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■特集テーマ 1
  学校・教師の今、苦悩と希望を考える

総論 教師の責任と、教育実践の課題と希望




               久冨 善之(一橋大学名誉教授)
 

1.大川小学校での児童・教職員の被災

 3.11で大川小学校は大変な被害にあいました。私は宮城県石巻市大川小学校被災地跡地を2012年8月に訪問しましたが、北上川土手から数メートル下がったところにあり、地震のあと、児童も教職員もこのグランドに約50分いたと言われています。海から4qにあったこの釜谷は、北上川が追波湾にぶつかっているところです。

 この釜谷地区は宮城県の津波浸水予測図では範囲外になっており、実際、大川小学校自身が地震や津波の避難所に指定されていました。地域の人たちも学校に来ていたらしく、大津波警報が伝わり、グランドに留まるか、どこかへ避難するか、ちょうど校長が不在で連絡もつかず、教頭をはじめとする教職員たちが判断に迷う状況で時間を過ごし、いよいよ広報車が通り、「大津波が来る」という予報があったので、新北上川大橋のたもとの通称三角地帯という海抜7mのところに向かって逃げようとしました。避難を始めたときはすでに遅く、そこに行き着くまでに北上川の土手を越えた8〜10mの津波に前から襲われ、横からは海岸から直接に陸地を越えてきた津波にぶつかり、この釜谷の地で津波が渦巻くような状況になったと言われています。それで児童74人と教職員10名が死亡、行方不明となり、避難所として大川小学校に集まっていた地区住民多数のいのちも奪われました。

 結果を知っている私自身がその場に責任者だった場合を考えても、どうするか迷う状況です。その意味では戦災を除けば日本史上おそらく最大と思われるこの学校被災は、いくつもの条件の重なりが不運に働いた結果だと思いました。地震の備えだけではなく、津波を考えた第2次避難。釜谷の場合は、三陸大津波で明治と昭和に2回ほど大きな津波があったのですが、この千年ほど一度もこなかった。だから地域に集まった人も「この校庭にいて大丈夫だ」と言っていたらしい。だけど、どんな津波が来るかわからないわけで、第2次避難、校庭に津波が来た場合、さらに高いところに避難するという場所を指定して、その訓練もしておくべきであったということになります。

 そういう意味では校舎建設の当事者であり、学校防災避難訓練を指導する立場にある石巻市当局や、同市教育委員会の行政責任が問われなければならない。しかし、それは結果論で、津波がこの地におよぶことをもともと想定しないで、避難所として指定していた私たちの社会と日本の地震学、津波学などと言われるものの研究が不十分だったということになります。
訪問後、発行された『東日本大震災教職員が語る子ども・いのち・未来 あの日学校はどう判断し、行動したか』(宮城県教職員組合・編)の本には、“夫の思いを胸に”という死亡した大川小学校3年生担任教師の妻の寄稿があり、「かわいい教え子たちのいのちを救うことができなかったことが、どんなに悔しかったか」という亡き夫を思う一文があり、教師魂というのはきっとそういうものに違いないと思いました。

 ただここへ行きますと殉職した10人の教職員を悼む碑はないわけです。そうすると学校被災跡地に立つと彼らはむしろ「なんで50分間も無駄に時間を過ごしてそこにいたんだ」と避難されているという印象が残ります。教師の責任が避難され、いったい教師というのは学校で子どものいのちを守るということはもっと大きな責任ではないのか、ということがこの事件では非常に大きく問われています。これは仙台地裁でも問われました。

 同じ宮城県で、小野さつき訓導という人が、大正時代に野外写生で子どもを梅雨明けの川につれて行って、子どもが3人溺れ、先生が飛び込んで2人を助け、「もうダメだ」とみんなが止めるのを振り切って、袴をはいたまま飛び込み、1人の子どもと一緒に死んでしまったという事件がありました。それは小野さつき訓導という名の殉職記念館がつくられ、殉職記念碑も建ち、たくさんの歌、行事、本なども多数出版されています。言いたいことは、もしこの事件が現代であれば、梅雨明けの増水した川原に小学校3年生を連れて行ったことのほうが殉職したことよりも、先に責任が問われるかもしれないと私は思ったわけです。

