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青年教師のための お助け「玉手箱」 5

「教育について学びたい」 理論編「玉手箱」
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「軽度発達障害」のある子どもが教えてくれたこと
                  佛教大学教授 神谷 栄司

(2008年4月10日)



 この一月末から二月初めにかけて、ある市の公立幼稚園数か園で保育を参観し研究会に参加する機会がありました。

 うち二クラスではいわゆる「軽度発達障害」のある幼児を受け入れていました。クラス全体の保育をみながら、こうした子どもたちに注目していると、彼らは実に興味深い姿を示してくれました。四歳児クラスにはADHD的傾向のある男児がひとりいました。聞けば、四月の入園当初には隣の子どもにパンチを食らわせるような子どもでした。しかし、正直なところ、劇遊びのなかでは、どの子が当該の子かも分かりません。誰が当該の子かを聞いてみて、驚きました。眼の前で展開されているのは「おたまじゃくしの101ちゃん」という小さなお話のクライマックス――タガメとザリガニがおたまじゃくしの101ちゃんを捕まえようとしていることを知ったお母さんガエルが、身の危険を顧みず、一〇一ちゃんを救出しようとするシーンでした。この男児はいまお母さん役です。眼を輝かせて、おたまじゃくしを救出しているのです。他の子以上に、この劇遊びを楽しんでいるように見えました。

 もうひとりは、五歳児組にいる自閉的傾向のある男児です。このクラスではシートンの「ぎざみみうさぎ」の劇遊びをしていました。ひと言もことばを発しないこの子は見るからに自閉的傾向をあらわしていましたが、彼も実に興味深い姿を示してくれました。

 このクラスの保育者は子どもたちの気持ちを高めるために律動(この日はスキップ)を始めました。保育室の窓や壁に沿って三方に並べられた椅子にすわり、先生のピアノに乗って順次スキップをしていきました。この子は先生に促されてもスキップに出てきません。それどころか後ろ向きに椅子にすわって絵本棚で何やら探しているふうなのです。ところがよく見るとお尻が先生のピアノのリズムに乗ってスキップをしているではありませんか。

 劇遊びは「ぎざみみうさぎ」の冒頭のシーン――お母さんのいないすきをねらって黒大蛇が幼いうさぎを狙い、この坊やはなんとか逃れて事なきをえたのですが、耳をかじられてしまいます。「ぎざみみ」という名前の由来がそれです。クラスはそのシーンを遊んでいたのですが、自閉的傾向のあるこの男児はやっとさがした絵本に見入っていました。保育者は劇遊びへの参加は難しいと判断したのでしょう。補助の先生が個別的に保育をするために、その子を別の部屋につれていきました。参観が終わり、職員室にもどると、ストーブの横でこの子は絵を描いていました。

 その絵には、保育室での劇遊びのシーンと一致する耳がぎざぎざのうさぎと大蛇が描かれています。見れば、あのとき探して手にしていた絵本は実に「ぎざみみうさぎ」だったのです。この子は「自閉」ということばが示すような「自己の内側に沈潜」しているのではなく、劇遊びに独特な形で参加していたのです。

 これらの子どもたちと出会って、私は改めて遊びの本質や重要性に思いを馳せました。幼児期において虚構性・想像性をもつ遊びは「発達の最近接領域」をつくりだすというヴィゴツキーのことば、ある感情(衝動的な行為)はそれとは反対のより強力な感情(遊びの面白さや内的ルール)によってのみ克服されるというスピノザのテーゼを肯定するヴィゴツキーのことばを。それらの真実性を「軽度発達障害」のある子どもたちの遊びの姿は確証しているように思われます。

 ついでに言えば、先ごろ公表された新幼稚園教育要領の唱える「規範意識」の育成は、内的ルールを生みだすのではなく外的ルールを強いることであり、それをまともに追求するならば、その試みはふたたび子どもたちの「荒れ」によって、またADHD的傾向のある子どもの改善されない行為によって、手厳しい批判を受けることになるでしょう。これもまた彼らが教えてくれることです。

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