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総論 貧困を放置する社会は壊れる
      −子どもの貧困をどうくいとめるか−


           中西 新太郎(横浜市立大学名誉教授)
 

[「苦しい、助けて」と言わせない貧困強制社会のおかしさ]

 子育て世帯のざっと四軒に一軒が貧困状態にある。普通に働いていても貧しい。それどころか、昼も夜も働くほど頑張っても子どもに普通の暮らしを保障することができない。母子世帯の現実がそうだ。

 「格差社会」の一番の問題は、こうした貧困の問題だ。誰もが普通に、人間らしく暮らせるために何が足りないか考えてみよう。貧困がなくなるどころか拡大し、生涯貧困社会が生まれようとしていること。それをくいとめられないこと。子どもを安心して育てられないこと。…貧困の問題とは、貧困をなくすことのできない社会の側の問題なのだということに私たちは気づかないといけない。

 そう言うと、「何でも社会のせいにするのはおかしい、今の世の中、頑張れば何とか生きてゆけるはずだし、そうやって頑張っている人だっている」と反論する人が必ず出てくる。貧困を、当人が頑張れば何とかなる問題と思う人は多い。なぜ多いのだろうか?

 死に物狂いで頑張らなければ普通に生きてゆけない社会だからだ。皆が必死でそうしているのに、頑張りきれないから社会に助けてと求める人間は甘えていると感じる。どれだけ努力しているかお互いにチェックしあう、「周りを見ろよ、お前よりずっと大変な奴だっているだろ」というわけである。ブラック企業での働き方を思い浮かべて欲しい。「甘えるな」と牽制しあう関係が際限のない過重労働を「普通」にしてしまう。頑張れば普通に暮らせるはずという主張は、「普通に生きてゆけないのは頑張っていないからだ」という錯覚を、麻薬のように私たちの感じ方に染みこませる。

 でも、夏休みになると食事が十分に摂れず痩せてゆく子どもたちに、ランドセルや制服にかかる費用を出せず苦しむ家庭に、生活に必要なアルバイトで疲れ勉強する暇もない生徒に、頑張って勉強し卒業するとき奨学金という名の数百万円の借金を抱える高校生や大学生に、何をどう「もっと頑張れ」というのだろうか。そんな風に頑張らなくても学校生活を普通に送る子どもたちと比べ、貧困状態に置かれた子どもたちの頑張りが足りないとでも言うのだろうか。

 「もっと頑張れ」と言われることが分かりきっているから、「いま自分はとても苦しい、誰か助けて」と言えない。声をあげられないから、貧しさがどれほど苛酷な生活を強いているか、そのリアルなすがたがますます隠されてしまう。貧困を個人の努力で解決できるかのように見せかけ、貧困に苦しむ人々に声をあげさせない強力なはたらきが、「甘えるな、もっと頑張れ」という要求にはひそんでいる。それではまるで、「頑張れないのなら貧困のままでいろ」という貧困強制社会ではないか。私たちが真っ先に言わねばならないのは、「貧困は社会がつくりだしている。だから貧困をなくすには社会を変えなければならない」ということだ。貧困を克服するとは、貧困を放置し、貧困のために困難にぶつかっている人を置き去りにするような社会の側のあり方を問題にし、社会を変えてゆくとりくみなのである。


[身近にありながら気づかない子どもの貧困]

 たしかに子どもの貧困は放置できない、それは認めるけれど、明日の食事にも困るような家庭はほんの一部なのではという誤解にも触れておこう。

 懸命に働かなければたちまち生活に行き詰まる暮らしは、子育て世帯のほんの一部ではない。保育所が足りないという悲痛な訴えは、家族総出で働かなければ家計が立ちゆかない現実、保育料が高いと働いても苦しい実態、生活を切り詰めなければ子どもの学資を準備できない実情――これらはみな、わずかな不運や不慮の事故で子育て世帯がぶつかってしまう貧困の問題である。いま、子どもを産み育てること、そう決意することは、こんな危険な道を歩むことを承知しておくということでもある。今は夫婦で働いているから大丈夫と思っていても、病気やリストラ、離婚…どれか一つでもあればたちまち家庭も子どもの生活も激変する。誰でも、いつどこでも、貧困状態に追いやられる危険がひそんでいる。

