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早川幸生の 京都歴史教材たまて箱88

はす −社会の平穏と生命の安全を願って−


    早川 幸生
   「ひろば 京都の教育」188号では、本文の他に写真・絵図などが掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」188号をごらんください。   
 

――校区での出会い――

 教師生活最後の勤務地は、伏見の向島小学校でした。校舎からは宇治川や宇治川沿いの太閤堤(江戸時代は槙堤)が目前にあり、校区には水との闘いを物語る「石垣の上の水屋」や洪水の危険を村中に告げる「半鐘」「水防小屋」「洪水止の生垣」「避難用の川船」等を見ることができました。

 学校にも創立百周年を記念して創られた、「ミニ巨椋池(おぐらいけ)」と「郷土資料室」があり、生活科・理科・社会科・地域学習や総合的学習に見学や体験学習ができる空間として生かされていました。

 「郷土資料室」には、向島地域の農業・製茶業の道具や目で見る資料(江戸時代の絵図や安土桃山時代〜昭和時代の地図や写真等)が展示されていました。地域から寄贈された「巨椋池」や「宇治川」で使われた漁業具(川船の櫂(かい)、田舟、ひし採り船、竹製のビク、モンドリ、漁業鑑札など)貴重な資料が数多く展示されていました。

 「ミニ巨椋池」には、菖蒲やあやめ、スイレンやガマの穂、アシ等が生え、昭和初期の干拓以前の巨椋池の植生等も再現されていました。ときには絶滅危惧種の「ムジナモ(巨椋池に生息した食虫植物)が職員室前の廊下に置かれ、虫メガネでいつでも自由に観察することができました。

 初夏になると、校区の旧家をはじめ植物愛好家の池や門口に、かゆ(カラー)やあじさいに混じって、色とりどりの「はす」の花を見ることができました。次年度の家庭訪問から、何軒かの農家や旧家で「はす」や「巨椋池の漁業や干拓」について尋ねてみることにしました。「はす」については、蓮根(レンコン)や仏花や生け花用の蓮の花の収穫について、また蓮の実採りや「菱の実採り」と「菱採り舟」について話を聞くことができました。

 この時の経験と聞き取りが、退職後の同校の郷土資料室のリニューアルと展示作業に役立ちました。「菱採り舟は円いタライ舟」の一言が耳に残り、従来の展示で「馬や牛のカイバ桶」と説明がしてあった大きな木製の円形の桶が、実は残り少ない「菱採り舟」であることに気づきました。「ひょっとしたら」と大きな桶を裏返してみると、裏底に太い墨書きの文字が現れました。「明治三一年十二月新調 向島組所有」と。このタライ舟は、向島村共有の舟だったのです。

 そして、いちばん懐かしそうに話されたのは「蓮見(はすみ・蓮見船)」のことでした。


――くらしや歴史の中の「はす」――

 池や沼、堀そして水田などに自生し、また栽培される多年生の「はす」は、日本では仏典の花としてと同時に食用にする「レンコン(蓮根)」としてもなじみ深い植物です。日本列島には古く大陸から渡来したらしく、『万葉集』には「ハチス」の名で出てきています。現在でもこの名前は使われていますが、「ハチス」の語源は、花が咲き終った花托が蜂の巣に似ていることから生じたものです。

 仏教の中では極楽浄土に往生した者は、「はす」の花の中に生れてくると説かれていることから、極楽浄土の「はす(蓮)」を意味し、はすの花は「極楽浄土」や「往生」を表現する象徴ともされています。

 さらに「はす」は、ほぼすべての部位が薬用とされ使用されてきました。生薬ではレンコンの節部を「グウセツ」、葉は「カヨウ」、葉柄を「カコウ」、花のおしべを「レンシュ」、果実を「セキレンシ」、果托を「レンボウ」と呼び薬用しました。葉、おしべ、果実、種子にはアルカロイドが含まれています。節部や葉、おしべには止血作用があることから他の生薬と配合して胃潰瘍にも使用されます。果実は滋養強壮薬で、他の生薬と配合して慢性の下痢や心臓病等に応用されてきました。

 果実である「蓮の実」は、菓子の一種である甘納豆の材料として現在も珍重されています。砂糖で煮詰められ、粉砂糖でまぶされた一粒一粒が、独特の食感で栗に似た風味です。三室戸寺の寺務所で買い求めることができ、お煎茶、お抹茶のお茶受けに最適です。


――ちりれんげ(散り蓮華)――

 形が散った蓮華(はすの花)の花びらに似ていることから名づけられた、陶製で深みのある「さじ」があります。日本料理でも湯豆腐や鍋物やうどん類で使いますが、もとは中華料理で料理を取り分けたり、スープを飲むのに使った食器です。焼き飯を注文した際に、必ずついてくる陶器のさじです。

 咲き終わったはすの花びらが、水面に舟形に浮かんだ形をイメージしたものです。中華料理店の人たちが、「レンゲ」とか「チータン」と呼ぶのもこの「ちりれんげ」のことです。


――蓮弁と蓮弁模様――

(1)「東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)」の台座に、大きな蓮弁が見られます。仏教による国家平穏を願って「聖武天皇」の発願で天平十七年(七四五)に製作が開始され、天平勝宝四年(七五二)に開眼供養会(かいげんくようえ・魂入れの儀式)が行われた大仏建立ですが、大仏がすわっている台座は蓮華座と呼ばれています。台座には二八弁(大小各一四枚)の蓮弁があり、ダガネで彫った釈迦如来を中心に、蓮華蔵世界を表した図様が線刻されています。二度の兵火にもかかわらず、奈良時代当初の部分が残されています。その後多くの仏像の台座に使用されています。

