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■私と京都

京都物語には前史がある




ペ・チャンヒョン(韓国)
 

その初めは京都同志社で修学した事があるユン・ドンジュの「序詩」と同じだった。私が志したのはその詩の一節「死ぬ日まで空を仰ぐ」であった。鍛えた文章で俗悪な世の中を切ると、書いた以前と以後を切りたかった。会社の財政は貧しかったが、論調は果断だった。就職活動中一番希望したその新聞社で働く機会を得たのは幸運だった。

 社会部記者はきつい仕事だ。六ヶ月間毎日2〜3時間を警察署で浅い眠りをした後でも生活与件が破格的に改善できたのではなっかた。毎日早朝6時から出勤して報告を申し立てて、丸一日その日突然起こる事件に触覚を逆立てながら、取材源に会ってインタビューをして記事を書く。新聞は毎日作る商品である。丸々32面を満たした一定の品質以上の商品を毎日早朝読者に提供するため、記者は毎日2回の常時報告と 数限りも無い 随時報告とで、三回の締め切りに揉まれている。正確な退勤時間は計り難い。だが、夜11時以前に家に帰れることは一回もなかった。私の理想は高かったが、生活と両立は出来なかった。私は「星をうたう心」を忘れていった。

 うたえない事より苦しかったのは矜持が傷つく事だった。記者の仕事は目で真実を追いながら、手では絶え間なくその真実を立証する事実を辿る事だ。時には手が、時には目が遅かった。「一点恥辱なき」を望んだが、目を閉じて手だけが動いていると思った時、腕が悪くて目の前の悪を糾弾できなかった時には恥辱に溺れた。仕事が忙しくて休暇は10月になってようやく取ることになった。私は完全に疲れていた。

 最初にはただ金閣寺を見たいという思いを持って京都を訪れた。学生時代読んだ三島由紀夫がいうところの、地上に存在する全部の物事の美の結晶のように金閣寺は描かれていたからだ。それを見たら私の生が、いや私の心が幾分なりとも動くかも知らないと思った。京都は韓国の物とは造形的に違う建物と看板、都市の真ん中に揺れている透明な水、現代式建物たちの間に 一つくらいは必ず割り込んでいる伝統木造建築のイメージで迫って来た。三十三間堂中に入った時感じた痺れる位の崇高美、龍安寺の石庭の単純美も魅力があった。

 銀閣寺は最初から最後まで私を魅了した。秘密の庭を通じて入口を入ったばかりに意外な迫力をもって迫ってきた。その絶頂感を銀色の砂、緑色の葉っぱ、初秋の慎ましい色に包まれた狭い道を伝いながら絶妙の美を楽しんだ。そのリズムの上に乗って私は踊るような気持ちになった。話を金閣寺に戻そう。三島由紀夫を刺激した金閣寺が持つという大きな霊感は、私には感じられなかった。金色一色で誇るように建つその姿は寂しくかつ整然としていた。文学の偉大さというのはやはり現実との落差から来るものである。その落差を考えずに期待を膨らました私がそこにいた。

 短い休暇が終わって韓国に戻ると、また記者としての生活が待っていた。望んだなった新聞記者だったが、いくら慣れていても、そこに「生」と「活」はなかった。息苦しくて、きっかけとなった1年ビザを取った日、事件チーム長と社会部長に会社を辞めると申し出た。引き止める編集局長を後ろにして会社の正門を出て大きいな息を出した。それからまっすぐ京都に来た。

 来て二周くらい過ごした日の夕べ、シェアハウスに一生に住んでいる友達は、私に毎日何をしていると聞いた。私はただ歩いていると答えた。「観光客として名所を探しているのではなく、生活人としてこの街を体で学んでいます」と。私は高野に住んでいる。私の地図アプリの表示半径はますます長くなった。

 また同じ家に住んでいる別の友人が紹介してくれたカフェを経営しているご夫婦の話を紹介したい。そのご夫婦は会ったばかりの私を気軽に家に招待してくれた。家に入った私に奥さんがくれたものはご主人のちょっと延びた白いジャンパーであった。4月の日本はまだ寒いからこれが必要と言ってくれた。サイズが合わない古いジャンパーを着て落ち着かなく座っていた私に奥さんが渡してくれたのは、スーパーで買った弁当だった。その弁当は暖かくて、適当に美味しかった。その弁当の味は忘れられない。

 ご夫婦は百万遍でカフェを経営している。大きいテーブルが2つ、小さいテーブルが2つ、収容人員は、詰めあっても15名余り。40年以上にこの店を守ってきたご夫婦は売るもんはただ食べ物とコーヒーだけではない。お客さんが少ない時、ご夫婦はこの店のお薦めメニューを披露する。それは「時間」である。ご夫婦はお客様たちと話しながら、ご夫婦の人生に刻まれた「年月」を売る。その「年月」から出てくる「知恵」も売る。40年過ごしたその場所での存在感を売る。儀礼的に食べ物とコーヒーを出して、儀礼的にお金を返しているが、その間には興味、知識、情報、感情、言葉など 本来のメニューより大きいおまけが 提供される。午後3時〜4時頃になると、30年、40年以上のお得意さんもたまに立ち寄る事もある。今はyoutubeで調べても見つけにくいブルースの名盤を聞きながら、そのお客様たちの年月を測りながら、ご夫婦と話したら2〜3時間は簡単に過ごしてしまうだろう。

 ご主人は私の日本語を指導してくれる西山さんとの出会いを推薦してくれた。西山さんと私は毎週岩波書店の<図書>という月刊紙から抄出したテキストを一緒に読んでいる。韓国で楽しみに読んだ柄谷行人の文章とか、奈良で発見された木簡に関する文章を読む時にはとても楽しかった。伊藤若冲を紹介するテキストを読んで、始めて見た若冲の絵はものすごく強烈で後々までも残像が残った。

 私はいま京都で余裕と興味を再発見している。「生」と「活」の二字を生きていると思う。でもいまの暮らしは尹東柱の「序詩」よりは「たやすく書かれた詩」に近いと思う。理想とは異なって、暮らしには時々魔法みたい瞬間があるけれど、たまにはみすぼらしい事だと感じることもある。それは尹東柱が本国から送られてきた、両親の汗の匂いが漂っている学費封筒を異国の畳部屋で開ける時感じたネバネバしている生活の悲しみでもある。韓国で生活した時と違い、最近私は果物一つを買うときにも、家賃を払うときにも少し悩む。底が見える貯金を嘆くように見たり、7ヶ月残ったビザと生活費を解決するアルバイト探しに悩む。京都はまだ私にその可能性を見せていない。だから私はまだこの都市に完全に同化もできず、そうかといって完全に異化することもなく、どっちつかずでいる。私は京都と併存している。京都「の」私ではなく、私「と」京都としてここに存在している。魅力的だが、お互い完全には開けなかったその距離で。その言葉の微妙な違和感は未だに残っている。なかなか動かないと見えるその扉の前に立ったら、怖いけど簡単には諦めまいと思っている。たから当分の間、私はこの京都で、あなたからそんなに遠くはない所に存在するつもりだ。あなたは寺町の商店街で、百万遍のカフェで、または東大路通りと北大路通りの交差点で私とすれ違うかもしれない。

 
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