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●京都教育センター通信 
復刊第20号
 (2008.2.10発行)

あなたの学校に文章化≠ウれた冊子としての『教育課程』がありますか?
──辞めてから分かって来たこと──
                  藤原 義隆(京都教育センター)

      


1、(かけ算九九が×2≠ゥら始まる非科学性)

  昨年八月、私は親・教師三十人弱の研究会で主として家庭学習について話をしました。話の途中で質問、挙手してもらったのですが掛け算九九は全員「×2」からでした。「×0」「×1」はないのです。

 これは累加・累減で乗除算を習った痕跡≠ナす。量で乗除算を教えない指導要領の非科学性がこんな形で表れているのです。「あれっ、割り算してるのに答えが増えてる!?」という迷いを子どもに与えてしまいます。

 教育は、目標、内容、方法、評価が一体のものとなって進められます。上の例は、内容が科学的でないことの破綻です。どうするか?この難しい課題は学校ぐるみでなないと方法は見つからないし、そのためには学校としての教育課程が必要です。指導要領も総則の中で学校ごとの教育課程の必要性を認めているのです。やり方次第で道は開ける≠フです。


2、(辞めてから分かって来たこと)

  今、述べたことは、実は辞めてから身にしみて分かってきたことなのです。教育課程というのは単なる教科の時間割ではありません。子ども・地域の実態を分析した結果から作り出す学校(地域)作りの全体計画なのです。当然、子どもの家庭状況(就学援助率など)体力、運動能力の調査・分析も必要です。

 これらの資料を元に教職員(教員だけではない)で作り出す全体計画、これは文章化すればとうとう分厚い冊子になります。こういう作業を経て教育方針が時には親・地域住民も含めて共有化され力を発揮するのです。

 私は現職中、ここまで気付きませんでした。こう考えるきっかけを与えてくれたのは、中須賀ツギ子先生の石田小の実践、小野英喜先生の朱雀高校の教育課程でした。


3、(学年作り抜きの学校づくりはあり得ない)

  私は双子を持つ他校の親から「兄弟なのに弟の組は宿題があるけど兄の組にはない。どうすれば良いか?」と質問されたことがあります。どちらの先生も組合に入っておられるのにこういう違いが起こっているのです。

 「宿題をどうするか」ということも教育課程の重要な内容です。独習を援助するという観点で宿題を考えれば、独自のカリキュラムの作製も可能です。

 私は辞める前の12年間、どの組も同じ宿題、毎日するということを貫きました。この12年間は私が学年主任ということでリーダーシップ発揮したことになります。ほとんどプリント化、休日、学校行事などの日も例外を設けないということは、教師にとっても子どもにとっても思想闘争でした。

 親の評判抜群、子どもも誠実に応えてくれました。学校ぐるみと言いますが、学年ぐるみ抜きの学校ぐるみはあり得ません。







第三十八回京都教育センター研究集会記念講演[要旨]
2007年12月22日
未来を拓く教育を──教師の仕事と学力の形成
新しい学力評価・管理システムと新指導要領体制批判
                   佐貫 浩(教科研副委員長/法政大学)
この文章は、2007年12月22日に開催された「第38回京都教育センター研究集会」での佐貫浩さんの記念講演を、当日の記録をもとに主催者の責任において要約し、要旨を公表しているものです。小見出しも編集者がつけています。従って文責は京都教育センター事務局にあります。

ダイナミックな時代

 私自身は、今本当にものごとをダイナミックに考えることができる、そういう時代と状況の中に私たちは置かれていて、そのダイナミズムというものを頭脳の中に写し取ったときに、人間もダイナミズムに組み込んで日々の生活を生きていける、そういう時代なんじゃないかと思います。しかし現実は、新自由主義が作り出す独特の圧力と言うか、論理というか、そういうものによって本来、私たちが直面している歴史の転換点が持つ非常に構造的でダイナミックなものが見えない。ここに非常に微妙なところに私たちが今いるような気がして、そこをどうやって把握するか、そのことがすごく重要になっているというふうに思いました。その観点でいくつかの柱立てでお話をさせていただきます。