 現在の日本社会で進行しているこうした貧困のすがたを私たちはまだ十分につかんでいない.周囲の友だちにも気づかれずに人知れず悩み苦しむ子どもたちのすがたが見えていない。「一緒に遊ぼう」と言われ、お金がないので「用事があるから」とさりげなく断る子ども、ネットも使わず友だちづきあいもしない子ども、ママ友の輪には近寄れない母親、学校からの連絡に返答がなく集まりにやって来ない家庭、それらの陰に、「普通の」近所づきあい、友だちづきあいを避けなければ暮らせない貧困の現実があるかもしれない。でもそのことには気づきにくい。

貧困は人を孤立させる。孤立とは貧困を見えなくしてしまう貧困なのだ。すぐ隣りに座っていても毎日昼食抜きで過ごさなくてはならない貧困に私たちは気づかない。気づかれぬよう目立たぬよう、懸命に貧しさを隠す努力、「大丈夫」と何気なく振る舞う努力が、それでなくても見えにくい貧困を一層深く覆い隠してゆく。「貧しい人は助けなくては」と、自分だけが社会から助けてもらう場所にあからさまに置かれる状況が、そこに置かれた少年少女に何を感じさせるか想像がつくだろう。そんな目に遭うくらいなら、「大丈夫、何でもない」とやり過ごした方がずっと楽だと感じる。「放っておいて」という振る舞いの背後にある窮状を社会が見過ごしてしまうなら、誰の助けも得られず誰の支援も期待できない孤立がますます深まってゆく。

 貧困を放置する社会はそうやって壊れてゆく。苦しいときにたがいに「助けて」と言えない社会をつくっておいて、「大丈夫」と言い合う、そういう関係が見えない貧困を増殖させる。誰かの貧困を見過ごし放置することは、今は大丈夫と思っている人、貧困じゃないと思っている人にも必ずはね返る。苦しい状態に陥ったときに、自分もまた放置されて仕方ないことになるのだから。「苦しいのはお互いさまだから共同の力で何とか今の状態を変えてゆこう」と考えるのではなく、「苦しいのはお互いさまだから、他人に文句を言うのは止そう、他人(ひと)他人(ひと)のことは気にしないでおこう」と考えるようになる。「無縁社会」という流行語は、そんな風に人と人のつながりが断ち切られ、私たちの生活を支える社会の土台が崩されている現実を見事に表現している。格差と貧困がどんどん拡大する社会のまっただ中に生きている私たちが、そこで起きている困難から目をそむけることは、結局のところ、自分が窮迫状態におかれ社会から無視されても仕方ないと認めてしまうことを意味する。


[貧困を防ぐ効果的な対策を立てるのは政治の責任]

 なぜこれほど危なっかしい働き方、暮らし方を強いられ、しかもたがいの困難を無視しあう状態に追いやられているのか。

 その理由ははっきりしている。貧困に追いこまないための社会的支え(公的・制度的支援)があまりにも貧弱だからだ。義務教育は無償と言いながら、ランドセルのために数万円、中学の制服にも数万円、学用品や部活にもお金が必要な現実はおかしい。政府は貧困を解消すると言い、貧困の再生産を防ぐために子どもの貧困対策法をつくったが、では実際に、上に挙げたような困難を具体的に解決する有効な手立てはとれているだろうか。

 残念ながら、子どもたちが安心して育つ環境はまるで整っていない。「一億総活躍社会」「女性が輝く社会」と安倍政権の謳い文句は大げさで華々しいが、生活保護費の減額や保育所設置基準の切り下げなど々々、どんな子も子育て世帯も人間らしく暮らせる環境は逆にやせ細っている。子どもたちが安心して学校生活、日常生活を送れるために必要な環境を、子どもたちが生きている領域全体をカバーして整えなければならない。学校が終わると学童保育にも行けず、居場所がなく街中をうろうろする日本のストリートチルドレンは居場所を奪われた子どもだ。社会の隅々まで子どもが自由にのびのび過ごせる環境、3度の食事をきちんと摂れる環境、友だちと遊び勉強し健康にいられる環境――それら全部をつなげて成長の土台を築く横断的な支援のしくみが必要だ。小学校、中学校と進むにつれ持ち上がるさまざまな困難に対処できる、切れ目のない「縦の支援」も欠かせない。頑張って頑張って学校を出て、仕事に就いても最低賃金が1000円にも満たない働き方では生きてゆけない。安心して子どもを産める、育てられる、学校に行ける、普通に働いて生活できる……人生のその全部を見通しの持てるすがたにする責任が社会にはある。そういう社会をつくるのが公的制度の役割、政治の責任ではないか。

