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京都教育センター年報 第19号(2006年度)
第一部 問題提起 記念講演

憲法・教育基本法とともに歩んだ私の教育:41年(要旨)

     
野本勝信(元城陽市立中学校長・京都府同和教育研究会会長)
第37回 京都教育センター研究集会
日時 2007年2月7日(土)13:00〜15:00
場所 京都教育文化センター302号室
司会 市川 哲(京都教育センター)
記録 浅井定雄(京都教育センター)


50年前の結婚式

 ご紹介いただきました野本でございます。私は教職41年間、義務教育学校ですね、41年間、中学校ばかり勤めさせて頂いたんですが、定年退職してからちょうど20年になります。それから、家内と一緒に『二人で歩んできた道』という表題を本に書かせていただいたわけですが、ちょうど50年前に、ここの京大のホールで結婚式をしたわけです。今から思うと、その時の知事は蜷川虎三さんです。結婚式のやり方は全く普通のやり方じゃなくて、平服で、一人が200円お金を持ってきて下さって、それで参加者はワインで乾杯をする部分と、それから後は、お茶かコーヒーとケーキ一つという、これで結婚式を2時間やらさせていただいたわけです。

 その際に蜷川虎三さんが、直々に来られないので、秘書課長から「お祝いに」ということで、日本酒を2本さげて持ってこられました。お酒の好きな方はそれを開けて、全部空っぽにされました。

 その時の仲人は、京教組委員長の糸井一と奥さんのおふた方にお願いをしました。従いまして、私は校長歴は短いですけれども、ずーっと労働組合運動、これに参加をしてきました。


教師になったころ

 41年間の中では、いろんなことがありましたね。その一つですが、教師になったとき、これは終戦後3年たってから就職した学校が、田舎の方の学校ですが、今は開発されてたくさんの家がある、田園風景は大きく変わって来つつある町の学校ですが、そこに赴任をしたわけですけれども、その時に、最初に話を聞いて驚いたのは、小学校6年生の子ども、卒業する前の子どもを中学校に集めて、そして算数と国語のテストを行うという。そしてそのテストの結果をみて、1番から40番までを一つのクラスに入れるという、そのほかの41番以下の子どもは、教室の大きい、小さいがありますから、それに分けて、分配をしてクラス編成をするという。で、Aという、一番良くできると校長が判断したクラスを学年主任に持たせる。それから校長に反対するような者には、学級担任を持たさないと言う、これが学校の方針ですね。

 これは戦後間もない頃で、教育基本法ができて間もない頃に、「こんなばかな学校運営をしているところがどこにあるんだ」ということで、大変私も怒りを覚えて、たびたび職員会議があると「言い合い」をするということが続きました。

 「お前がおると、職員会議が長くかかる」と言う小言をしばしば頂いたということがありますけれども、それに輪をかけたように今度は「あんな奴はじゃまになるから、今度はお前達が行ったら困るような場所に転勤をさせる」と。


教職員の人事異動の内示を交番所に呼んでする

 昔は内示というのはありますから一週間前に。そして内示をする時には、私は小学校の免許状はないんです。だけど「あなたは小学校に行きなさい」と。で、今よりも1時間ほど多くかかる村に行きなさいと、こういう内示をしたんですね。その内示を、学校でしたのではない、教育委員会でしたのでもない。交番所に呼んで「あなたは、もう先の学校から大変要望されていますから、そちらへ行きなさい」。こんなばかなことがあるかと。交番所で、教職員の人事異動の内示をするというのは前代未聞だと。

 そういうことがあって、これは非常にもめますけれども、その時の教職員組合も知らん顔。もう仕方がないので、最後の手段として、占領しているアメリカの京都府の管轄の担当者に訴え状を出した。そうするとたちまち、当時の京都府の教育次長がものすごい青筋を立てて「お前らは、日本人だろう。日本人であれば、日本人同士で話ができないのか」と言って、テーブルを叩いて怒りました。

 けれども、府の教育委員会は、これをきっかけにして校長の出したやり方は間違いだということで、「白紙撤回」をした。そして、その時の人事担当の府の担当者は「これから十分、府の方も指導するから。校長は、ああいう校長だけれども、よく話し合って、協力してやってくれ」と、直に私の下宿先に来て、それを伝えて帰りました。

(中略)

