トップ  ひろば一覧表  ひろば186号目次 
早川幸生の歴史教材たまて箱 86

京都の番組小学校
――行政サービスの充実と町おこし、そして地域のセンターとして学校づくり


        早川 幸生

  「ひろば 京都の教育」186号では、本文の他に写真・絵図などが掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」186号をごらんください。  
 

――番組小学校――

 江戸時代が終わり明治になると、京都では新しい自治組織として、「町組」が再編されました。

 明治二年(一八六九年)に三条通りを境にして、北を上京一番から三十三番組、南の下京一番から三十二番組の計六十五の町組が確立しました。これらが現在の元学区となっています。この町組ごとに設置され建てられたのが「番組小学校」です。

 一八六九年(明治二年)五月二十一日に上京第二十七番組(柳池)小学校と、下京第十四番組(修徳)小学校で開校式が行われました。文部省設置の三年前で、「柳池校」や「修徳校」が日本最古の小学校であると言われる由縁です。その年の内に次々と開校し、明治二年内にすべての開校が完了しました。

 十二月二十一日、最後に開校した学校は、上京第二十八番組と二十九番組の(京極)小学校です。ここは二組合同で一つの小学校を建設しました。下京にも二組合同で一つの小学校を建設したところがあり、町組全体六十六組に対して、六十四校の「番組小学校」が誕生発足したのです。

 ここで番組小学校設立への足跡をたどります。


――小学校の構想と設置――

 明治初年(一八六八年)、京都府は後の「元学区」となる町組改正とともに、着手したのが大事業としての「小学校の建設」です。

 それまで京都では、江戸時代から私塾や寺子屋が伝統的に盛んに開かれていました。それは漢学・国学・洋学や町人の道徳哲学である「心学」でした。なかでも全国の学問に影響を与えたのは商人出身の伊藤仁斎で、「古義堂」を開き、現在のゼミナールのような方式の研究や運営がされ、明治まで続きました。

 京都の学問で、番組小学校創設に影響を及ぼしたとされているものに、商家の番頭であった石田梅岩が生み出した「石門心学」と呼ばれ全国に広まった思想もありました。

 このような風土の中、慶応三年(一八六七年)に寺子屋を営む西谷淇水氏が、官立の教学所設立の建白書を出しました。時をほぼ同じくして、後の二代目京都府知事になった槙村正直が、強力に小学校建設を推進しました。

 そして読書・習字・算術のけいこ場として、一組に一ヶ所の小学校建設を計画したのです。

 また同時に京都府は、町組(番組)ごとに小学校と町組会所を併設する町組会所兼小学校の構想をたてたのでした。そして明治二年一月末に新しい町組が成立すると小学校建設は急速に進みました。日本で最初に発足したこの町組会所兼小学校が、一般に「番組小学校」と呼ばれています。


――当時の小学校の様子と特徴――

 多くの小学校は、熱心な地元有志の寄附や、寺社や大きな施設の敷地や跡地でまかなわれていたため、現在のような運動場もなく、民家とかわらない大きさでした。そのため、その後の調査でわかったことですが。明治二年の設立当初の各学校の所在地から、数年から数十年の間にほとんどの学校が移動、移転していることです。移転理由の最も多いのが、「児童数の増加による、教室および学校諸施設の拡張・新設・充実のため」というものです。

 新採で勤務した、中京区木屋町通蛸薬師にある「立誠小(下京第六番組小)」の場合も、以上のことが当てはまることに気がつきました。

 明治二年の開校時は、「下京第六番組小学校」として、河原町(川原町)三条下ル大黒町南町の江戸時代の「カピタンの江戸上り」の際、オランダ人の定宿、京の阿蘭陀宿「海老屋」の屋敷の南奥の提供を受け発足しています。そして明治七年、三条と川原町の頭文字を取り合わせ「三川小学校」と名のっていました。そして火事のため学校は消失したので、運動場等もつくれる広い学校用地を求め、明治十年に「立誠小学校」と改名し、現在の木屋町蛸薬師で再出発したようです。(ただし、一九九五年に高倉小に統合)

 文部省発足三年前に開校した京都の番組小学校ですが、もう一つ顕著な特徴がありました。それは、小学校は単に教育機関であるだけでなく、地域住民の町会所・会議場であり、府の出先機関や区長の執務室も存在しました。また、江戸時代同様「火付盗賊」に対し、警察・交番や火消しと望火楼(火の見やぐら)を設置したのです。さらに塵芥処理や予防接種(種痘所)など保健所の仕事も、学校内の施設で担当していました。まさに現在の市役所の総合庁舎としての機能も果たしました。建設費用や、学校運営費用(現在の学校経費)や教職員の給与も町組が負担していました。

 以上の行政サービスの向上のため、住民も納得し分担金を拠出したと考えられます。もう少し詳しく紹介します。

@ 地域のセンターとして

 センターとは、まさに番組のできるだけ中心地に学校を設置したことをはじめ、学校の働きは子どもの学習の場だけでなく、地域の大人を啓蒙する場であり会議場でもあったのです。また、年寄りなど町役が出勤して戸籍を作り、別出金を徴収して学校を運営する竈(かまど)金をすべての家から平等に資金を集め、「小学校会社」を設立し、学校を運営し改築などの資金に当てました。

