない状態で、方向づけをしようとしているのか。いや、むしろそうではなくて、文科省はそれなりに解っているはずなのに、このまま突っ切っていってしまおうとしているように見えるのです。


中教審「新しい時代の義務教育を創造する」

 2ページの2番の所に、中教審「新しい時代の義務教育を創造する」という2005年10月26日の答申のことを掲げました。

 まず、今回の学習指導要領の見直しに至る前に、昨年の10月26日に中教審が「新しい時代の義務教育を創造する」という答申を出しています。ご案内のように「骨太方針」の中で、義務教育ひ国庫負担制度を切り捨ての対象として、ここ数年間ずっと名指しして、「これは切るべきだ」という議論をずっとやっていて、繰り返し予算編成の時期になると問題にされてきています。2005年に「義務教育国庫負担制度」の問題がまた蒸し返されたわけです。文科省としては、自分たちの最も大きな既得権の領域である国庫負担制度をいかに防衛するかということで、先の答申自体は、専らこの制度の維持について書いています。これが答申の主要な側面かと思います。

 しかし、答申自体で、国庫負担制度を守ろうとしているのは良いのですけれども、それでは彼らが守ろうとしている義務教育の中身は何なのかということになると、たいへん寒々しいものがあります。  戦前も戦後も同じ「義務教育」という言葉が使われているのですが、戦前の義務教育の「義務」というのは、あくまでも国家=天皇に対する臣民の「義務」であったのです。臣民の三大義務として、納税と兵役と共に教育というものが位置づけられていて、国家有為の人材になる義務として義務教育が説かれたということなのですけれども、戦後の憲法・教育基本法体制のもとで展開された義務教育というのは、言葉こそ同じであれ、人間の成長発展の権利を保障する、子どもの義務ではなくて、親を中心として大人たちが子どもたちに教育を受ける権利を保障しなければいけない、という意味での義務教育なのです。「義務」の内容について、一体誰に向けられたどういう義務なのかということが非常に重要なポイントになるのです。

 ところが中央教育審議会の言っている義務教育の捉え方というのは、とてもひどいものになっているのです。お手元の内外教育の平成17年のところに書かれていると思いますが、答申では義務教育の内容を「将来的に国民的に自立し、納税や勤労の義務を果たせるようになることが義務教育の最大の到達目標」として、これが義務教育の目標なのだという書き方をしているんです。子どもたちが人間的に自立をしていく、それを権利として保障し、我々社会がそのために子どもたちに教育を保障するというような義務教育の捉え方では全くないわけです。こういう義務教育の対象にされてしまう人たち、先ほどのお話しで言えば7割の柔軟活用型の子どもたちに対しては、「ギリギリこれだけぐらいはやってほしい」ことのみを教える、という主旨だろうと思われるのです。義務教育という言葉を使いつつも、きわめて人間を見限ったような見方で、この答申が書かれていることは非常に重大であると思います。

 同時に、首相官邸の方針とは当然ぶつかる訳で、この時期はめずらしく文科省の役人が校長会に出て行って、国庫負担の廃止に反対するという運動をやっておりましたけれども、官邸からは「義務教育国庫負担の廃止のための方針を出せ」という圧力がかけられたわけです。しかも答申が出たからといって、その答申を尊重したわけではなくて、結果的にはこの答申というのは、結局無視されしまったのです。


学校と教職員をさらに競争に追い込む

 続いて、3番の所に書きましたけれども、戦後の義務教育の否定と歪曲の上で、「新しい時代の義務教育を創造する」と言いながらも出されてきたのは「全国的な学力調査の実施」という、教育における競争をさらに激化させるような中身であり、さらにそれとセットになって学習指導要領の「見直し」をしなければいけないということでした。その「見直し」の中身については、このあと審議経過のところでお話をしたいと思います。

 それからもう一つ重要なことがあります。学校と教職員をさらに競争に追い込み、管理・統制の下に置くようなことがたくさん入っています。例えば教員免許更新制の導入、教員評価の改善・充実とか、東京で行われているような主監制度の導入の検討、「スーパーティーチャー」という不適格教員の反対の極にある人たちを例示すること、それから学校自己評価計画への外部評価の導入の検討、自己評価だけではダメでそれを外部に点検させる、あるいは第三者機関による全国的な評価を導入するといったような内容が書き込まれている。それで、最後の所には、設置者の判断で「9年制の義務教育学校をつくる」ことを検討するというようなことも書かれています。これがいわゆる「義務教育の構造改革」答申と呼ばれているもの内容なのです。

 教育基本法の問題を見ても、政府案は公明党とのすりあわせの問題が中心になっているので、あまり新自由主義的な市場原理・競争主義的なものはパッと見にはわからないようなものになっています。よほど民主党の案の方が市場原理的なものを入れようとしているわけですけれども、「義務教育の構造改革」の答申自体は、やはり市場原理・競争原理の問題をいかにして義務教育局面で徹底するのかということを考えていると言っていいでしょう。

