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青年教師のための お助け「玉手箱」 5

「教育について学びたい」 理論編「玉手箱」
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「忘れ物・落し物」考
                  京都橘大学教授  宮嶋 邦明

(2008年6月10日)



 子どもの忘れ物・落とし物に頭を痛める教師は多い。「明日、授業で使うから問題集を持ってくるように」と言っても、クラスの何人かは必ず忘れてくる。注意が高じると、授業の進度にも影響するし、お互いの精神衛生にも良くない。自衛策として、教師の方はあらかじめ該当箇所のコピーを用意し、生徒の方は「置き勉」(勉強道具を机の中に置きっぱなしにすること)をする。かくして問題の位相はズレテいき、「置き勉」はしないようになどと、さらに注意の量は増えていく。忘れ物・落し物に頭を悩ます教師は多い。

 以前の大学(京都府立大学)でのことであるが、「最近、忘れ物・落し物にケイタイが登場するようになった。学生課でしばらく保管することになるが、時折コール音が鳴って、仕方なく電話機を取ると、お互いに『どちら様でしょうか』などと、ちぐはぐな会話を交わし、苦笑することがある」、そんな話を担当の方から耳にした。忘れ物・落し物にケイタイが登場するというのは、いかにも今風だが、やはり、忘れ物・落し物は匿名性が保たれてこそ、その名にふさわしい。正体が半分透けて見えては、趣も半減するし、当のケイタイ自身も不本意であるにちがいない。

 今や、大半の学生がケイタイを持っている。以前、ゼミ合宿の相談の折、互いの連絡先にメモを、と言ったら、その場にいた七人のゼミ生全員がサッと電話機を取りだし、相手の番号を聞きながら、一斉にポンポンと押し始めた。その動作がまことにリズミカル、かつ統制がとれていて、妙な感動を覚えた。そして学生の一人は、「ケイタイは私にとってなくてはならないモノ、私の体の一部分です」と言った。

 「物忘れ」や「うっかりまちがい」はしばしば、不注意だ、偶然だなどとして見過ごされやすい。しかし、不注意で忘れたというのであれば、不注意のために忘れることの出来るモノは他にもたくさんある。にもかかわらず、他ならぬケイタイを忘れたというのは、当人自身も気づいていない「何か」秘められた理由がなければならぬ。かくして人間の心の深層に迫ったのはフロイトの卓見だが、さすれば、主を見失った電話機と所有者との間に、どんなベールが覆われていたのか、興味深いことではある。

 他方、大脳生理学の教えるところによれば、内面活動の活発な者(とき)ほど、つまり考え事が多い者(とき)ほど、肝心のことを忘れてしまうという。また、何か特別に大切なこと、重大なことが頭の一隅を占めれば、その他の刺激による神経活動の興奮は一瞬にして抑制されるという。つまり忘れてしまうのだ。そうだとすれば、「私の身体の一部だ」と言わせるほどの地位を築いたケイタイ以上に大切だったもの、それは一体、何だったのだろう、興味深いことではある。  子どもの忘れ物・落し物を単に不注意だ、緊張感に欠けるなどとするのではなく、「なぜ忘れたのか」を考えることも時には必要なことかもしれない。

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