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特集 1 戦後70年、戦争と平和を考える 
戦争をくぐり教師として戦後を生きた証人の語り 1

学徒動員による被爆体験から
−自分にとっての戦争とは−


* 安井 亨(元京都府・小学校長 宇治市在住・86歳)
  本特集は2015年12月19日、第46回京都教育センター研究集会において安井亨氏の証言を、編集部の責任で編集したものです。 
 

はじめに

 今日は戦争をくぐったと生き証人ということでお招きを受けたわけですが、戦争をくぐるというのは、戦争時代を生きた人びと1人ひとりによってかなりくぐり方が違うと思うし、またそれはその人にとってはかけがえのない体験ではないかと思います。私はその一人として、私の被爆体験を中心にお話いたしますが、学徒動員の舞鶴海軍工廠での実体験を中心にお話をさせていただきます。「私にとって戦争とは?」ということについては、お聞きのみなさん方からお話を伺いながら自分でも考えていきたいと思います。


舞鶴海軍工場へ再動員令

 舞鶴の海軍工廠へ動員を受ける前に、10カ月間名古屋に学徒動員へ出ておりまして、それを何とか引き揚げてきた直後の再動員が舞鶴の海軍工廠であったわけです。1945年7月11日であったと思いますけれども、まさに終戦直前の動員であったわけです。

 舞鶴海軍工廠というのは、明治22年に対ロシア戦略として日本海側に設けられた軍港に併設をする軍事工場でした。私たちが動員されたときには、記録によりますとそこで働いていた人たちは数万人もいたと言われるような工場でした。私たちはその中の第2水雷工場というところへ配属をされました。水雷工場ですから、に潜水艦の魚雷発射に関するいろんな部分を担う工場でした。そこで19日間が経ち、運命の7月29日を迎えました。


運命の7月29日

 ちょうどその日は日曜日で本来は休みなんですが、半舷上陸と言って半数の人達は工場へ出ました。私たちはいつものように40分の道のりを歩いて出勤し、前日に続いてスパナをつくる仕事に取りかかった直後、私の耳にザーッと雨の降るような音が耳に入りました。この音は、この前の名古屋動員でイヤというほど聞いてきた音でして、爆弾が落とされる時に空気を切りながら落ちてくる波動音で、「危ない!」と私は思いました。しかしそのときはすでに遅く、目の前のガラスの奥に強い閃光がパーと広がって続いて大きな爆発音です。目の前のガラスの破片が私に向かってなんか吸い付いてくるような錯覚に襲われたと同時に、ものすごい爆風を正面からうけて私は床の上にたたきつけられました。「痛い!」と思って顔や手を上げると血のりが手につきましたし、耳鳴りがガンガンとしておりました。早く防空壕へ逃げなげれば次の爆弾が落とされたら私は生命がないだろうとの思いがあり、すぐに立ち上がりました。あたりはものすごい粉塵と煙がモウモウと立ちこめて視界がほとんどきかない状況のもとで、ともかく手探りで階段を下りて、前の道を横切ったところにあったトンネル状の防空壕の中で大勢の人たちと共に逃げ込みました。

 警報が解除され外に出ますと、もう大勢の人が右往左往小走りに走りながらあちこちに散っていく様相がありました。道路にはいっぱい爆風によって吹き飛ばされたものが散乱する中を私は診療所へ向かいました。チラッと自分の工場に目をやると屋根も壁も全部姿がなく無残に鉄骨が残るだけの姿になってました。幸いにも私のケガはガラスの破片を顔にうけるだけの傷でそんなに大きなものではなく、少し大きな傷のところには絆創膏をいくつか貼ってもらう程度で済みました。

 私の被爆はそれだけですが、被爆40年後に同級生全部でそれぞれの『被爆体験』というものを手記にまとめたものがあります。その中から一つ、ある友だちが書いているものを紹介します。

 「昭和20年7月29日晴れ、午前9時前、自分は芝田の前でいつものパイプ治しをやっていた。サイレンと同時に突如ゴーッという音。同時に耳をつんざく爆発音。自分は椅子の上から吹っ飛ばされた。外に出て吹き飛んだトタン板などを飛び越え夢中で壕に入る。壕の奥へ奥へと行く。小川は顔をやられていた。久保がやられて担架で運ばれつつある。自分はすぐに応急手当処理に行く。なかなかやってくれないので包帯と綿をもらい、傷をくくってやった。盲腸のところを後ろから貫通されていた。加藤も頭をやられ倒れている。労災病院に着くと同時に空襲警報、ともかく病舎へ運び入れて応急手当をし、裏の壕内に入れる。防空壕の中で再び手当をする。空襲警報解除後、また病院内へ運び、3度目の手当をして寝かせた。