 そこに常に出てくるのは「評価」という言葉です。我々が教育評価として述べてきたのは全く違う形で「評価」というものが掲げられているのです。ここは、これからの中身の問題になってきますけれども、そもそも我々が自主的に教育研究を行う中で、何を教えるべきかと言うこと、内容づくりがあって、「評価」というのが生まれてくるわけです。ここでも自主的な教育研究を認めたり、我々が創造的に「何を教えるか」という内容づくりをするということを一切許さずに、あてがいぶちで評価基準が下りてくる。「評価」の名に値しない「評価」を押しつけられる。その項目が正しいかどうかは別にして、とにかく挙げられた項目についてどれだけ達成したのかという形で、教育を業績で評価され、学校が評価されるというふうになっている。

 この「義務教育の構造改革」は、おそらく国との関係で言えば、もう削減、削減で財務当局から圧力がかかるわけだけれども、最後の最後、この一線までは守らないと、国自身が危機に瀕する、つまりあまり切りすぎると、完璧に衆愚化してしまったり、完全不安社会になってしまったら、子どもたちの荒れで治安が維持できなくなるという問題が出るわけですね。愛国心さえ理解できないような状態になっては困る。国民統合の危機が生じるのではやはりダメでしょうと。だとしたらギリギリここまではやっぱり義務教育に金を使わなければいけないと。そのかわり徹底して点検・評価を行って、ムダ遣いはしませんから、ちゃんとお金を出してください、ここまで出してくださいという、そういう枠組みを国に向かってしようとしているように見えるのです。豊かな教育をいろんな場でさまざまな人たちが活躍をしながら展開をしていると、そういう中で自ずから学力低下の問題とか、子どもたちの自立の問題とかを克服していくという教育的な見方というものは、ほとんど見あたらないのです。子どもの問題について、身体の問題を含めて指摘はあるんだけれども、それを解決する方針にはつながっていないわけです。一部教育論があるように見えて、問題意識としては披瀝しながらも、解決しようとしている中身は全然そういうふうにはならないという、こういう矛盾が見受けられると思います。

 資料の3ページのところですけれども、中教審初等中等教育分科会の教育課程分科会「審議経過報告」というのが2006年2月13日に出ています。この下にさらに小さな部会が分かれていますので、学習指導要領の改訂―なんとこの前でたばかりの指導要領が、通常は10年サイクルぐらいで改定が言われていたのが、10年どころじゃなく5年もたたないところで見直しになって、非常に拙速な形で改訂されようとしているわけですけれども―、これを見ると、ほぼどんな改訂をしようとしているのか、基本的な観点がわかると思います。


「教育課程」という言葉を使いつつも・・・

 ここで「審議経過の報告」といっているのは、中教審の教育課程部会の審議経過のことで、当然ながら先ほどの「義務教育の構造改革」答申をベースにしたものとなっています。この部会はかつての教育課程審議会の役割を果たしているわけですから、政府機関の中で教育課程を問題にしている非常に重要な意味を持った部会なのですが、「教育課程」という言葉を使いつつも、ほとんどここで語られているこのは「教育内容」のことであって、本来の意味での教育課程については殆ど語られていません。「何を子どもたちに教え込まなければいけないか」ということのみが語られていて、教育内容の改訂の観点のみが書かれていると言えます。

 ここで繰り返し申し上げるまでもありませんが、本来の教育課程というのは、各学校において編成されるものであり、高校で言うところの「教育課程表」という範囲にとどまるものではありません。つまり単なる単位の組み合わせを意味するのではなく、本来は、地域や子どもの実態に応じて、教科・教科外を含めた教育活動の全体計画を教育課程というのです。ただ、一般論として高校2年生の英語ではこれとこれを教えるという、そういう教育内容のみを意味するものではないのです。それぞれの学校の実態に即して、子どもたちを変えていくためにどういう教育目標を設定して、どういう設計図を描いて子どもたちを変えていくのか、その教育活動のプランが教育課程なのです。

 前回の学習指導要領の改訂の時、98年に現行の学習指導要領の改訂を導いた教育課程審議会の答申が出されましたが、そこではちゃんと学校の教育課程のことが語られていました。教育内容は教育課程と一緒ではないし、学習指導要領はあくまでも教育課程の基準だということで、教育課程、教育内容、学習指導要領というふうに三者を区別して書かれていたのです。私は、そのときに「あれ、おかしいな。これまではごちゃまぜにしていたのに」と思って、一々ラインマーカーでひいて確かめて見てみると、やっぱりちゃんと言葉を使い分けているんですね。そして何と「学校で教育課程をつくらなければいけないんだ」と、おそらくは51年の学習指導要領以来だと思いますけれども、そういうことを教課審が書いたいたのです。

 まさか、そういうことを言い出すとは思っていませんでしたので、「これは使えるぞ」と思ったわけですけれども、今回は、残念ながらまた元に返って、ほとんどそこで語られていることは教育内容の話に終わってしまっているのです。つまり全国一律に、という考え方が強いものになってしまっているのです。そのようなものとして全国的な「評価」に晒そうとしているわけですから、学校ごとに多様な教育活動を展開して、子どもたちの課題に応えられるような柔軟で豊かな学校教育の姿を、はなから頭に思い描こうとしていないのです。