教育の組み替えをどう見るのか

 第一点目は、この数年間「学力低下」というこの言葉が教育界を席巻することを通して、教育政策や人々の教育行動が大きく組み替えられてきたという、この事実をどう見るのかということです。「学力向上」というふうに言いますけれども、一応世論の言うように「低下している」として、それが引き起こされた原因は、私はきわめて明快だというふうに思っているんです。それは、詳しくは言いませんけれども、一つは「社会の階層化」ですね。今、子どもの三分の一が貧困世帯の中で成長している。これは厚生労働省の調査による生活保護世帯の最低生活費という、これがまあ基準ですが、それより下で育っている子が、日本の子どもの三分の一。そしてその底辺の子どもたちが大きな問題を抱えている。学級崩壊だとか、場合によっては虐待とかですね、そういう子どもたちは特に学校の中で安心して生きていくことができないような、いじめとか暴力とか差別とか競争とか、そういうものもあって、従ってそういう中では子どもがまともに成長していくという条件が、この間、急速に日本は奪われてしまった。


教師の主体性の剥奪

 それから、「教師の主体性の剥奪」ですね。先生が誇りを持って「こういう子どもと今全力で取り組まなければいけないんだ」という自分の思いを、「困難ではあるけれども実現しているんだ」という、こういう支えというか、条件というか、はげましというか、そういうものがない空間で、日本の学校の教育力が上がるということはない。ところが今、「教師は具体的に自分の頭で考える必要はない」という所まで、ほとんど言えるような、そして「学力テストの点数が何点」という形で、教師の仕事が全部点数化されて測られています。従って回り道をするなんてことは、もうできなくなっている。こういう状況ですね。


教育政策の迷走

 三つめには、この間の「政策の迷走」が非常に激しいですね。総合学習をみてもそうですし、「ゆとり」と言いながら、今度は「基礎学力だ」と言ったりですね、しかもそれを現場の先生方が自分で考えて、ゆっくり納得のいく形で試してみて変えるというのではなしに、上の方からコロコロ変わっていく。こういう中では、統一的な教育力量というものが現場に蓄積されるということはないし、実際に、私の妻も教師ですが、本当に、まともにやろうとすればいつも家に帰ってくるのは九時とか九時半とかですね。そういうこととか、教育予算が非常に少なくて、教師の数がもっともっと増えないと対応できないとかですね。それから日本の場合、フィンランドとかヨーロッパ諸国と比べると底辺の子どもに対する特別な支援策が非常に少ないということですね。

 おもしろい数字があります。いわゆる「PISA2006」ですね。ここで一番おもしろいのは何かというと、イギリスですね。これは読解力、科学的リテラシー、数学的リテラシーが、七位から十七位、四位から十四位、八位から二十四位と全部落ちているんですね。日本の教育改革は「イギリスの学力が上がった」というので、あれをまねして、今でもいっしょうけんめいイギリスの改革、バウチャーだとか何だとか言っていますよね。実際には、イギリスの中で、毎日「リテラシーアワー」とか、今日は読み書き、今日は計算の時間とか、朝一時間必ずやるとか、全国で一斉に行われている、そういう状況です。これは日本をまねしたわけです。

 実は日本は一九六〇年代から、そういう意味の基礎学力をあげるということは、受験競争システムの中で世界に例の無いほど緻密に行われたわけです。そういう意味では世界に例のないほどの「基礎学力の高い」子どもたちが生まれたわけです。しかし、そこの矛盾ですね。社会が大きく変わっていく中で、「そういうことではダメだ」という時に、イギリスが日本のまねをしたことを「これこそ日本の学力をあげる方法なんだ」というふうに導入するなどという、こういう時代錯誤的な政策はあり得ないと思うのですが、それをやって「イギリスは学力が上がった」というけれども、全然上がってないですね。まあ、そういうわけで、日本の学力が落ちる原因は、ほとんど明らかだと私は思うのです。


学力が落ちた原因の一番の根本

 重要なことは、この学力が落ちた原因の一番の根本は、この10年間ぐらいの間に、日本の教育をめぐる新自由政策というものが徹底して行われたことです。さきほど言いました「階層化」というのはまさに新自由主義の「成果」ですね、まあ皮肉な意味で言えば。それから教育予算の削減、これも新自由主義の元で、「規制緩和で公的な費用は出せないから、民営化する。民間活力を利用せよ」ということで言っているわけですね。今度の文科省と外務省との交渉でも、「全体は公務員を減らしているのに教師を増やすのはけしからん」という、議論が相変わらず続いてますよね。

