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青年教師のための お助け「玉手箱」 3

「教師と子ども」実践「玉手箱」


子どもたちの詩や作文をゆっくり読みあいながら

      大山崎町立第二大山崎小学校   吉益 敏文


(2007年9月10日)


はじめに

 学級づくりは、教師の指導性と包容力にかかっている。このごろ、いろいろなところできまったように語られる。教師の集団を動かす指導力と、一人一人を大切にする指導力、この二つの統一が大切だと力説される。メリハリのあるクラス、楽しく明るいクラスを作るということなのだろう。私は今まで、そのことを念頭に学級づくりをしてきたつもりだが、うまくいったといえる状況はあまりない。しかも学級崩壊的な状況に遭遇し、四苦八苦したことがある。

 ただ新任以来、ずっと続けていることが一つある。それは、子どもたちの詩や作文を読みあい語り合うということだ。

詩や作文を読み合うおもしろさ

 今、国語の読解力、国語力の大流行である。いかに短時間に自分の考えを○字以内に書きあげるということが要求されている。それは大切なことだが、まず子どもたちの書いてきた作文や詩を教師が楽しんで読む。それをゆっくり読み聞かすように子どもたちに読んであげる、ということを大切にしたい。

 子どもたちは、虫を取ったこと、友達と遊んだこと、家族のことなど、実に多彩に、ある日あるときのことを書いてくれる。それはうれしかったり楽しかったり,やったーという思いであったり。時に悲しいこと、つらいことを書いてくれたりする。作品によってみんなの前で読めない作品もあるが、子どもたちの作品を読んでいると、子どもたちがかわいくなってくる。教師である自分が知らない子ども達の一面を知ることになる。

 私の場合は読みきかせとあわせて一枚文集にして、朝の会や終わりの会、時には授業の中で読み合っている。その子の作品で思ったこと、同じような体験を語り合うということを続けている。

お互いをすこしずつ理解しあっていく

 子どもたちは、クラスという集団の中で、お互いを知っているようであまり知らないことが多い。高学年になってくると、気を使いあって本音を語らないという場合も多い。ゆっくりと作文や詩を書かせ読み合っていくと、実にゆっくりだがお互いを理解しあって、やさしくなっていく。もちろん、これだけで学級づくりが完成するものではないし、人間関係がすっきりいくというものでもない。ただ子どもたちは、「読まんといて」「載せんといて」といいながらも自分の作品を読みあうときの表情は穏やかだ。1枚文集を配ったときなどの静けさ、集中はなんともいえない瞬間である。ただ最近は個人情報の関係で、なんでもかんでも読みあえるというわけにはいかなくなった。なんでもいえる、安心して語り合えるクラス作りの基礎がそこにあるように思う。今、私は3年生を担任しているが、その子どもたちに読んであげた、昨年の四年の子どもの書いた詩がある。

○○家      4年女
 今日もみそしるに
 味そをいれてるお姉ちゃん
 そこへ お母さんがさわり
 「なに どこさわってんの」
 と 姉
  「えっ よく育ってるかたしかめてんの」
 と 母
 「なんで」
 と姉
 「農家の人が かぼちゃのできぐあいをたしかめてんの」
 と 母
 これが毎日のようにある。
 さわがしすぎる
  子どもたちと一緒に笑った。ただそれだけだけどホットした時間だった。

終わりに

   子どもたちの詩や作文を書かすとあとが大変ということもあり、多忙化した現場の中では、文集にしたり通信にするということは、なかなか手間ひまのかかる仕事で、敬遠されがちである。以前であれば父母の中から自分の子ども以外の子どもたちの様子がよくわかるといった感想があったが、今はどちらかというと否定的な意見も少なくない。 「もっと、けじめのあるピシッとしたクラスにしてください。」 「作文や詩もいいですが、漢字や計算がしっかりできるようにしてください。」

 父母の当然の願いに真摯に答えなくてはならない。そのことを前提としつつ、やっぱり子どもたちの作文や詩を楽しく読みあっていきたいと思う。

 自己表現が自由にできて安心して受け止めてくれる仲間がいる。その上でメリハリのついた行動ができるように。

 楽しみながら続けていきたいと思う。

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