 「国民に最低限これだけは詰め込む」ということが先にあるものですから、教育課程という言葉は使っていても、各学校における教育活動の全体計画などというニュアンスはほとんど入っていない。そういう答申になっているわけですね。これは教育学から見れば、恐るべき後退だと私は思うのです。

 もっとも、それでは前の教課審答申は良かったかというと、あの時も学校に教育課程がなぜなくなったのかということは全く書かれいなかったのです。それだけ大事なものだと解っているのであれば、何故過去数十年間にわたって学校に教育課程らしきものがなくなってしまったのかを書くべきなのに、前回の教課審答申はいっさいその責任については口をつぐんでいるのです。これは明らかに学習指導要領が法規と同じ効力を持つ、つまり法的拘束力があると言って、「教科書さえ教えればいいのだ」と言わんばかりの教育内容への管理・統制が行われ、学校の独自の教育活動の必要性を全面否定したことにあるのです。教師にとって教育課程というものは、自分たちでつくったり、変えたりするものではなくなってしまった。そういう歴史があることは間違いない事実なのです。そういう問題を一切書かなかったわけですが、やっぱり今回についても、当然ながら今のような実態を導いた教育政策の問題や責任については何も触れていません。


「人間力」「教師力」「学校力」

 そうしたなかで際だっているのは、社会の各分野からの要請に応えるということで―「人間力」という言い方をしているのですけれども―、いかに今の日本の産業界と経済活動に貢献する人材育成をするのかいうことに意識が集中していることです。本当に軽薄な表現ですけれども、「人間力」「教師力」「学校力」というような言葉を使っているのです。何にでも「力」という言葉をつければ良いかのように語っていますが、内容は実に空疎です。しかし、この「人間力」というのが教育課程部会の柱にされているのです。「義務教育の構造改革」も「人間力」というのがキーワードとして使われています。

 実は、教育基本法「改正」の議論をした中央教育審議会の議論自体がそうなっていたのです。「日本人の心の荒廃」ということをさんざん書いているのですけれども、「日本人の心が弱いから日本社会が荒廃したのだ」という展開をした上で、「新しい時代の要請に応えるためにということで、彼らが挙げていることのほとんどは「国際経済競争に打ち勝つ人材の育成」なのです。これが彼らの言う「人間力」なのです。本当に五年、十年のサイクルで経済競争の軸というのは移っていくわけなのに、あたかもそれを普遍的なものであるかのように固定化して、「日本の国際経済競争に打ち勝つためにはどんな人材をつくらなければいけないのか」という、ただそれだけを展開している。

 まさに、この「義務教育の構造改革」の中で語られる「人間力」というのは、そういう人間像であると。だから教育基本法に書かれているような人間の自立という、ヒトに生まれて人間と育っていくという、これは障害を持つ子であれ、障害を持たない子であれ、男や女であれ、貧しい親の子であれ、そんなことを一切関係なく、すべての子どもたちが人に生まれて人間と育っていくという、こういう豊かな人間の成長発達を語っているものではないわけですね。使える人間を、どれだけ確実に作るのかというその観点の中で、社会の各分野からの要請という、一見まともな言葉のようでありながらが、実際はごく一部の部分的な要請ですよね。

 おそらく多くの国民が願っているのは、そんな話じゃないと思う。社会でまともに働いて生きていける、やっぱりまっとうな子どもたちに育ってほしい、もっといろいろなことが考えられるそんな子どもに育ってほしいという社会的各分野の要請の中には位置づけられてはいないのです。


いろんなすり替え

 私は、ここにはいろんなすり替えが見られると思います。例えば、この部会の性格や任務からすれば、教育課程の現状を分析しなければならないのに、その分析を全くしていないのです。教育課程の現状ではなく、「学校教育の現状」という非常に抽象的な論議に終始して、それで終わらせてしまっているのです。教育に起こっているさまざまな問題を一応書いたというだけです。学力の低下であったり、コミュニケーションの力が低下しているんじゃないか、ということを展開しているわけですが、こんな話だと教育課程の改善にはつながりません。

 つまり、今の日本の学校のなかで、教育課程と呼ばれているものが、どれほど個別の学校の子どもたちの事情を捉え、意味ある設計図として描かれ活用されているのか、そういう観点から現状を見ていけばもっと違った提案がでてくるはずなんですけれども、教育問題の一般論で終わらせてしまい、しかも「教育課程」の改善の話ではなくて、「教育内」容の改善の話につなぐというすり替えをやっているのです。

 私はここに非常に強い憤りを感じるのですけれども、それと同時に、先ほど言いましたように、義務教育の位置づけが非常に貧困なものになっていて、最低限ギリギリの教育を与えておいて、お国の役に立つ国民がつくられればいいといった義務(教育)観の問題と同時に、家庭教育への行政の介入・干渉という問題もあります。そして、さらにそれと並行して「自己責任論」が展開されているというふうに、私は読めると思います。