 そういうふうに時代というのは非常に大きく変化し、今はそれだけ教師が子どものいのちを守るという責任が問われています。子どものいのちの責任の点で、非常に大きな問題となるのは、私は現代では日常的にあるいじめ問題だと思います。


2.日本の教師たちの受難の諸要素(図3-1:略)

 病気休職者の数とそのうちの精神疾患の占める数と比率の増加が顕著になっていて、図で34年間の推移を見ると70年代末は、精神性疾患はまだ病気休職の折れ線グラフで言えば20%未満でした。それが60%前後のところまで上昇してきています。

 90年代半ばからの病気休職の増加は、ほとんど全部が精神性疾患の休職の増加によるものです。それだけ教師が精神的に追いつめられているという状況が明らかになっています。

 表3−5(略)

 この表は、日本の教師の労働時間で、OECDの国際教員指導環境調査(TALIS)がやった2回目の調査です。中学校で見ると日本はOECD平均よりも労働時間が1.5倍です。授業に使った時間が多いわけではなく、学校運営の業務、一般的な事務業務、課外活動の指導等が多いから日本の教師の労働時間が長く、統計的に見てもよくない状況にあります。


3.「教員文化」と「学校文化」の形成と働き、及びその変化

 人事考課を採り入れているところは教師の意欲を高め、能力を向上させるということと、学校を活性化するということを目標にし、それを制度の趣旨にして導入しています。それが実際はどうかということを教師に問うてみました。

 「意欲が高まった」という問に「そう思う」「ややそう思う」という人が合わせても10%ぐらいしかいない。「そうじゃない」という人が約7割います。

 「この制度は自分の資質能力の向上に役立っている」という人も8%ほどで、「役立っていない」という人が75%ぐらいいます。

 「学校の教師間のチームワークはよくなった」という問には「そう思う」人が1%ほどしかいなくて、80%ほどの人は「そうじゃない」と答えていますが、当たり前で人事考課などしてよくなるはずがありません。

 質問項目は十いくつあり、そのなかでたった1つ「そう思う」「ややそう思う」が多かったのは、「この制度によって多忙感が増す」という問だけでした。

 「この制度は教育の資質向上をもらし、子どもにとってプラスに働いていると思いますか」という問には「そう思う」人が8%ぐらいで、「思わない」という人が7割近いという結果になっています。それでも文科省は、東京都で2000年にはじめたものを全国に広げています。全国の公立学校教員採用権を持っている47都道府県と20政令指定都市の全部の自治体で行われています。そういうふうに教師は非常に追いつめられた状況にあるということです。

 近代学校というのは子どもたちみんなを学校に集めるので、子どもの数がある程度いる以上、一定の数の教師は絶対に必要です。校舎がなければ青空授業でできるけども、教師がいないと事業はできない。日本の学校制度が始まった頃から、教師の数はもう10万人ぐらいいたわけです。小学校教員と戦前は実業補習学校と旧制中等小学校がありますが、そういうのを合わせて戦争中ぐらいまでに50万人ぐらいのところまできていました。それから戦後、ベビーブームと学級定員の改善と高校進学率の向上という3つで人数が増えていったわけです。

 専門的な資格が必要な職業は世の中に数は多いのですが、どの社会でも教師と看護師が一番多い。日本でも教師が一番多かったのですが、今は看護師にたぶん抜かれたと思います。教師は頭打ちになり、なぜ頭打ちになったのか。