(2)「水館(みずやかた)」の天水鉢にも蓮弁や蓮の葉や花が模様化されています。写真資料は、宇治三室戸寺の天水鉢です。奈良の薬師寺にも同じ施設があり、手水に利用されています。

(3)鳥居の石柱および石灯籠の土台石の周囲にも蓮弁模様の彫刻を見ることができます。北野神社の境内の参道に面して「伴(とも)の社(やしろ)」があります。社の正面に建っている鳥居の脚下にその彫刻があり、鎌倉時代の作であることを証明し、今に伝えています。参道反対側の石灯籠も様式を模したものです。

(4)「仏像の光背」にも蓮弁が見られます。法隆寺金堂の釈迦三尊像をはじめ、奈良薬師寺の薬師三尊像の光背にも蓮弁が使われています。


――散華と紙製の「蓮花花弁」――

 散華とは、仏教で仏を讃え供養するために花を散布することで、もとはインドの宗教行事として花や香を地にまいてその場を清め、花の香りで信仰対象を供養したことに由来しています。古くは本当の蓮などの花びらを散布しましたが、日本では紙製の「蓮華花弁」や代用の「しきみ」の花または葉が使用されてきました。

 大法会のときに行う四種の儀式(梵唄、散華、梵音、錫杖)の一つで、これを担当する主僧が蓮華師と言われています。道場内を行道しつつ行う「行道散華」と、着座のまま行う「次第散華」とがあります。撒かれたり使われた散華は、法要のあとで参加者や参拝者は、特別な時以外は自由に持ち帰ることができます。薬師寺には、平山郁夫氏や小倉遊亀氏、秋野ふく氏など、日本画・仏経画・児童本挿画家のオリジナル散華が販売されています。

 奈良時代の天平勝宝四年(七五二)」の開眼供養会の際には、大仏での大屋根からも散華が撒かれたといわれています。


――大賀ハス――

 教科書の中に登場した「はす」があります。それは国語の教科書で、発見者の大賀一郎博士の名をとり「大賀ハス」と呼ばれていました。現在も千葉県鴨川市の「みんなみの里」で栽培されている世界最古のハスの発見記録談です。あらすじを簡単に紹介します。

 昭和二十六年(一九五一)に、当時ハスの研究の権威者であった故大賀一郎博士が、千葉市の東大農学部の農場(現東大総合運動場)内で、地下六メートルの泥炭層からハスの実を三粒発掘しました。(記録によれば、たしか丸木舟の中で発見されたと)

 大賀博士は、ハスの実の年代測定のために、アメリカシカゴ大学へ送り、鑑定を依頼しました。その結果、それらの実は約二千年前のものであることがわかったのでした。

 さらに大賀博士は、三粒の実の発芽実験にも全力で挑み、結果は一粒のハスの実からの発芽を確認し、二千年前のハスの生命力の強さを知ることができました。最初周囲の人々からは「まず不可能」「期待度はゼロ」等と言われましたが、祈るような期待を込め挑戦したのです。発芽の翌年の七月にはピンクの見事な花を咲かせたのでした。

 「大賀ハス」は、当時世界最古のものとして、国内外を問わず世界中に紹介されたのでした。ハスの生命力の強さにも人々は驚き、「大賀ハス」は人々に愛され続け、千葉県から日本中にそして世界へと拡がっています。


――はすみ(蓮見船)」は平和の象徴――

 京都伏見の向島地域の地域学習や総合的な学習そして環境教育の教材として、夏の巨椋池(おぐらいけ)の「はす(蓮見・蓮見船・蓮根栽培)」について調べたことがありました。

 明治四十年(一九〇七)の「日出新聞」には、「巻葉浮葉の方は一里に翠を伸べ、玉の如き紅蓮白蓮の清香付近を薫らすばかりになった」と報じ、次に「蓮見の客は当地、大阪を主として日々百人をくだらず、多き日は二百人以上にも達するほど」とその盛況ぶりを伝えています。そして蓮見の案内は「伏見捕魚会」が主に行い、観月橋畔の「富田屋」へ行けばいつでも案内することが記されています。それ以外でも蓮見の案内は、向島村や小倉村(当時)などの巨椋池沿岸村でも依頼に応じて実施されたことがわかっています。

 しかし、夏の到来を告げ、夏休みの楽しみでもあった「はすみ」が禁止された時代がありました。それは昭和の四・五年に始まった日中戦争から十五年戦争終結までの頃のようです。中国進出を計画していた日本の軍部は、巨椋池周辺部を中国の運河地帯と想定し、渡河訓練や湿地の行軍、そして仮橋の架設訓練をしました。その中心は、京都伏見に部隊があった「工兵隊」や中国の南京城まで進軍し攻撃した「第一六師団」(京都・滋賀・奈良・三重県の青年達で編成)であったといわれています。悲しい歴史の事実です。

 現在、旧巨椋池周辺での商業的な「蓮見船」はないようですが、宇治の「三室戸寺」では年に一回だけ、明治・大正・昭和の初期まで「蓮見酒(象鼻杯)」として盛んに楽しまれていたお酒の飲み方(蓮の葉に酒を注ぎ、葉の下の茎に口を当てて蓮の葉にたまった酒を飲む様子が、象が長い鼻を上に持ち上げた様子から象鼻杯という)を味わうことができます。事前の申し込みが必要で、先着三百名で毎年実施されています。平和な時代であってこその、「蓮見」であり「像鼻杯」です。永遠に続いてほしいものですね。


 
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