 今回の教育基本法の「改正」案と、これらの点はやはり重なっているんですね。教育基本法の理念の大切なところは全部残して、この50年間の間に起こった時代の変化の中で足りないものを書き足したという言い方をして、家庭教育とか幼児教育とかをあげています。今この主張を一番強くしているのは公明党で、「時代の変化に対応するのに必然的なものだ」と言っているのですけれども、私はこれらの新設項目には必然性は殆どないと思うのです。というのは、「学校教育法」という法律がありますし、私立学校法もある。ですからわざわざ教育基本法に私立学校とか大学とかの規定を置く必要はないのです。そんなことは、下位の法律で書けば良いことだと思うのです。


親や地域への責任転嫁

 しかも、この「家庭教育」という条文で何が書いてあるかというと、資料の中にありますように「親の責任」なのです。改悪案の第10条「家庭教育」―これも「新設」条文なのです―には「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身につけさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする」とあります。これは教育は「お前たちの責任なんだぞ」と国民に対して説教を与えるものになっています。一方では、暑苦しいほど国の責任を強調して、自分たちのやりたい所には、法律を通じて徹底して介入することを宣言しつつ、かといってお金をしっかりおとすとは一切書いていないのです。そうした結果として、それでもなお積み残しになる教育問題の責任については「親だ」ということなんです。「幼児教育」の条文も、私は決して幼児教育を優先しようとしているとは思えないんです。

 「家庭・地域の連携」について書かれている条文も、「地域社会にも責任があるぞ」、「お前たちの地域社会の子どもなんだから、自分たちでなんとかしろよ」と、最後の最期ギリギリに起こってくる問題については責任転嫁が法律に書かれているということだと理解しています。「国だってそんなにお金が豊かではないのだから、我々が責任あると思っているところだけはきっちり法律によってその内容を明示して、やらせ切ります」という。だけども完璧にはきっとカバーできない。その時に起こる問題の責任は、先ずは親の責任、次に地域の責任だと。そこでしっかりと受けとめなさい、ということを構造化して書き込んでいるわけです。「義務教育の構造改革」および教育課程審議会答申の中に見受けられる「自己責任論」、要するに自分たちに必要ない部分は、お金も使わないし、教育もしない、それが「スリム化」の本質ですから、その後の責任関係ははっきりさせておきましょうと、政府に責任を問うても、そんなことは知りませんよ、ということが書かれているということです。

 「人間力」というものが語られていますけれども、これは内閣府の「人間力政策研究会」及び文部科学省に置かれているキャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議という報告書に基づいていますが、ここに書いてある「人間力」というのは、先ほど申し上げたようなものになっているわけです。労働の問題も、非常に浅はかな扱い方をしているというふうに私は思っています。このキャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議については、これはどういうことなんだろうかと思う問題がたくさん含まれています。


大学のインターンシップ

 例えば、大学でもインターンシップを乱発しているわけですね。本当に、安物の「体験学習」が振りまかれている。ただ彼らを職場に出せば、それでちゃんとした勤労観・労働観を養えるのかということです。現場に行かせさえすれば良いのかという問題だけではなくて、「これをやっておかないてと、お前たちは就職できないぞ」という事実上の脅しとして機能しているのも問題です。インターンシップが入ってきたことによって、学生たちは浮き足だってしまい、夏期休暇中の合宿を含めたゼミ活動や自主的活動を進めていく上で本当に困るんですね。みんな引き受け先の企業ごとにばらばらに出て行くことになるのです。私たちのゼミは、フィールドワークで夏休みの終わり頃に実地調査に行くこともあって、一年中ゼミ活動をしています。もちろん、夏休み中も自主的にやってるんですね。これは私が強制したり要望しているからではなくて、学生たちが自分たちで日程を調整してやっているんですけれども、ある時期にほとんどの学生たちが交互に抜けていくわけですね。私は、彼らには、「わざわざそんなところへ行く必要はない。君たちは、ちゃんとした本物の教育をしている地域に入っているんだから、そんなインターンシップに行かなくてもいいよ。実体験はちゃんと積んでいるから大丈夫だよ」と言っているんですけれども、学生にしてみたら何らかのメリットがあるんじゃないかとか、行かないと就職に不利になるんじゃないかという不安にかられて、行っているわけです。

 それを見ていて、学生たちがかわいそうになってしまいます。言葉は「おやりなさい」ということだけれど、事実上は脅されて行かされている。それが確かな人間の成長について自分を見つめ直す機会でになったり、仲間と豊かな体験をする機会が保障され、それを生かして教育課程を作り直していっているわけではないのです。私は、この春から副研究科長(副学部長)になりましたので、教育課程の改訂をやろうと思っているのですが、今の段階では、全体として大学の教育課程も非常に厳しい状態に追い込まれています。

