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青年教師のための お助け「玉手箱」 3

「教師と子ども」実践「玉手箱」


いつも子どもを真ん中にした学校づくりを
──そのキーワードは つながる>氛

      宮津市立由良小学校 竹内 明子


(2007年11月10日)


 定年のゴールを1年余に控えた今、六つの小学校に勤務して学んだこと、考えさせられたことは枚挙にいとまがない。たくさんの子どもたち、保護者・地域の方々や仲間たちと共に歩んで、自分自身も励まされ、成長させてもらったと実感している。

▼一九七〇年に採用された私の新任校は、私の教師生活の土台となっており、京都新歓に参加してすぐに組合加入した。多くの青年教職員とともに公開授業や住民と共同するとりくみや運動を旺盛にやった。学校長も、戦前の軍国主義教育の反省と責任を果たすためにも民主教育をすすめる立場を標榜しておられた。

▼二つ目の学校は十二年間も在籍し、子育てをしながらも六年間は高学年を担当し、保育所づくりの運動などを今までとはちがう人びととつながり、母親教師としての立場を意識しながら頑張った。地域の主要産業である機業が不景気となり、生活上の困難を抱え込む子どもたちや親を励ましながら不安を隠して頑張る子どもの姿に私も励まされた。

▼三つ目の学校にも九年間お世話になったが、この頃には教育内容に及ぶ行政からの介入が露骨になり、到達度評価や算数での水道方式や平和教育などの項目にまでチェックが入るようになった。それでも父母・住民の学校への信頼は厚く、地区懇談会ではこうした教育をめぐる情勢についても率直に語り合い、子どもの立場で何が出来るかをいっしょに考えることができた。この学校で障害児教育を担当し、不登校の問題を含め課題を持つ子どものことを学校全体で考えてとりくむ「つながり」がここでも私を支えてくれた。

▼四つ目の学校では、主に障害児学級を担任し、軽度の発達障害を抱える子どもと歩み、「一人ひとりちがって当たり前」の視点でまるごとつながってとらえる≠アとの重要さを学校ぐるみで智恵を寄せ合い学んだ。しかし、この分野でも地域の障害児教育研究会を解体させいようとする行政からの圧力があり、私たちはこの研究会の存在価値の大きさを知っていただけに許し難いこととして頑張った。

▼五つ目の学校では、国・地方レベルでの教育政策の「様変わり」が激しく、文書提出などで多忙極まる日々を余儀なくされ土日もよく出勤し、最も大切であるべき授業研究やその準備は深夜か早朝にまわる実態にあった。若い先生も増える中で、ベテランの私たちがみんなの思いを代弁する立場で“もの申す役割”も担うようになった。多忙な中にあっても組合の学習会などにも参加し、週案ノートに勤務時間を書いたり、労働基準局を訪問するなどして行動することで打開を試みた。

▼そして今、六つ目の学校で子どもたちや職場の困難もたくさんあるが、子どものことでいつも話ができる職員室を心がけている。ここでもいつも希望をもって、ちょっとつらくなったら宮沢賢治の詩『私が先生になったっとき』を刻み込み自らを励ましている。

 この三六年間を振りかえって、私は つながる=@ことで頑張ってこれたと総括している。学びがつながって更に学びたいと/グチの声も含めて人とつながって/教科学習の中身もつながって/ひとつ一つの出来事もつながって。

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