 最高は1991年で106万7000人という数のときがありました。ところがそれが頭打ちになります。もちろん少子化ということもありますが、決して少子化だけではない。それはなぜかと言えば、教育基本法や憲法と同じ年の1947年に学校教育法はできます。そこで新制中学校ができたわけですが、そのときに法律上、小・中学校は定員50人でした。ところが教室も足りない、教師も足りないので、私たちが学校に入った頃は1教室に70人というすし詰め学級という状態で、教室には机とイスだらけで隙間がない状態で授業をやっていました。それが昭和30年代の初めに、学級定員に関する法律「公立義務学校教育の学級編成及び教職員定数の標準に関する法律」(定数標準法)ができました。第一次学級改善計画は進められ、50人学級が1964年に達成されました。そこで第二次学級定員改善計画では45人学級にしようということで、それを約10年で達成し、1981年に第三次学級定員改善計画が行われ、40人定員が10年間で達成(1991年)されました。

 そして、2001年には35人学級が達成されるはずだったのですが、バブル経済が崩壊し、日本政府は「教育にはもうお金かけない。大資本にお金をかけ、大資本の景気をよくする」という方向に教育政策が転換され、基本的には40人学級のままです。規制緩和という名の下、各都道府県で1年生、2年生だけを35人学級にしているところもあります。そして、政策誘導的な習熟度別少人数学級指導の加配はするという方向で進められています。

 また、非常勤をどんどん増やし、91年から25年以上、正規採用の教員を増やす努力を怠っている。これが日本の教師の人数が増えていない大きな原因です。もし、あのまま10年おきに学級定員を減らしていたら、2001年に35人学級を達成し、2011年に30人を達成し、そして今、2021年の25人学級を達成し、2021年からは20人学級という欧米のレベルに到達できるはずでした。しかし、国はそういう政策をとりませんでした。

 日本の教師は子どもに対して熱心だという点では、他の国と比べても特異で、京都教育センターのように組合がセンターをつくり、研究活動をやっている。組合の研究活動、教研集会、民間教育運動などの教師の熱心さというのは、他の国にはない。日本は非常に特異な国です。

 私どもが90年前後に埼玉県と千葉県とで調査をしました。「経済的には恵まれない」「精神的に気苦労も多い」「自己犠牲も強いられるが、生徒と接する歓びのあるやりがいのある仕事だ」というのは、圧倒的な多数派の意見としてありました。これが日本の教師の姿ではないかと思います。

 内閣府の規制改革委員会が行っている学校制度に関する保護者アンケートでは、どの学年段階も満足に対して、不満のほうが2倍から3倍ぐらい多いという状態になっています。こういうものをいい加減にして、教育改革と称して教師をターゲットに政策側は行ったと言えます。


4.「教職アイディンティティ」と、教育実践の課題・希望

 私は“教える”という仕事は、非常に難しいことだと思います。生活の中で靴のはき方、靴下のはき方、そういうものを自然に学ぶとか、すぐそばにいる人にコンピューターの使い方がわからないから教えてくれといってパッとしたら、「ああ、わかった」とか、そういう比較的簡単に手本を見てわかるというものもあります。

 近代学校というのは、学びたいと限らない子どもを学校に集めて、皆学制であるからそこには無認定で集められた子どもたちが集まっており、彼らはもともと何かを学びたいと思っているとは限らないし、学ぶことが好きで集まっているわけではない。そこに登場する大人は予め尊敬して、師と仰いでいるわけでもない。そういう教師、生徒関係のなかで、生活労働の場から離れた間接的文脈の中で、その子どもたち将来の生活労働にとって重要だと想定されることを教えなければならない。

 学校というのは知識の伝達獲得の順序とか過程、手段など予め工夫、計画できるという有利な点はあるとしても、いったい何のためにそれを学ぶのかということが子どもに伝わりにくい。教材内容の文化的な意味が切り離されているから伝わりにくいという弱点がある。たくさん子どもを集めるので、集団規律を保たなければいけない。子どもは最初から騒いで授業にならないのは教師が一番恐れるところで、それには教師の皆さんは非常に工夫していると思います。