 こういった人間の見方や、労働の見方のなかで「人間力」が語られていることを、自分の足場の問題として、怒りを持って見ています。


国際「学力」調査の結果を確信犯的に利用

 内容的にはやはり一層の「詰め込み強化」、また授業時間増による子どもたちの負担の増加が盛り込まれています。先ほど申し上げましたように、いわゆる「国際学力調査」の結果を確信犯的に利用していると私は思うのですが、きわめて危険なことが書き込まれています。陰山英男さんもこの委員の中に入っているんですが「単純繰り返し反復学習が必要なんだ」ということが書き込まれています。しかし、調査結果が言っているのは、そんな反復学習のような単純な話ではないと思います。

 「習熟」という概念で言われていたものが、何でもかんでも単純反復の世界に持ち込まれかねないような話になっている。学ぶことの意義や中身が解らない子どもたちに、ただただ繰り返しをさせることに、果たしてどんな意義があるのか、それを考えようとしない。これでは、ますます学ぶ意欲を失った子どもたちが増えていくことになるでしょう。しかも、それが「習熟度別」という名のもとに、できない子たちを集団として固定化させて、できる子どもたちの邪魔をさせないといった学級編成の構造が作り上げられていくとしたら、これは一体何なんだろうか、と思わざるを得ません。

 「総合的な学習については検討を要する」としています。すぐに「あれは誤りだった」とは言えないのでこういう書き方をしているものの、明らかに、これは後退の意向を示していると私は思います。本来の意味での教育課程づくりに基づいたものであれはず意味のある「総合的な学習の時間」というのはありうると思いますし、教育活動としての意味を果たすと思いますが、たいがいは教育課程にはいっさい手を入れずに、あの時間だけを、先ほどのようなインターンシップの時間のようにやったら、また、ただ教科の時間を削るということでやったら、基礎学力の形成に矛盾が出てくるのは当然のことであったと思います。

 しかし、そういった根本的な問題点については何も指摘せずに、「見直しをする」という言い方をしておいて、また、その一方で今度は小学校英語の問題を言おうとしている。これは教育内容を研究しておられる方からご批判があると思いますけれども、ちゃんとしたコミュニケーション能力とか、自分たちがどう学ぶかということを抜きにして、ただ技術として英語を身につけるということであってはならないと思うのです。そもそもこれを言い出したのは河合隼雄さんの委員会なのですけれども、来るべき外国人労働力の流入に備えて、最低限のコミュニケーション力をつけるためには、英語が通じるぐらいのことはやっておかなければいけないだろうという、そのくらいの観点でしかなかったと思うのです。本当の意味での国際理解とか、語学的な教養を身につけるような力として考えているようには、私には見えない。

 もっと他にやるべきことがあるでしょうというふうに思うわけですけれども、そういう類のものが突然組み込まれてきている。

 それから教育内容の改善の方向についても、しっかり文科大臣から示された上で、内容をみろと言う、こんな審議会があっていいのかと思いますけれども、実践や研究をつきあわせて検討の観点からつきあわせてやるのが本来の審議会の役割のはずなのに、ちゃんと入り口のところで6点ですか、観点が示されて、その中で内容の改善を考えるという、全部縛られたような中で、もともとの縛りが問題になりますから、結局たいした話にならないというこういう形になってしまいます。

 私は、4番目の所に書きましたけれども、もともと教育課程のところに内容がないので、言葉に中身がないので、教育課程の構造の明確化というのは要するに彼らの観点での教育内容の組み替えの範囲をでるものではないですね。本来の各学校における教育課程づくりをどうするかという答えには全くなっていない。学校づくりの設計図を、私は教育課程と考えています。今、「学校づくり」「学校づくり」と言っていますけれども、教育課程づくりから学校づくりをやっているものが本当に少ない。教育課程づくりをやるというのは、学校の子どもたちの実態や課題、親の願い、そこから問題点を明らかにして、目標をたてていくというのが教育課程づくりですから、そんなことをやらずに、いきなり上からあてがいぶちで「どれ取る」と言われて、教育委員会の示したうちの「これ」とか言って、「特色ある学校づくり」だなんて言うわけですから、身のあるものになるわけない。