 もちろん、「困ったらどうぞ来てください」という入り口をつくるだけでは足りない。「貧困をなくすのは社会の責任」という考え方は、どこにどんな貧困があるかを社会の側が探り当てること、子どもであれ大人であれ、困難にぶつかっている人に、それらを解決するためのどんな制度、社会的支えがどこにあるか、どのように利用できるかつたえるよう求めている。制度があっても知らせない、利用させないのは、社会、政府、自治体の怠慢、サボタージュ行為だから、きびしく追求しなければいけない。

 ところが、日本の社会では、そうしたサボタージュ行為が横行している。たとえば、窓口での生活保護受給の抑制はその最も悪らつな例だ。子どもの成長にそくして必要な支えをどこでどのように準備しているか、子育て家庭や子ども自身にもれなくつたえているだろうか。待機児のカウントさえ不正確な現状を考えるなら、支援を必要とする子ども、子育て家庭に社会、政府、自治体は何を用意しているのか、どれだけ十分につたえているのか疑わしい。貧困を防ぐこと、貧困をなくすことは、そのために社会が何をしているかチェックし、社会の側の責任をはっきりさせること抜きには実現しない。



 子どもの貧困が社会的話題となり、対策が求められるようになってほぼ10年になる。無縁社会に警鐘を鳴らし、子どもの貧困を解消するための具体的とりくみはNPOなど、民間レベルで少しずつ進んできた。近年では「子ども食堂」のとりくみが各地で広がり、子どもたちの日々の暮らしを共同で支える貴重な試みが始まっている。

これらの試みが、地域で子どもたちの生活を支え、子育て家庭の居場所をつくろうとしている点に注目したい。経済的に困難な子ども、家庭だけを対象にするのではなく、誰もが暮らしやすい環境をつくるユニバーサルな支援という考え方だ。つまり、この社会に産まれ育つ子どもは誰でも安心して生きてゆけるよう社会が支えるという普遍主義的なケアの理念に立っている。「保育園落ちた日本死ね」というブログをきっかけに社会問題となった待機児解消問題にしても、働くために子どもの面倒がみられない親・保護者に対する恩恵という考え方ではなく、「子どもは社会全体で育てる」という考え方への転換が必要になっていることを浮き彫りにした。

 子どもの成長を社会全体で支えるという合意がつくられ、そこから出発して子どもにとって何が必要かを考えるなら、子どもたちが貧困のためにぶつかる多方面の困難を見過ごさず対処する姿勢、行動が普通のことになるだろう。声があげられぬほどの貧困を放置しないため、子どもの苦しさを想像し察知する人間的なセンサーを社会の隅々にまで届かせなければならない。学校での勉学の困難と家庭生活のきびしさを切り離さず、一つひとつの困難を丁寧に解消してゆく幅広い受け皿=ネットワークも必要だ。学童保育の場でつかまれた貧困の現れが学校にはつたわらない、友人関係からの深い孤立が大人たちから、教育の場からは見過ごされてしまう……そうやって貧困を取り逃がしてしまわぬよう、社会の側が貧困をなくすための連帯の知恵を編み出さなければならない。

 日本社会で育つどの子にも生きる希望を失わせるほどの貧困を味わわせたくないと思うのは贅沢な願いだろうか。無理な要求だろうか。決してそんなことはないはずだ。この当たり前の願いを実現させない社会こそが異常ではないのか。子どもの貧困を防ぎ貧困の連鎖を断ちきることは、私たちが生きる社会を当たり前でまともな社会にするために不可欠な課題ではないだろうか。

 
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