 その間、常に久保は『足がだるい』と言っていた。『喉が渇いたから頼む、ちょっとだけでもよい。水を飲ませてくれ』と言う。『ダメだ』と言っても聞かない。看護婦に尋ねて水をやる。少しすると『足がだるい』『背中が熱い。火の中にいるようだ。水をくれ』と言う。そのたびに聞き入れてやったがだんだん弱ってきた。1時半頃だった。『坂原の顔が見えなくなった』と言う。『そんなはずがあるか。目を開けてみよ』と言ったがやはり衰弱して見えないらしい。そうするうちにだんだん苦しみ始める。『水をくれ』『ダメだ』『少しでもよい。死んでもよいから頼むで、飲ませてくれ』。こんな問答が何回繰り返されたことか。そうするうちに呼吸が激しくなり、やがて遅くなる。やがて腹で呼吸するようになってきた。至急医者を呼ぶ。医者は傷口を見て注射をしたが、そのときはもうすでに久保が痛みを感じるところまでいっていた。かくして2時10分、わが友、久保は5名の同僚に見守られ帰らぬ旅立った。自分が着せてやったシャツも血まみれとなり、白衣も血に染まった。自分は心から久保の死後の冥福を祈り、体を拭き腹帯を巻いて白布をかぶせた。高橋が連絡に帰り、吉岡と山内が来た。彼らの話によると7名死んだと言う。その日は、吉岡と2人で久保の傍らに寝る。話しかければ彼の特徴のある笑い方をして話しそうな気がしてならなかった。夜はいろいろと久保の生前のことを思い出し、哀切の涙にくれた」といったような手記を書いています。

 中にはこのとき、結果的には右足を太ももから切断した友だちもいます。彼はこの手記によりますと、爆片によって右足の足首のところから吹きちぎられるような格好で傷を負っていたようで、その日に足首から切断しております。ところが切断したところから、何日か経つうちにだんたんと腐り始めます。それで膝の辺までがもうナスの色のように真っ青に晴れ上がり、もうこれでは命に関わる問題だということで、今度は、膝の上から第2回目の切断をします。その手記では、「1回目も2回目、大根切りという手術だった」ということです。その切断をする場所の肉片を切り取る。そうすると骨が出てきますから、そこをノコギリで切断をしていくといことが2回続いただけです。彼はその後、自分の町の病院に帰って治療を続けますが、切断をしたところの筋肉というのが徐々に縮んでいくわけです。結果的には骨だけが突出するというよう状況になり、そこの病院で3回目の手術はその太ももの骨にそり肉を切り開き、やや奥からまたノコギリで切断する。そういう手術をしたわけです。そういう状況を頭に思い描きますと、今考えてみても身の毛がよだつ残酷な手術状況を経ておりました。その彼は戦後、義足をつけて教壇に立ち、そして、障害児教育の立派な実践を残しております。

 翌日になって分かったことですが、一発の爆弾によって、私たちの友だち9人を含む97人の生命が奪われました。そして、百十数人という人たちが大きな負傷を負いました。まさ地獄絵のような思いもつかない大きな被害をさらに受けたのです。

 被爆5日後に、最後まで見つからなかった1人の友達の遺体ががれきの中から発見されました。急いで駆け寄って見ますとまさしく探していた平岡君の顔です。彼は5日間、夏の暑い日に埋もれていたためか、顔がふやけて真っ白であったことが今でも印象深く残っております。私たちはすぐにみんなでかけより、遺体を棺に納めて一応安置所へ運びました。そして、その日の午後4時頃だったと思いますが、担当教官の方から「これから仮設の焼き場があるからそこへ平岡の遺体を運んでみんなで茶毘に付す」という話がありました。私の記憶では6人と書いておりますが、とにかく車に遺体を乗せて山の中に入って、仮設の焼却場に棺を乗せ、用意されていた木材を積み重ねて火を放ちました。
暗い森の中でしたけれども、火が燃え盛る中で私たちは涙もなく、固唾を飲んで一つの生命が消えていく様子をじっと3時間あまり眺め続けておりました。火はやがて小さくなっていき暗闇の中で火が消えるのと同時に、彼の命もまた遠くへ旅立ったのです。


終戦(1945年8月15日)

 そして8月15日の終戦を迎え、8月19日に私たちは動員解除を受けます。それぞれの家へ帰ることになったのですが、私ともう一人の友人で平岡の遺骨を胸に抱いて、彼の生家のある加悦町を訪れました。玄関に立ったご両親に会うなり自分の体の深いところから吹きあがってくるような、悲しみ、苦しさといった感情が一気につきあがってご両親に「平岡くんの遺骨を届けに参りました」というのがやっとでした。そして、吹きあがってくる涙の中でご両親といっしょにひとときを過ごした、あの辛さは今も忘れることができません。そういうことで私たちは復学をします。そして、1949年、卒業してそれぞれの学校に赴任をすることになりました。

 これが私の戦争体験の主なものです。この研究会のチラシに、小さい女の子が防空頭巾をかぶった挿絵が出ていると思います。これはあまんきみこさんの『ちいちゃんのかげおくり』という作品の中の一つの挿絵です。その『ちいちゃんのかげおくり』についての時間の関係で端折ってお話をさせていただきます。この作品は、教科書教材にもなりましたから私も現職の時に何度も取り上げましたし、多くの人たちによって実践されました。(その実践についての部分は紙面の都合で割愛させていただきます:編集部)

 私たちは、この作品によって、必死の思いでお母さんの足を探し求めるちいちゃんは、空に消えていくことでしかお父さんたち、お母さんたちとの再会を果たせなかった。その痛恨の思い、そうさせた戦争への不条理、そういうものについて改めて考えさせられます。そして同時に人びとは、戦争の莫大な惨禍をも越えて、幸せな営みを築いていくという人間への強い信頼、そして生命への尊さを歌った人間への賛歌にも強い感動を覚えます。
私たちは、これからもこうした人間賛歌を歌い続けていきたいと思っています。亡くなった9人の友達のことを思いながら、これからも私たちは日々の実践を続けていきたいと思っているところです。     

 
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