トップ 事務局 青年教師 教育論

青年教師のための お助け「玉手箱」 5

「教育について学びたい」 理論編「玉手箱」



美術教育の理念と憲法・教育基本法の人間観


           川村 義之(京都市立芸術大学名誉教授)

(2007年1月10日)



 憲法に基く教育基本法を、憲法存在のまま憲法に反する方向に改変することはその点だけでも筋が通らず、これは教育の観点ではない政治的意図を露骨にしたものである。  さて本題の、美術教育広くは芸術教育の個有の教育理念に関わる「人間観」と、その法的基盤でもある憲法の人間観について、今回の教育基本法改定の不当性、重大性を、紙数の範囲で述べる。

 教育は人間の教育であることは言うまでもないが、その人間観は時代によって異り、現憲法以前と以後では革命的な変化があった。国あっての人間、国のために役立つ人間、「一旦緩急アレハ義勇公ニ報」ずる人間を育成する教育勅語時代の人間観から、人間あっての国、国民が主人公の国、人間のための国へ、国と人間の関係を転換したのが現憲法である。ところが今回、法律によって愛国心やその態度を国民に強制したことは、「人間観」を再び戦争の時代にひきもどす一歩をふみだすことである。

 人間観についての表題の趣旨は、単に美術・芸術教育の問題にとどまらず、人間教育全体の問題であることは当然である。ただ日本の学校教育が主として教科主義教育によって行われてきたため、芸術教育は芸術教科だけのものに限定して見られ勝ちであるが、本来は画然と区別し切れるものではないこと前提とした上で、芸術と科学の本質の相違や、教育における人間との関わり方について、憲法の人間観が、美術教育の理念に強く結びつくものである点を強調したい。

 科学を成立させる「知識」は、個々の知識を集めそれを体系づけ、積み上げてさらに高度な知識を獲得していく本質を持つ。科学的真実は、特定の人間が居る居ないに拘らず存在し、人間はそれを外から受け入れて学ぶ。一方美術は、ひとりひとり生きた人間が、内発的独自的な生命の自覚を、みずから形づくる創造活動であり、個々の人間が関わってそこにはじめて実現する。

 また美術は人間能力の部分活動ではなく総合的で、個性的であり、はじめから全一のものとして本質を表現する。

 人間が美術するとは、イメージの創造とその視覚的表現によって自己自身を再発見し、他者にも新しいメッセージを送る。美術の表現は、かけがえのない個々の、人間の主体が生み出す創造であるから、それはすべての人間に開かれた世界であり、そこでの個性の尊重はとりもなおさず人間そのものの尊重である。このような美術の特性を教育に生かすところが美術教育であり、美術教育が人間に直結する所以である。ただし誤解を避けたいことは、学習.指導の具体化では、表現を視覚化する素材や、技術や構成、それに関わる知識の教育を伴うことは当然であり、それは美術の本質をふまえて行われるのである。

 美術教育が、人間の生きることを何にも代えられない尊厳とする人間観に成り立っていることを述べたが、入間は人と人の間即ち人間社会に生まれ、育てられたものであるから、社会と切り離した恣意独善の存在ではない。しかし人間を生かすべき国家が逆に人間をその心にまで立入り服従させ、支配できることになればそれは人間観の転覆であり、美術教育の理念にも相容れないものとなる。

 生命を大切にする人間は戦争殺人に参加する人間にはならず、生命を軽視し、生命を省りみない国民をつくることは戦争の可能性を増大する。この意味で人間尊重を基盤とする芸術教育は平和の礎を築くものである。

 かって国民が「忠君愛国、尽忠報国」の教育を受け、国のためとだまされ生命を軽んじたことが戦争を可能にした。

 その十五年戦争の悲痛な反省から生まれた憲法の人間観を否定することは、平和に逆行することに他ならない。

トップ 事務局 青年教師 教育論