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特集 2 あるがままのあなたでいいよ
総論 「あるがままのあなたでいいよ」って?



*高垣 忠一郎(京都教育センター・臨床心理士)
 

「あるがままのあなたでいいよ」とは?

 「あるがままのあなたでいいよ」とはどういう意味か?わかりやすくハッキリと言ってしまえば、たとえば権力者や親や先生のような「他者」の期待に応える「よい子」になる必要などなく、「あなた自身であればいいのだよ」という意味だ。いま多くの子どもが、たとえば国や企業という「他者」の期待に応える「よい子」にならなければ見捨てられるという不安と共に生きていないか?自由にものを感じ、考え判断する「あるがまま」の自分と共に生きているのだろうか?そういう子どもたちにこそ「あるがままのあなたでいいよ」というメッセージを送りたい。私が「自分が自分であって大丈夫」という「自己肯定感」ということばに込めたのは、「あるがままのあなたで大丈夫」というこのメッセージだった。70年代半ばに登校拒否・不登校の子どもが急増しはじめ、その「生きづらさ」と心理臨床家として向き合ってきた経験から生まれたメッセージである。

「自分がほんとうに感じたこと」「真実、心を動かされたことから出発して」ほしい

 吉野源三郎は『君たちはどう生きるか』(1937年)のなかで、こう語りかけている。

 「まず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実、心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。(中略)もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれが立派なこととして通っているからといって、ただそれだけで、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうとするならば――コペル君、いいか、それじゃあ、君はいつまでたっても、一人前の人間にはなれないんだ。(中略)世間には、他人の眼に立派に見えるように、見えるようにと振舞っている人が、ずいぶんある。そういう人は、自分がひとの目にどう映るかということを、一番気にするようになって、ほんとうの自分、ありのままの自分がどんなものかということを、つい、お留守にしてしまうものだ。僕は、君にそんな人になってもらいたくないと思う」

 日中戦争がはじまった年に出版されたこの作品のなかで、吉野源三郎が当時の若者たちに語りかけたこのことばを、戦前に回帰しようとするかのような「空気」が濃厚に漂い始めた今、「あるがままのあなたでいいよ」ということばに焼直して送りたい。

「あるがまま」は「まるごと(全体)」

 「生きもの」はメダカもトンボも、なんであろうが一つひとつが「まるごと」で存在している。「生きもの」のからだをみたらわかる。生きものは心臓、腎臓、肝臓、胃、小腸、大腸、・・などの部分だけで存在できない。それらの臓器や器官がつながって組織された「まるごと」であるときにはじめて「生きもの」として存在できる。生きものが「ある(在る)」ことは必ず「まるごと」でそこに「ある(在る)」。ゆえに「ある(在る)がまま」とは「まるごと」の「そのまま」であることだ。それが部分に分けられたら、もはや「生きもの」ではない。死んでいるものだ。従って「生きもの」である子ども一人ひとりの「あるがまま」を尊重するということは、「まるごと」を尊重するということに他ならない。

「あるがままのあなたでいい」とは日本国憲法の精神です

 日本国憲法13条には「すべて国民は個人として尊重される・・・」とある。それが日本国憲法のもっとも大事な精神であり、目的である。「個人」は英語では「individual」と書く。それは、divide(分ける)に由来する dividualということばに、否定の接頭辞 inがついたものだ。「もうこれ以上分けられない存在」だという意味である。「これ以上分けられないまとまりをもつ存在」が「個人」である。だから「個人として尊重される」とは一人ひとりが「まるごと」の存在として尊重されるということである。氏や素性、血筋や門閥、性や宗教、思想などその個人の属性や所属している集団にかかわりなく、一人ひとりが、一個の「まるごと」の存在として尊重されなければならないということだ。「個人として尊重される」ということは、その個人のもつ部分的な属性や性能が、国の役に立つ属性や性能だから尊重されるということではない。国民は社会のなかでそれぞれがいろんな「役割」をもって生きるが、それ以前にまず「個人」として尊重され、お互いを「個人」として尊重し合う必要がある。

「個性」を尊重するとは

 「個性を尊重する」ということもたとえば、英語ペラペラだから、パソコンの達人だから尊重することではない。個性とはそういう部分的な性能や属性のことではなく、「個人」という「まるごと」の存在なら誰もが持つ「持ち味」のことである。「個性を尊重する」とは「まるごと」の個人の「持ち味」を尊重するということだ。「あるがままのあなたでいい」という意味は何が得意で、何が不得意かに関わりなく、まるごとの「あなた」の「持ち味」が尊重されることである。むろん「あなた」自身が自分の「持ち味」を尊重することだ。

 「咲いた 咲いた チューリップの花が 並んだ 並んだ赤 白 黄色 どの花みてもきれいだな」という歌がある。この歌のなかでチューリップの花は赤が一番、白が二番、黄色が三番というふうに、きれいなものの順に並んでいるわけではない。「どの花みてもきれいだな」。つまり、赤には赤の、白には白の 黄色には黄色の、それぞれの美しさ(持ち味)があり、その美しさ(持ち味)を比べて順位をつけることはできないということだ。しかも、それぞれの色のチューリップの花は、その他の色のチューリップの花が一緒に咲いていることによって、その美しさ(持ち味)が引き立つ。本来それぞれの子どもの個性とはそういうものである。足を引っぱりあうのではなく、互いに引き立て合う関係である。

 「あるがまま」を尊重することは人間を怠惰にする?