 日本の中では、あいかわらず、あとで触れますけれども、「競争を強めれば学力が上がる」という、まあ競争の論理は新自由主義の基本的な理念ですが、「これによって学力が上がる」ということですね。考えてみますと、新自由主義によって実現された政策こそが、日本の子どもたちの学力を、ある意味で低下させ、ある意味で混乱させ、人間として生きる意欲を奪ってきている。それに対して、さらに競争を強めて「学力テストだ」というふうになってくると、これは日本の子どもたちの学力をあげる方向には行かないだろうと言うことは、目に見えているわけですが、そこの所がいっこうに変わらない。


学習指導要領の新しい展開

 さて、そういう教育政策を学習指導要領の新しい展開によっていっそう進めようとする政策が今出されています。中教審の教育課程部会の「答申」というのが出ました。ところが、これに対する批判が非常に弱いんです。特に一般の新聞の批判を見てみますと、四つぐらいの欠落があると思います。

 第一点は、安倍内閣が倒れたということで、「これで統制は問題にならなくなった」という雰囲気があるんです。実は安倍内閣の掲げていた、一方の靖国派的な国家統制は消失しました。しかし同時に新自由主義的な統制は、これは小泉政権の時代から、今福田政権まで一貫してそれが強まっているわけですね。学力テストによる教育内容の管理だとか、ニューパブリックマネージメントだとか、PDCAという学校の中で目標管理システムを入れるだとか、しかもそういう中に深くはめ込まれた学習指導要領は、新自由主義的な方向で教育内容を協力にコントロールしていくものですが、この点についての批判が非常に弱いわけですね。

 二つ目には、今度の学習指導要領が出てきたときに、結果的にはこれが格差を広げ、階層化を広げ、そして市場的な競争を強めるという新自由主義というものをいっそう、ある意味で「無政府的に」展開していく。だから、今度の「答申」なんかでは、「PISA型学力に対応している」とか、「応用力が足りないことを克服した」とか、「ゆとりによって落ちた学力を回復するんだ」とか、そういう意味で今までの批判を表面的には全部入れたという印象もあって、「これで本当に効果が出るか」という疑問は提示するけれども、そこに含まれている本質的なものの批判というものは、ほとんど展開されないと言う、こういう「批判」が一般的に行われているわけですね。

 三つ目、「生きる力」というこの論理への批判が非常に弱いですね。これは後で、話の中心として言いますけれども、私は率直に言って教職員組合の批判も弱いと思います。民間の研究運動からの批判も弱いと思います。  それから、もう一つ重要なことは、実は「二十一世紀にどんな」「学力」と言ってもいいし、「能力」が求められているかという、ここの視点からの批判が非常に弱い。これはマスコミだけではなくて、私たちの運動の中からでも批判が非常の弱いと、率直に言って思います。これも後でふれます。「学力テスト」は、そういう本当に今獲得しなければいけない人間の力量、能力、学力というものを呼び寄せるものなのか、遠ざけるものかというふうに考えたときに、私は決定的に遠ざけるものだというふうに考えているんです。


学力テストの危険な狙い

 ですから、学力テストは、単に統制するだけではなしに、新自由主義的な世界観、それに基づいて人間が行動し、強い者が生きのびていくのに必要な価値だとか、考え方だとか、行動様式というものを、その学力テストというスクーリニングによって、次第に社会の中に広がらせ、個人にも獲得競争をさせる。こういうものとして機能するものだということを、しっかりと押さえておかないと、「ワナ」にはまってしまう。このワナは実は、これはていねいに言わなければいけないんですが、実は教育社会学というものが90年代末から2000年代の前半、今でもそうですが「学力低下」というものを、ある意味で非常に、統計学的な意味で科学的に押し出して、従って「基礎学力をなんとかしなければ」と言いました。ところが、この方法でいっこうに明らかになってこなかったのは、「学力とは何であるか」という議論がされなくて、数値で表れたものが学力であるということで、そういう転倒した学力観というのが浸透して、それで「学力が落ちている」ということが世論として「科学的に」証明されたというふうになっていったということがあるわけですね。しかし「数値で把握された」その場合ですね、文科省がひどいことをやって数値を出しても、それもやはり数値なわけで、結果として「これが学力だ」というのを受け入れて、「上がったか、下がったか」という。文科省がやった全国一斉学力テストで、「点数が上がった」とか「下がった」とか言っているのは、まさにそういう姿ですね。

 だから、我々が「どういう力をつけなければいけないか」という問題から見たら、「本当にこんな論争をやっていていいのか」というのが正直なところです。

  ※この続きは「教育センター年報20号」(08/3発行)に全文掲載します。

【写真】佐貫 浩さんの講演



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