一致をすることが子どもの教育にとって大事だ

 それから、ちょうど二代目の校長が、同和教育研究会の役員になりましたから、「おい、野本君、お前ひとつ私を助けると思って、同和問題の解決についてこの地方の事務局長をやってくれ」と言って私に頼んで訳です。「ああ、いくらでもやりますよ」と言って、その校長がちょうど赴任してきた際に、私たちもこれは若気の至りやと思いますが、教頭は知らん顔をしているわけですね。職員会議が始まってから、新しい校長の下で新しい学校づくりを始めると。「教頭の責任はどうなるんですか」と新しい校長に聞いたら、校長は黙ってニヤニヤ笑っているだけと。そうしたら職員は一致して、教頭不信任を出して、それに異議がないかということで、教頭不信任案を可決すると。

 「こんなばかなことがあるか」ということになりますけれども、そのころは、そういうこともできて、職場のみんなが一致をするようにして、一致をすることが自分たちにとって、また子どもの教育にとって大事だと言うことで、全員が一致してそういうことをやっているんですけれども、校長は「いや、それは後は私に預けて下さい。そこまで職員に言われても困るから」ということで、一年ほどあとに、その教頭はどこかへ転勤させたわけですけれども、その間、ちょうど2年間、新しいやり方で教育を進めることができた。


『35年ぶりの綴り方』

 それの記録が全部ここに出ているわけです。『35年ぶりの綴り方』という本で、昭和20年生まれの生徒ですね。これは「人権の教育をどのようにやったらいいか」という、理屈でどれだけ「人権は大事だ。平和は大事だ」と言っても、それは身に付かない。だから、体を動かして、活動をして、一人一人の大切さ、そういうものを身につけていく必要があると、私はそう考えたわけです。

 そこで夏休みに入ってしばらくしてから、私が自分で勝手にやるわけにいかんし、子どもに相談をして、リーダになるような人に相談をして、そうすると「担任の先生はどう思いますか。私らはいっぺんみんなで学校の、自分たちの使っている場所だけでもいいから、教室と廊下と便所と階段と腰板と机まで、力を合わせてまっさらのように美しくしようじゃないか」という提案を持ちかけた。

 それがきっかけになりまして、子どもを一クラス、だいたい6つぐらいの、5〜6人ぐらいの小さな班に編成をして、そこでいろんなことを相談する、学習のわからないところはわからないということで、解った者が教える。あるいは「ここがわからんから、ここを助けてくれや」と言える。「家でこんな悩みがあるんだ。これはどうしても家へ帰って親にも言えないから、どうしたらいいやろう」と、相談を持ちかける。そういうことを面と向かって言い合えるような、それを「小集団活動」と私たちは呼んだんですが、そういう活動を子どもたちが実践した。

 2年間、ずっと卒業するまで。担任はそのまま持ち上がりで、4つの組がそのままずっと上がって、そういうことをやったわけですから、確かに自分たちが使うトイレであるとか、階段であるとか、教室、そういったものを自分たちで汗水流して、ものすごい勢いで、家からたわしを持ってくる、ワラを持ってくる、磨き砂を持ってくる、そしてきれいにずっと、「へえー」とい驚くような働きぶりを見せて、「明日隣のクラスから友達が来たらびっくりするで」と。「まるで、これは、自分の所は一歩遅れたな」と。「隣の組の方が非常に美しくなっているじゃないか」と、まあそういうことに驚いた。

 そうするとまた次のクラスも「うちも小集団活動をしよう」ということになって、組み分けをして、そこでまた相談をして「隣の組は、あんなにがんばっているじゃないか。勉強が出来るだけでは人間は生きていけないのですよ」と。  お互いにわからない所はカバーをしあい、助け合いをしながら、人間というのは生きていかないとだめなんだと。勉強がいくらできても、掃除をさぼったり、人の悲しいことを放っておくような、そういう人間になったらだめなんだよと、そういうことをずっと2年間の間に学んでいく。そういう活動が、ちょうど2年間行われた。(本の)中をちょっと読んだらいいんですが、時間がありませんので。これがちょうど今で言えば61歳になっている生徒で、一昨年クラス会をやりましたら、「ああいうことをやったために、生きる力ができました」と、子どもたちが顔を合わせて非常に感動しあえたと言うことですね。


京都市内の中学校への転勤

 こうした取り組みをしたんですけれども、私はその学校に13年4ヶ月も勤めておったということになります。新しい校長、三代目の校長が出てきて、「おい、野本君、君は13年以上もここにおるじゃないか。いいかげんによその学校に行ったほうがいいで。おれが責任を持って世話するから、どこかへ替わったらどうや」と。「どこへ行きたい」というから、「京都市内やったらどこでもいい」と、言う話をしたら、「できるだけそういうふうにします」と言うことで、途中からですけれども、京都市内の中学校に行ったわけです。