本当に学校が必要としているもの

 今、本当に学校が必要としているのは、この教育課程の問題だろうと思います。学校評価も一応の手続きとしては、学校目標の設定という段階があるのですけれども、これをはじめに校長が示してしまって、教員が「言っても仕方ない」というふうになってしまっている所がほとんどだと思います。でも、そういう中だからこそ、この学校目標というのは実は「教育課程とは何なのか」という話から入れば、相当に重要な話なわけです。これをしっかりやったら本来の学校評価につながる可能性もあるわけですけれども、ここで教育課程の話もせずに、あてがいぶちの目標を立てちゃうものだから、評価項目もものすごく貧困なものになっちゃう。子どもの挨拶の状況はどうかとか、数で数えられるもの、そんなものに全部置き換えられてしまって、「それが、どないやねん」というようなものが、その数値の達成として認めている。でも誰もこれで学校が良くなったと思っていない。こういう状況ですね。今日も岐阜に行った話をしていたら、もう教師自身もそういう数値にからめとられていて、「とにかく忘れ物をさせない」「あいさつをさせる」とか、「着席がどうだ」とかいう、もう点検・管理だと。(中学)2年生まではそれなりに子どもたちも反発を感じて、教師に立ち向かってくるけれども3年生になったら進学の問題がでてきたら、とたんにピタッと「いい子」になっちゃう。ビックリするぐらいに教師の意向を尊重する子どもたちになってしまう。だから子どもに対する教師目標が、数値目標がどんどん達成される。学校評価は点数でいえばすごく良くなっているんだけれど、教師から見ても子どもから見ても、良い学校になっているとは全然思えないんですよ。子どもたちが自分を偽って、見事に学校の枠の中に収まる。教師もそんなことをやりたくないけれども、そこの所に押さえ込まざるを得ない役割に立たされてしまう。子どもたちは口に出しては言わなくなってしまっているけれども、教師のことを全然信用していない。あんたたちは俺たちを縛って、いわゆる評価の名の下に、高校進学を左右する人たちなんだ。こんな学校になって行っているわけなんです。従って教育課程を語らないことの犯罪性というのは、私は本当に深刻だと思うのです。

 で、最後のところに「学校教育の質の保障」というのが出てきて、ここで国の責任を暑苦しいまでに書いて「到達目標を明確化する」という。この「到達度評価」と言う言葉がでてきたときに、どこまで京都の実践を学ぶのかと思いましたけれども、本当に見事に学びませんでした。言葉だけの「パクリ」の世界です。「総合的な学習の時間」、「総合学習ではない」とか、「生きる力」とか、「確かな学力」とか、言葉をパクリまくって、内容は本来議論された組み立てとは全く違うものになっている。ただその中で、「到達目標」というのは、学校ごとの実状なんてのはどうでもいいわけなんです。おしなべて日本の子どもたちに「これだけの内容は、ともかく日本の子どもたちに与えきる」という、これはちゃんと試験でチェックをやって、教員管理・学校管理に役立てますよと言うこういう構想の中で、いわゆる内容の厳選が行われるという形になっている。

 「基盤整備」と書いてあるが、この基盤整備は、それに向けた基盤整備として教員処分の問題が語られる。だから、項目だけ流し読みをしたら、それなりの流れになっていて、大事なことが書かれているように見えるんですけれども、まさにこの改悪教育基本法と重なるような内容で書かれているし、ある意味、民主党の案は政府案よりも徹底した市場原理で貫かれようとしているように見えるわけです。

 この「到達度目標明確化」の裏には、教育評価の問題がでてくる。私たちの言っている教育評価ではなくて、「命じられたことをどれだけ徹底したのか」という、こういうことです。大学でも教育基本法の改悪問題はどうなのか、私たち大学人に関係あるのかという問いが大学の先生からでてくるわけです。関係あるもないもですね、しっかり「大学」という項目まで書き込んでいます。


教育基本法への攻撃

 現行第2条の教育の方針という実に大事な方針がバッサリ切り取られて、一見、合理的な目標でなく目的として第2条が狙っているわけですが、現行の第2条は、どちらかというとあままり注目されなかったんですけれども、よく読めばすごくいいことを書いてあるんですね。これ学校教育基本法ではなくて教育基本法なんですね。第1条「教育の目的」で「人格の完成」が書いてありますけれども、それ以上の徳目が書いてあるわけではないんですね。人間として自立するという時の「人間とは何なのか」という問いは、それぞれの中に答えがあるわけです。つまりこれから成長発達していく子どもたち一人一人が人間らしく生きていくためには、自分はどんな人間になりたいのか、人間とは何なんだろう、自分って何なんだろうということについて、子どもたち一人一人が答えを出していく。それでいいわけですよね。私たち教師は自分なりの人間観を持ったとしても、それは子どもたちに押しつけたり、植え付けたりするものではないんです。文学や芸術や歴史、科学を教える中で子どもたちがより合理的に判断をして人類の先人に学びつつ、人間らしさを自分のものにしていくことだと思うのです。こういう意味で語られている教育の目的は、私は非常に大事な部分だと思います。

 そして第2条の中で、この目的は「あらゆる機会、あらゆる場所で追求されなければいけない」と書いてあって、学校だけじゃないんだと、職場であったり、地域社会であったり家庭であったりというがあり、なおかつそれは学問の自由の下に追求されるという、ここに憲法が入ってくるんですね。大学の先生だけの自由じゃなくて、すべての国民が学問の自由を保障され、ありとあらゆる場で人間に育っていく。私だって、まだ人間として自立していないわけで、てめえの給料で食っているだけであって、人間としての自立はまだ半ばで、ただ学生たちに教育と研究をしながら、自らの自立を支え合っているという、こういう関係になっているわけで、この2条は本当に重要な意味を持っている。我々主人公が、教育の担い手になっていくという成長の姿が書かれているわけです。

