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青年教師のための お助け「玉手箱」 5

「教育について学びたい」 理論編「玉手箱」
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第三回学力テスト国語問題と学習指導要領
     ――総評の仕事から皆さんとともに

        京都教育センター教科教育研究会・国語部会・浅尾紘也

(2009年6月10日)



学力テスト国語問題内容の批判検討を

 これまで二年間実施されてきた「全国一斉学力テスト」は、「『学力』とは何か」という基本的な問題が検証されることなく、その「結果」が無条件に子どもたちの「学力」であるということを前提として、現場教師への攻撃と「結果」の「公開」を強要する動きだけが進み、「塾」や「ドリル」「プリント」などを売り、儲けようとする『教育産業』ばかりが大きく膨らむという状況となっている。 それは、テストの「内容」がほとんど検討されることなく恣意的な論議が意図的に進められていることによることがもっとも大きな問題であることを、私たちは何度も指摘してきた。だからこそ、三年目・三回目となる今回の国語問題についても、早急に批判的検討を進めていくことが課題となるのではないだろうか。今後、そのとりくみが進められていくことを期待したい。ここではその第一歩として、そのためのいくつかの視点、問題をあげたい。それが、私たちの国語教育実践の基本姿勢がどうあるべきなのかということを明らかにしていくことであると考える。


学力テスト国語問題の分析の視点

 このような国語問題をどのように分析していくのか、その視点をどう設定することが必要なのだろうか。これをしっかりと考えることがまず大切である。

 この「全国一斉学力テスト」を的確に分析していくためには、これが三年目の実施であることをふまえて、これまでの視点となることを整理していくことが必要だろう。

 京都教育センター国語部会では、これまで、この「全国一斉学力テスト」国語問題がどのようにとらえられねばならないのか、提起し続けている。それは、以下の点である。

 二〇〇七年度は、「知識」と「活用」というテスト構成が提示されたことについて、国語教育の構造をおさえた観点から、その内容が「知識」とされた国語教育としての「基礎・基本」がたいへん貧しい内容であること、そしてさらに「活用」という観点が、現行学習指導要領・国語科の「活動主義」「言語技術教育」が、日常の生活場面に歪曲されたものであることに批判の観点がおかれなければならないことを指摘してきた。

 さらに二〇〇八年度は、「知識」と「活用」がその区別がなくなるようなA問題のB問題化、つまりほとんどすべての問題が、「活用」の名の下に「言語処理」ばかりをめざすものとなったこと、そしてそれは改訂学習指導要領・国語科の内容と強く連結し、その「愛国心注入教科」と「PISA型学力」の絶対化、すなわち「国語の学力」の矮小化がはっきりと具体化されたことを指摘せざるを得ないものであった。

 二〇〇九年度は、それをおさえて、何を視点としてもたねばならないのであろうか。それは、次のようなものではないだろうか。


@「知識」と提示されたものは、まったく貧しいものであることの再確認

 〇七年テストは、「漢字」、「文法」として「接続語」と「指示語」、「文構成」が示されたが、これは学習指導要領・国語科の「言語事項」に示されたものに限定されている。したがって、問題となるのは、それ以外の「表記・文字」「文法(品詞・構文)」「語い」の問題がないことである。つまり、学習指導要領・国語科の「言語教育」の極めて貧しい内容は何も問題にされずに、その「結果」がよしとされたことを問題にしなければならないのである。

 〇八年テストは、それが「漢字」のみとなり、〇七年テストでの指摘が重要なものであったことを立証したものとなった。  さらに〇九年テストは、「漢字」以外に「ローマ字」が入ったが、極めて簡単な問題である。それは、〇七年テストでの指摘を覆すものではない。


A 国語教育の「基礎・基本」が、「言語処理能力」に矮小化されていくことへの批判

 @で指摘したことは、そのまま国語教育における「基礎・基本」の崩壊につながる。国語教育の基礎・基本となるのは、言語の体系や系統、法則について学び、それを「ことばの力」の土台としていくことしかない。それが、「葉書の表書き」や「報告文の構成」「メモの取り方」などという、「技能・技術」としても瑣末な「言語処理」に矮小化されては、『基礎・基本の崩壊』と指摘せざるを得ない。

 〇七年テストで懸念をもち、〇八年テストで明らかになったものは、〇九年テストでさらにはっきりしたものとなったと言っていい。


B「活用」とは、場面設定を卑近な生活次元に下ろし、その言語処理に狭めたものであることへの批判

 この傾向について、一部は「実用化」という評価をしたが、これらが本当に「実用」としての内容なり方法をおさえていると言えるだろうか。

 どこかの会議で、「プレゼンテーションができない」「報告・連絡・相談などの力が不足」などという、国語教育がまるで経済活動を進める機械の歯車としての人材育成をめざし、その能力をつけるためのものであるかのような発言があり、それらの具体化を国語教育の本質をおさえずにしたとしか考えられないものになっていることは、この三回のテスト問題内容が示している。その視点からみれば、それへの批判はもっとも重要であると考えられる。


C国語教育の解体は確実に進んでいることに危機感をもつべき

 それは、当然、これまで私たちが積み上げてきた「言語の学習」「説明文教育」「文学教育」「作文教育」という国語教育の構造と内容をおさえての、子どもたちに「ことばの力」をつけ、人間的成長=人格形成をめざす国語教育の否定であるととらえるべきではないか。

 これは、教育基本法改悪論議の基本的な問題であった、教育が「人格形成」ではなく「人材育成」を目標としたものに堕落させられることの具体化として、教育全体の本質的な問題としてとらえる必要がある。


D「PISA型学力」としても破綻したものであることへの批判

 〇八年テストでは、国語問題の内容と構成が、改訂学習指導要領・国語科で示されたものと相まって、その「絶対化」と「偏重」が示されたが、〇九年テストでは、それすらが形骸化・形式化し、PISA調査が明らかにした日本の子どもたちの「主体的に理解」することと「主体的に表現」することをまったくスポイルし、その形式だけを無理矢理問題形式にあてはめようとしたものであることが明白となった。

 これには、さすがに「形式化が過ぎ、これで国語の学力が測れるのか」という批判が、識者と言われる人達からも出始めている。


Eこれらの問題点が学習指導要領・国語科でさらに具体化されることへの問題意識を

 これまで、国語部会では、この学力テスト国語問題が、改訂学習指導要領・国語科の内容を具体的に提示したものだと提起してきた。それは、〇九年問題でより明確なものとなっている。学力テスト国語問題を検討することは、学習指導要領・国語科を検討することでもある。


さらに深い分析と批判を

 このように学力テスト国語問題を分析検討していく視点をもち、それをさらに深めていくことが緊急の課題となる。これを、実践的視点からどのようにすすめていくのかが問われている。

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