 ところが、京都市内の中学校に行きますと、ここもまたものすごく遅れていますね。民主教育、平和教育なんてくそ食らえみたいな、そういう学校ですね。私はそこには丸5年間はいなかったんですが、「5年たったら替わる」という約束になっていたようですけれども、4年と何ヶ月間しかいなかったんですけれども、ここも異動の内示をする場合には、校長は雲隠れしておりません。教頭が異動する者を一人づつ校長室に呼んで、「校長は用事があり、ここに来られないので、異動の内示をします」と言って、教頭が異動内示をする。「何で替わらんならんのか」と聞いても「いや、私はわかりません。校長からこれだけを伝えろということやったから」ということで、そのまま。京都市の教育委員会というのは、きわめてずさんな、腹の立つようなやり方をずっとしてきた。


元旦に「皇居遙拝」をする学校

 そして二つ目の中学校に行きますと、ここは、またもう一つひどい。私が行ったときは、クラスの担任は持たさない。そして、おもしろいことに、「1月元旦は登校日にするから、生徒、職員は全員集合せよ。体育館に集まれ」と。体育館に集めて何をするのかと思ったら、校長が壇上に上がって、「みなさん東の方を向いて、皇居遙拝! はいこれで終わりです。おめでとう、これで解散します」という。  こんなばかなね、「皇居遙拝! はいこれで終わります」。こんなばかな校長が京都市のど真ん中にいるという。それも京都府の府庁の前の学校にいるんですから、これはもう大変なことだと、これは何とかせんとあかんというふうに思ったんですけれども、そこはまた、なかなか組合に入っていない人が少なくて、みんな組合員なんですが、「あっ」という声もあげられないうちに、いろんなことをやってしまうという。

 たとえば、よく平和教育と言うことで、修学旅行が広島とどこかへ行くという、あるいは長崎とどこかへ行くという、みなさんそのころははやっていたようですけれども、ちょうど文化祭の劇に、広島で被爆をして生き残った子どもたちが寄り集まって廃品を回収してお互いに励まし合って生きていこうとしている、その劇を取り上げて文化祭に発表しようとしたわけです。そうすると、校長はそれをリハーサルで見て、「おい、脚本を持ってこい」と。「これとこれとは脚本を書き換えよ。消せ」と。「爆弾をアメリカが落とした。戦争をしたのは日本とアメリカだ」脚本にそういう言葉があるようですね。それを「消せ」と。「消さなければこの劇は上演禁止だ」と、そういうことまで言った校長なんですけれども。

 「まだまだ、これといっしょにいかんならんかなあ」と思っていたら、私はそこから後は、同和教育研究会の事務局長として外へ出て行かなければならなかった。だから、そこでは校長とやりとりしないで、郡部の方に転勤をしますということで、そのまま出てしまった。だから、子どもの人権を大切にする、平和の心を大切にする、そういうことは口では言えても、体を働かせ、体を動かして、友達といっしょになって、汗水流していっしょに、悲しいことも苦しいことも分かち合って行くような日常生活をつくって行かない限り、そういうものはなかなか身に付かないなあということを、振り返ってみて強く思っております。


同和教育研究会の専従から現場へ戻った学校で

 あと、私は同和教育研究会事務局長の専従ですから、現場へ戻る必要があるということで、最初に戻った学校が、宇治市内の中学校。

 その宇治市内の中学校で赴任をしたその翌年ぐらいだと思いますが、登校してみると体育館の窓ガラスがみな割られていると、そいうい荒れた学校になっていたということですね。授業中は窓から飛び出る、廊下を自転車で走り回る。爆竹をならす。そうすると非常に人数の多い学校ですから、廊下は一直線にずっと長いので、バイクで音を立てて走ると、大変な騒音になり、近所にもものすごく迷惑をかけますので、パトカーが来たわけですけれども、「何とかここは警察のやっかいにならないで、親と手を結んでそこを収めよう」と、それが学校長の方針でしたから、私は途中から教頭になりましたので、その校長の方針に従って、保護者の方に毎日14〜5人来てもらって、教室から飛んで出るような子どもに声を掛けて、「授業中でしょ。いろいろあるだろうけれども、勉強をいっしょうけんめいやらんと、将来に困ることがあるよ」という声をかけてもらって、これは1年半ぐらいかかって、やっと収まった。そういうことです。