 改悪案の第2条は、この教育の方針を切り取って、一見合理的に見える教育の目標が来ているんですけれども、この中身はもう悲惨な中身になっているわけです。一番、公明党との間で問題になった第5項で、「愛国心」という言葉は取っ払いましたけれども、「伝統と文化を尊重し、それらを育んできたわが国と郷土を愛すること、他国を尊重し、国際社会の発展に寄与する態度を養うこと」までもが目標として、具体的に書き込まれている。公明党のみなさんは「これで愛国心じゃなくなった」と思ったんだそうですが、そんなバカな話はないだろうと。


改悪案第2条と愛国心

 大学の先生に、私はこう言ったんですけれども、「大学が書き込まれて、先生、大学で目標があるんですよ。授業の中で学生たちに愛国心を語るだけではダメなんです。学生が態度で示すところまで持っていかなければ、先生は『大学教育の目標を達成していない』と言われるんです」と。この「態度で示す」というのはくせ者ですね。これ、東京まで来たらわかりますように、日の丸・君が代に対する扱いですね、次第次第に過激になって行ったわけですけれども、最初は日の丸を掲げるかどうか、君が代を流すかどうかということが話題だったのですが、今は拝礼しているかしていないか、拝礼していない子どもたちがいる、これはどういう指導なのか、あるいは今は君が代を歌うだけではダメで50フォン、60フォンとか言う大きな声で歌わなければダメだという所まで示して、もう点検表か項目がおろされているわけですね。こんなこと言われなくたって、私自身は愛国者だと思うのですね。この国や、人々を私は愛している。かけがえのない国だと思っている。だけど、それを法律で命令される覚えはない。そもそも、法で命令されなければ愛されない国になっていることの裏返しではないのか。妻に対して法律で「私を愛しなさい」と、命令しなければ愛されない夫というのは、一体何なんだろうかと。愛される国をつくることこそが、私たち、先をゆく世代の後継者に対する責任であるにもかかわらず、法律を持って愛を命じる、しかも態度にまで表せと言う、これはもう教育とは縁もゆかりもない正解になったことを明確にこの法案は示しているということなんですね。

 しかし、今回の議も教育の構造改革はまさに構造改革ですね。こんなことを義務教育で実現していこうとしているんです。その点で、私は最後の所に書きましたけれども、全くもって教育基本法案、政府案との一体性の中で義務教育の構造改革が語られ、第2条の改革が語られているところに、重大な危機感を感じています。


国民が教育基本法を語り始める事態をつくる

 最後に、この義務教育の構造改革にかかわらず、ある意味、今回、この政府案を出してくれたことは非常にありがたいことだと思うのです。つまり、悪い形の対案がないところで、教育基本法の意義がこれだけあるということを説いても、あまり具体性がないわけです。でも、これだけはっきりしたものが出てきたら、1条1条比べると似たような言葉が残っていても、全く意味が違うものになっているといことが非常にはっきりわかるわけです。つまり、現行の憲法・教育基本法も、権力を抑制するものとして書かれているわけです。国民に何かを迫るものではなくて、国民の権利を認めるけれども、基本的には政府の抑制として語られているのが憲法・教育基本法である。ところが、彼らが言う改正憲法・改正教育基本法は、国民に対して義務を命ずる、そして政府の権力を置くという中身になっているわけです。

 私は、最後の最後まで政治家というのは信じられませんから、どんでん返しがないとは限らないけれど、基本的に継続審議で秋の国会で、この教育基本法問題で解決をつけるということになるんだろうし、それを超えたらずいぶんまた先に伸びると思うのですね。やっぱり年明けの参議院選挙の問題があるので、今国会で法案をあげたかったわけですけれども、それができなかった。ポスト小泉の問題もあって、結局ここでは形をつけなかったという問題があるんだとは思いますが、しかし秋には勝負をかけてくるだろう、するとですね、この残された何ヶ月かの間に、国民が教育基本法を語り始めるという、この事態をつくることだと思うのですね。はっきり言って、今政治家は、国民が何も知らない、何も考えていないと思っているんだと思うんです。完全にバカにしているんですね。「何をされているのかわからないんだ。あいつらは、教育基本法の改正なんて誰も見ていないし、わからないだろう、今のうちにやっちゃえ」というのが本音だと思うのです。

 ただ小泉さんの政治主導はそうですけれども、彼は本当に自分の評価しかしゃべらないわけですね。いっぱいしゃべった中で、テレビに出てくる15秒ではなくて、彼は15秒のコメントを繰り返すという方法です。でないと、ポイントのつかない所で報道されると困ると。だから今訴えたい所を、広告代理店を通じて作っているはずですけれども、政策のポイントを15秒にしても、15秒でわかる言葉にしてやるというプロパガンダなんですね。その裏返しは、深みも何にもない、その話しか彼には何もできないだろうし、という政治家も含めて衆愚化されちゃっている中での「あやうさ」の中にいるわけです。

 その国民たちは、たとえば市バスの中や地下鉄の中で、「やはり教育基本法のあそこは、こういうふうに考えたらいいんじゃないの」とか言うことを一般の人が語り始めたら、「あ、この人たちちゃんと法律を読んでいる。まずい、バレちゃうんじゃないか」という、私は普通の学力があれば、そのくらいこのとわかると思うんですね。