 現在残る元番組小学校には、数校ですが小学校会社で使われていた金庫や、学区事務室と受付窓口が見られる所がありました。まさに種々の行政サービスの先端の結集地だったのです。

A 学校として

 江戸時代から京都は、寺子屋や私塾が多く就学率の高い町であったと言われていますが、番組小学校開校後は、寺子屋はすべて閉鎖されました。京都府の教育機関の統一への願いは強く、市中の寺子屋教師を次々と、生徒を連れて番組小学校に入学させ、寺子屋の教師も学校での読みの先生や習字の先生に採用したという話が伝えられています。明治二年に寺子屋は姿を消しましたが、実質は番組小学校が寺子屋を継承したと言われています。

 その証しが開校当時の番組小学校に残っていました。それは写真資料の「天満神」と「孔子神」の墨蹟の軸です。明治三年正月の「稽古(けいこ)始め」の式や、始業式に掲げたことが伝わっています。学問の神様の菅原道真と、儒教の祖である孔子を「二学神」として位置づけていることから、当時の寺子屋の延長とも考えられます。また、寺子屋の教師が次々と生徒を番組小学校に入学させ、自らも番組小学校の読みや習字の師匠(教師)になった例も何件もあったようです。

B 警察・交番として

 幕末・明治維新と、京都の町は治安が悪く「火付盗賊」にも悩まされた経験があります。京都市では、明治の初め各学区の治安のため、京都府から派遣された警護方の「屯所」が各小学校に設置されました。そしてその諸経費は、学区民が負担したという全国でも珍しい京都ならではの特長でした。学区によっては、府に設置を願い出て実現したものもあり「請願交番」と呼ばれました。

 明治十年になり、上京区、下京区に警察署が置かれましたが、小学校内の交番は多く残っていたと言われています。各小学校が増改築を始めた明治八年から三十年代の学校図面にも「警官詰所」とかかれているのが「交番」です。学校に交番がある、まさに「安心・安全な学校・学区」を目指し実現した京都の姿でした。

 今でも、元番組小学校跡地の校門の隣接地や校門の正面に、交番がある所が残っています。僕の卒業した弥栄小学校(東山区祇園石段下・二〇一一年廃校)校門横にもあります。

C 消防署・望火楼「火の見やぐら」の設置

 京都の昔の小学校絵図や写真には、各学校に必ず個性的な「望火楼・火の見やぐら」が描かれ写っています。元・有済校(東山区三条京阪駅南)の屋上には、明治三年に造られた開校当時の望火楼が保存されています。市内に現存する、また日本最古の番組小学校の「学校火消し」があった唯一の証しです。

 幕末・明治維新の京都には、常火消(大名火消し)という近隣諸藩の大名等が月番交替で、御所と二条城・寺社仏閣の防火や消火を担当していました。しかし町屋の出火は「みな寄ってたかって消すべし」とされていたため、小さな火事でも初期消火に手間取り、何度も京都の半分を消失する火事を経験しました。幕末に江戸の「町火消し」に学び、京都には「学校火消し」ができました。自主消防分団の誕生です。

 統廃合が急速に進む京都市の番組小学校ですが、元の学校跡地に必ず「消防分団」の倉庫や、見廻りの際の詰所が存在するのはそのためです。

D 保健所・種痘所として

 就学前の幼児や、小学校に通う児童をもつ母親にとって、学校施設での保健所の機能を歓迎したという話が残っています。京都は幕末段階で、大阪や江戸よりも早くヨーロッパ医学の本格的導入にふみ切りました。特に天然痘は、奈良時代以降百回におよぶ流行が記録されており、いち早く種痘を実施した町でした。

 イギリス人ジェンナーが一七九六年に「牛痘法」を確立し、オランダ人により一八四九年に長崎出島に伝わりました。種痘の種(カサブタ)は、京都の医師日野鼎(てい)哉(さい)に届けられ一人の子どもに発症が認められ種痘は成功しました。明治初期有信堂を種痘所と定め、さらに番組小学校での接種を始めたことで「児童の接種率がぐんと伸び、保護者からも大好評でした。

 今から十五年以上前には、希望する児童に「日本脳炎」や「はしか」・「インフルエンザ」等の予防接種を学校で実施していました。そして今でも(すべての学校ではない)狂犬病の注射が、小学校で実施されているのは当時のなごりだとも言われています。


――現状と課題――

 京都市内中心部の児童数の減少により、一九九二年以来「都心部小学校(元番組小学校を中心に)」の統廃合が急速に進みました。さらに小中一貫校政策による統廃合と合わせ、二二年間で小・中学校六八校を一七校までに減少してしまいました。五一校の学校跡地が生まれており、使い方について問題も発生しています。特に「番組小学校」はその歴史的経緯からも、統廃合や小中一貫校化等については、地域住民の民意が第一に最も尊重されるべきと考えています。特に児童・生徒が学校の主人公として毎日通うことが最優先されるべきです。番組小学校こそ、「歴史遺産」です。

 
「ひろば 京都の教育186号」お申込の方は、こちらをごらんください。
トップ  ひろば一覧表  ひろば186号目次