 たとえば、「“あなたはあるがままでいいのだよ”ってよく聞くけれど、自分はそうは思わない。“あるがまま”ってことは、自分の未熟さを開き直って受け容れているに過ぎない」「“あるがままでいい”なんて言っていると、人間が何もしないグータラ人間になってしまう」「“あるがまま”とは現状のままのことだ。“あるがままでいいのだよ”という耳障りのいいことばによって、結局相手を現状に置き去りにする逃げ文句だ」・・・こんなふうに「あるがまま」を「現状のまま」と誤解する人たちがいる。「あるがまま」を認めることは「安易に流れる自分」「未熟な自分」をそのまま受け容れることになるという。私が共同研究者として参加してきた教育研究集会の「登校拒否・不登校」の分科会でも「あるがままでよい」という言い方がでてきたときに、フロアーから「そんなことを言っていたら、子どもは努力して成長しようとしなくなるのではないか」と心配する声が出たことがあった。そのような心配が生じるのは「あるがまま」を尊重されたことのない人が多く、「あるがまま」という言葉の曖昧さも手伝ってその意味が正しく実感的に理解されていないことに起因するのではないだろうか。

「あるがままの自分でいいのだと」思えるようになって自分が好きになった

 不登校だったある女子中学生が教育研究集会の「登校拒否・不登校」の分科会に母親と共に参加し、短い話をしてくれた。「いま、私は自分が好きです。『あるがままの自分でいいのだ』と思えるようになって、自分が好きになりました。そうすると、心が楽になって『あれもしたい、これもしたい』という意欲が湧いてくるようになりました。いまは、毎日自分の満足のいくように過ごしたいと思います・・」という話だった。この話は心理臨床家として不登校の子どもと向き合ってきた私にはとてもよく納得できた。彼女の話には二つの大事なポイントが含まれている。ひとつは「『あるがままの自分でいいのだ』と思えるようになって自分が好きになった」ということ。二つは「そうすると心が楽になって、『あれもしたいこれもしたい』という意欲が湧いてきた」ということ。この二つのポイントを教育に生かすことができるならば、多くの子どもたちが救われることだろう。

 「よい子」は一般に周囲の評価は高いことが多いが、反面で自分が好きではないことが少なくない。なぜか?「ねばならない」が心を縛って自由にあるがままにものを感じ、本心から生じる気持ちに正直に生きることができないからである。「あるがままの自分」を置き去りにして生きているから、そんな自分が好きになれないのである。「あるがままの自分」でいいのだと思えるようになって心が解放された。そうすると心が自由になって「こうしたい」「ああしたい」と本心の動きが生じるようになった。「よい子」が生命力の一段と高まる「第2の誕生」のときを迎え、人生の主人公として自立への胎動が始まる思春期・青年期の頃に、「よい子」の自分のあり方に違和を感じはじめ脱皮を始めることはよくある。その脱皮は周囲の無理解のなかで命がけの脱皮になることもある。そのような子どもの姿に触れるとき、「あるがまま」を認めたら人間が自堕落になり成長や発達に向かって努力しなくなるという心配は人間の成長や発達が見せてくれる本当の姿を知らないからだと思える。

@子どもの「あるがまま」を尊重するとは

 子どもの「あるがまま」「まるごと」を尊重することは、子どもを「人生の主人公」になっていく主体として尊重することである。社会のなかで「人生の主人公」として生きる主体を「人格」という。人格は「まるごと」だ。バラバラの属性や性能の寄せ集めではない。人格はそれらをまとめて方向づける「生きるめあて」がその軸になる。あれこれの「できる力」をいくら身につけても、その力を「何のために」発揮するのか、その軸となる「生きるめあて」がしっかりなければ、それらの力は「生きる力」として生かされない。「人格」は「生きるめあて」と「生きる力」の統一だ。いまの「人材教育」はあれこれの「できる力」を身につけさせることにばかりに熱心で、主体として「めあて」をもって生きる力を育てることをさぼっている。「生きるめあて」は国が与えると言わんばかりだ。それぞれの子どもに「生きるめあて」を育てるためには、その子の目にこの世界がどのように見えているのか、その子の立場にたってその感じ方や見方を「あるがまま」にとらえ、それを問答のなかで確かなものにする支援がなにより大切である(子どもの意見表明権)。教育は国や企業の役に立つ「人材」を育てることが目的ではなく、「人格」を育てることが目的であることを思いだそう。そうすれば、「あるがまま」を尊重すれば子どもが成長に向けて努力したりがんばったりしなくなるのでは・・という心配から解放される。そういう心配は「人間(人材)はムチを当てないとがんばらない」という脅しで人を動かすことに馴れた権力者の人間観から生じるものであると私は思う。
 
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