 だから法案はいかにも自分の生活から遠いものだと、だって、パット見て読みたいと思わないですね。だけど、幸い教育基本法は10条しかない。だから、もっとわかりやすく読み解く形で、できたら法案を読む力を、私たちが自分たちのものにしちゃうと。すると、今続いている悪だくみを、この教育基本法をきっかけとして、逆転していくことができるということじゃないかなというふうに思っているわけです。


私たちのマスコミ戦略

 教育基本法「改正」問題に対する大手新聞の報道は、軒並みダメです。これらの報道機関は政府や自民党との密接な関係のもとで社内報で基本方針を示し、その社内報に従って記事を編集していますので、現場の記者がそれなりにいいことを書いても、全部切られてしまうのです。

 しかし、地方紙はこの間、随分違ってきています。さすがに共謀罪あたりから、これは拙いと思うようになったのかもしれませんけれども、極めてまともなことを書くようになっているのです。大手紙も、それは解っているはずです。私たちは「こんないいかげんな報道をするのなら、もう『○○新聞』は止めるぞ」といった苦情を出したり、投書や投稿をしてそうした声を新聞に載せさせていく必要があるだろうと思います。いくら自民党との関係があっても、読者がいなくなったら新聞社はつぶれるわけですから、「見識をもった報道をもっとやってほしい」という読者の声が強くなっていくと、それはかなりの影響力を持つようになっていくと思います。

 実は、レジュメの冒頭の「はじめに」の上の部分に書きましたけれども、法政大学の佐貫浩さんに代表になっていただいて、「教育基本法『改正』情報センター」というものを立ち上げました。インターネットをご利用の方は、ぜひこのURL―httpで始まっているものです―から「教育基本法『改正』情報センター」にアクセスをしていただきたいと思います。有志でこういう団体をつくって、国会の中の審議状況をリアルタイムで流したり、正確な資料やできるだけ心ある論評をここに載せて、世間に拡げていこうということで活動をしています。

 今、相当に閲覧数が増えてきたので、もうちょっと頑張れば、検索に「教育基本法」という言葉を入れただけで、第一位にこの「教育基本法『改正』情報センター」があがるようになる可能性を持っているのです。そうすると教育基本法問題に、どんな立場であれ関心を持っている人が、まず最初に出てくるこのページを読むようになります。このページを通じて教育基本法に接近する人たちの数が圧倒的に増えてくるということになります。

 これは私たちの情報戦略としてとても重要です。この中で大学人に対するメッセージがありますが、これは私が書いた文章なのですが、こうした形でどんどん発信をしています。こういう形での国民へのアピールの仕方もあるのです。

 一方で、情報戦略に影響を与えつつ、日々の暮らしの中で教育基本法がごく普通に語られるという状況をつくりあげることに、本当にこの短い時間に、私たちはどこまで迫れるかということだと思うのです。

 私は、本気でこういう動きをする人びとの数がこれだけ増えてきたら、十分に展望はあると思っています。国立大学法人法のときも、本当に渾身の力をふりしぼってやりました。朝日新聞に法人法案反対の全面広告をうつために、私は生まれて初めて50万円という金額のカンパをしました。もしも50万円で情勢が変わるんだったら、これはやってみようということで―実は、これは大変な金額だなとは思いましたけれども、奥さんも「いいよ」と言ってくれましたので―やりました。

 そうすると、何と廃案の直前まで漕ぎ着けることができたのです。そんなに多くの数の人が動いたとは思いませんが、だんだんと動きが広がっていく中で、ギリギリ国会会期末まで持ち込んだんですよね。ところがイラクの特措法の問題で、50日間の会期延長がなされて、結局、強行採決で通されてしまいました。しかし、私たちは、勝利の目前まで辿り着いたんですね。あの法案は成立してしまいましたけれども、あそこで闘った人たちは負けたと思ってないんです。その気になれば「我々の手でひっくり返せるんだ」ということを国会闘争のなかで学んだんですよね。そしてその時の主力部隊が、この情報センターに結集して、あのときに培ったノウハウを駆使して、国会議員に対する工作とか国会闘争を展開しています。

 そういう意味では、歯がゆい思いをしている方が多いと思いますけれども、我々の中にも新たな戦術や知恵が生まれてきていることも事実であって、いかんせん教育基本法改悪阻止の中心勢力を十分に結集できていないという問題があるかとは思いますが、十分に勝算があるというふうに思っています。

 後半、やや話がそれてしまったかも知れませんが、以上が今回の中教審答申に対する私のコメントであります。ご批判をぜひとも宜しくお願い致します。
 「京都教育センター年報(19号)」の内容について、当ホームページに掲載されているものはその概要を編集したものであり、必ずしも年報の全文を正確に掲載しているものではありません。文責はセンター事務局にあります。詳しい内容につきましては、「京都教育センター年報(19号)」冊子をごらんください。
2007年3月
京都教育センター
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