 これが同和教育研究会の専従から現場へ戻った学校の初めですね。


「親と連携をしながらやっていかないとダメだ」

 二つ目の学校は、宇治市の隣の中学校で、ここで私はもう定年になりますが、ここの学校も、宇治市の学校のように、自転車で廊下を走ってはいませんけれども、石を当ててガラスをずっと割っていくとか、授業中に飛び出していく、注意されると先生に向かって、げんこつでがーっとやってくるという、そういう学校になっていたということですね。

 これも、ただじっとしているだけでは片づきませんから、「これはどうしたものか」ということで、一つは「親と連携をしながらやっていかないとダメだ」と言うことに加えて「学校の中でできること」、子ども同士が話し合って、自分たちで約束事を決め、目標を決めて、それに向かって歩んでいく、これを繰り返し、繰り返し、いろんなことに取り組むと言うことをやってきたと思います。

 その一つに、この中にもその中学校におられた先生も見えておられますが、ここも修学旅行は広島か長崎というふうになっていたのが、偶然に2年生の時には冬山のスキー学習に変えるというふうになって、今度は3年生の修学旅行は、2年生で終わってしまうと3年生でなくなるので、3年生になってからは広島へ行くというやり方をしたんですが、その場合もただ広島へ行って話を聞く、状態を見る、様子を見るということだけではなくて、1年前から爆心地の中学校と文通をし、いろんな生徒会活動の内容を交流しながら、広島に行った時に、初めて顔を合わせて、お互いが「あれがこういうことになっているのか」「あれがこういうふうにがんばっている生徒達だなあ」と言うことを、目の前にしてお互いに「平和な世の中にしなければいけないな」「原爆の恐ろしさ、これも口先だけではダメだな」と、そういう思いを強く残しながら、旅行を終えていくと、そういうものに大きく変えていったわけです。


競争で競り合っていくというやり方では学校教育は持たない

 それから、今、教育基本法を大きく変えようとしていると報道がずっと続いておりますけれども、私が勤めておった所では、ほとんどの学校が、学校の決まりをつくっておりますけれども、決まりを本当にきちっと守るということになりますと、がんじがらめになります。それに違反する子どもを呼んで指導すると、そういうことをしばしばやらなければならんということが起こりますから、「なんとかして、子どもの自主的な活動でそれを成功させた」という、そういうものを子どもに返していくと、これをやることによって、また次に難しいハードルにあい、その力を使って越えていくという、そういうことを繰り返しやって行きながら、今つくってある学校の決まりを、大きく変えていくと、そんなことも考えて、先生方と相談しながら、また先生方は子どもたちと相談しながら、時間を掛けて、2年、3年、4年と時間を掛けて、これを変えていったということがありました。

 だから、このような取り組みを進めていくためには、「学力テスト」と称して、子どもを輪切りにして、あるいはよい者ばかりをひとつの学校に、あるいは2つ3つの学校に集めて、あまり成績の良くない子どもはまた違う学校にというふうに、バラバラに切り離していく、そういうことを目指していくということは、これは地域に根ざした教育はできない。

 子ども同士が交流していく、いろいろな良いところを見つけ合って、そして一人一人の大切さ、「あの人はこういう所が優れているなあ」「ぼくもこういう所が足りなかったなあ」「あの人のやったことから、これから学んでいこうなあ」と、そういうこともできなくなっていくと。競争、競争で競り合っていくというやり方では、学校教育というのは持たないと。親は親で今度、「塾通い」が増えていくと。そういうことにもつながっている。

 そういうことがありますので、今の政府は、一体何を考えているのかと、いうことを考えていきますと、やはり一番大事なところは、「憲法を改悪する」「憲法の第9条、これを何とかして変えていこうと」。そういうところに新しい狙いがあるのではないかと。チラシにも「新国家主義」と出ておりますけれども、新しい時代に逆行した教育改革を進めようとしているということを、なんとかみんなの力でこれを押し返していくと、あるいは切り崩していくということをやっていかなければならないというふうに思います。

(質疑応答:略)

*野本先生の「ノ」は活字がないために「野」を用いています。ご了承ください。
 「京都教育センター年報(19号)」の内容について、当ホームページに掲載されているものはその概要を編集したものであり、必ずしも年報の全文を正確に掲載しているものではありません。文責はセンター事務局にあります。詳しい内容につきましては、「京都教育センター年報(19号)」冊子をごらんください。
2007年3月
京都教育センター
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