 教師の仕事で成果を見せるのはなかなか難しい。医者や弁護士であれば、薬を飲んで病気がよくなったとか、弁護士によって自分の権利が護られたとか、非常によくわかる。でもあの先生に教えてもらったから自分はモノが分かるようになったと思う人は、そんなに多くありません。

 イギリスの教育社会学者ハーグリーブスは、教師という社会層が抱え込んだ「難問」として、地位課題:取り組んでいる仕事の難しさのわりには社会的に地位が低い。力量課題:自分に力量があることを確認することが難しい。関係課題:子どもや親や同僚との関係づくりが難しい。この3点を挙げています。もうやっていけないというのであれば職業として成り立たないわけですが、それを成り立たせてきたのは、日本の教師たちがずっと積み重ねてきた、私は教員文化と呼んでいますが、教師たちの教材に対する向かい方、子どものとらえ方、子どもとの関係のつくり方、親との関係のつくり方、教師仲間の関係のつくり方、そういうものの積み重ねがずっとたまって、教員文化になったと思います。これはいい面もあるし、悪い面もあります。もちろん、教師は結果があまりはっきりしないので、いくらずさんにやっていても大丈夫だという面もあるし、ずさんさも結構教師の中で許容することも片方ではおこりますが、全体としては日本の教師は非常に熱心に取り組んでいます。


5.まとめ

 教師が学校関係者の中で特権的に尊敬される存在だという時代は終わったと思います。そういうものから脱皮して、もっと学校をめぐる民主的な関係づくりへと努力することが重要だと思います。教師が燃え尽きるのを防止する要因として、1つは傾聴(リスニング)で、時間を気にしないでその人の話を聞いてあげる。2つ目は感情的サポートで、「大丈夫だよ、私だって若いときは同じように失敗ばっかりしたんだから」と感情的に支えてあげる。3つ目が技術的(テクニカル)サポートです。「こういう方法もあるんじゃないか」というようなことをサジェスチョンしてあげる。

 それとならんで社会的状況のシェリング(共有)というのがあります。最初の3つはよくわかりますが、社会的状況のシェリングとは何かと考えると、ある子どもや教師が、あるいはある親が、困難に陥っているという状態のときに、もともとその人がダメだからそうなっているのではなくて、そうなるには社会的背景がある。その社会的背景というのは非常に大きなグローバルな背景から、日本的な背景から、地域的な背景から、学校的な背景から、身近な人間関係的な背景まで、社会的というのはさまざまあります。そういうところのどこかにその人がそうならざるを得ない理由があってそうなっているというふうにお互いにとらえる関係があれば、このことは教師同士でも、あるいは他の人との間でもとらえることができれば、特権的な教員文化から、民主的な教員文化へ脱皮していけるのではないかと思います。やはり教師が自信をもって教えるためにはどうしても先進性が必要だと思います。戦後、平和、民主主義、文化国家をつくるという点で日本の教師は非常に先進的な役割を果たしました。

 竹本源治さんの「戦死せる教え児よ」という詩です。「逝いて還らぬ教え児よ 私の手は血まみれだ! 君を縊(くび)ったその綱の 端を私も持っていた しかも人の子の師の名において 嗚呼! 『お互いだまされていた』の言訳が なんでできよう 慙愧、悔恨、懺悔を重ねても それが何の償いになろう 逝った君はもう帰らない 今ぞ私は汚濁の手をすすぎ 涙をはらって君の墓標に誓う 『繰り返さぬぞ絶対に!』」という詩があります。

 こういう戦争反省にもとづき“教え子を二度と戦場に送らない”という、平和の点で、あるいは民主主義をつくっていくという点で、日本の教師は戦後、先進的な役割を果たしたから尊敬もされたと思います。

 現代でも安倍内閣は非常にひどいことをやっています。教師は、自分らしさを発揮できるポジションをもっていますので、教師が教室で教えることにいろんな圧力がかかってきますが、最後は教師が自分でやることです。私は教師に期待したいと思います。
 
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