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青年教師のための お助け「玉手箱」 2

「「教科指導」実践「玉手箱」


もっと、もっと子どもたちを語りましょうよ


      福知山市立昭和小学校 玉井 陽一


(2007年3月10日)


 「どうして授業ばかりを語るんですか。もっと子どもたちを語りましょうよ。」と、去年の埼玉での全国教研・国語分科会で、何を思ったか言ってしまったのです。授業の研究なのだから授業を語って当然なのですが、国語の、それも文学作品の授業ってそもそも何なんだろうという積年の疑問が、分科会の討論にあおられて勝手に吹き出したもののようでした。その無責任な発言の自分なりの後始末として、一つの試みを報告します。

 三年生の国語『モチモチの木』「霜月二十日のばん」じさまから山の神様のお祭りの話を聞いた豆太が、モチモチの木に灯りがともるのを見たいと思いながら、「それじゃあ、おらは、とってもだめだ。」と早々に諦めてしまう場面の授業です。

 子どもたちとは、『ちいちゃんのかげおくり』から「一人読み」とその交流を授業の中心に据えて文学作品を読み進めてきていたのですが、「霜月二十日のばん」の子どもたちの書き込みに目を通しながら、作品を読み解くために叙述にそって読みを交流するのではなく、その場面全部の一人読みを一人の子に任せて一気に味わえないだろうか、と考えました。もちろん書き込みの多い子もあれば三つ四つの子もいます。けれど、書き込みのどれもが実にその子らしさにあふれていたのです。

 その方法を提案すると、「やろう、やろう。」と、子どもたちもはすぐにその気になり、書き込みの少ない子から順番に黒板の前に立って一人読みの発表が始まりました。

 普段は発言の少ない子も、「○○さんの一人読みで、私は○○というのが気に入りました。それは〜。」という友だちの感想に満足そうでした。一人ひとりの発表が進んで行くに従って、「○○君らしくて、いい。」とか「○○君の声が聞こえてきそうや。」というような感想や意見が出されるなどして盛り上がり、二時間ぶっ通しの授業の最後にJ君が登場しました。

 やがてチャイムが鳴り、最後の『ぶるぶるだ』のところでの一人読み、「話者(語り手)の気持ちで、ぜったいお前なんか見れないよ〜だ。」が発表されると、子どもたちから、「そんなん、ひどい。」「ひどすぎや。」とJ君への反論が矢継ぎ早に出され、やがて「話者とJ君は、似とる。」そして、J君もまんざらでもない笑顔を浮かべた笑いの中で、S君の「話者は〜、実は〜、J君やったんや!」という発言に、いやなことをよく言うけれど根は優しいJ君と、みっともないとバカにしながら心の底で豆太に心を寄せている話者の人柄を重ね合わせて楽しんでいました。給食の準備も忘れて。

 その子らしい一人読みに出会うと、僕も子どもたちも嬉しくなるのです。

 イメージが持てるということは、文学作品によってそのイメージとともにその子が生きられる新たな世界が開かれたことになるのではないでしょうか。その新たな世界を共有し、仲間とともに新たな世界のイメージをさらに豊かにしていく場が授業だ、と思うのです。

 さて、いつのまにか、僕も、子どもたちを語らずに授業を語ってしまったのでしょうか。

 
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