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特集 1 戦後70年、戦争と平和を考える 
戦争をくぐり教師として戦後を生きた証人の語り 2

「昭和」を生きて


* 黒田 壽子(退職教職員・89歳)
  本特集は2015年12月19日、第46回京都教育センター研究集会において安井亨氏の証言を、編集部の責任で編集したものです。 
 

はじめに

 私は大正15年生まれで、「サクラ読本」の第1期生です。私の1期上は「ハナ ハト マメ マス」という小学校の教科書です。私たちから色刷りで、「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ コイ コイ シロコイ ススメ ススメ ヘイタイススメ…」となりまして、バリバリの軍国少女に育て上げられた世代です。

1.昭和初期のくらし

 私の田舎は伊勢鈴鹿市で海に近いとこでした。私の村何百軒の中で新聞をとっていた家は10軒もなかっただろうと思います。電話があるのは学校と役場と村長さんの家とお医者さんの家、そして金持ちの家数軒でした。私の家は貧乏なのに女学校へやってくれました。村中の笑いものでしたが、両親は学歴がなかったのが切なかったのだろうと思って、今、感謝しております。

 そういう時代で、身分差別は当たり前のことでした。学校で履歴書に、士族、平民とか書かなければいけない。朝鮮というのは朝鮮人に対する蔑視の言い方です。叔父は工場を所有していたので日本人が半分で、中国人はチャンコロ、ロシアはロスケと呼んでいた。そのようにして他民族を軽蔑するように育てられたのだろうと思います。

2.戦争時代

・女学生時代(開戦後1年の変化)

 私が頭に残っているのは2.26事件です。「大変なことが起こった」と思いました。小学校5年生のときに日支事変が始まりました。女学校2年生のときから、愛国行進国というのが国語の教科書に載ってくるようになります。

 3年生になると愛国百人1首のカルタ会が行われました。開戦が3年12月朝。朝ご飯を食べている最中にラジオで聞きました。「能」にも手が入ったということです。勧進帳の中に「天皇が奥様を亡くして悲しみ」という場面がありましたが、「そういう女々しい天皇は日本にはいない。書きかえろ」と言われた時代です。

 4年生では、防空演習。私は学校の防衛隊長でした。1番の名誉な任務に就きました。「死守セヨ」という命令が下る。校門を入ったところに線が引いてあり、そこで最敬礼、小さな小屋が建っていて、天皇の写真と教育勅語が入っている。これが奉安殿。それを死守するのが1番の名誉であったのです。私は軍国主義のパリパリでした。

 物はすべて配給。お米は1人2合三勺、それが2合1勺になりました。私だけでも三合から五合食べたのに。それがだんだん欠配になり、しまいには200日ぐらい欠配になりました。4年生の国史の授業で、「日本神話を信じますか」と言われました。みんなが「信じない」と手を挙げたのですが、私が「信じます」と手を挙げたら喜ばれました。答案のどこかに、「鬼畜米英、撃ちてし止まん」と書かないと公民、歴史、修身の先生は点数をくれませんでした。卒業式の朝、黒板には「海ゆかば」。「山に行っても、海に行っても天皇のために死のう。後悔しない」と涙をポロポロこぼして歌いました。

3.女専時代

 雨の中、学徒出兵も見送りました。テレビで見る明治神宮の学徒出陣は、自分たちが見たのとダブり、なぜかしら涙がこぼれます。今から考えればあの中に私の恋人になるべき人もいたかもしれない。私は独身ですが、私の年代は独身の人が多い。

 1年生になりますと学徒動員。私たちは島津三条工場で旋盤をつくっていました。空襲警報がなったら双岡まで逃げるのです。時間がないときは工場と工場の間に掘った防空壕へ。

 昼休みに源氏物語ぐらいは読もうではないかと先生がおっしゃって輪読をするのですが、みんなくたびれて寝てしまうのです。今、五条通、御池通は広いですね。空襲のための疎開だったんです。私は五条通に動員されまして、大黒柱を切って、上に角付けて馬車で引っ張ります。メリメリと檜建ての家が壊れました。

 東京が3月10日にやられ、3月13日に大阪がやられ、私と妹が須磨の姉のところに行た日が3月17日(神戸空襲)でした。

 空襲警報があって、爆弾が落ちたときにバーンと空中で破裂すると、何万という火の粉に変わるのです。ザァ〜とアラレが降るような形で落ちてくる。隣の子どもたちがギャ〜と泣き出す。やっぱり来たと思って、庭の立木にピタッとくっついたらそのまま立木が燃えていく。みんなで消し始めました。消えたと思ったら、町内の空き家から燃えだして、もうこれはダメだと思いました。私はモンペの上に義兄のズボンを2枚はいて、オーバー着て、水に浸した防空頭巾をかぶって、姉の4才の男の子を背負って、妹と2人で逃げました。空は火がゴーと渦を巻き、地獄そのままでした。小さいときお釈迦様のお祭りで見たあの地獄図よりもっとひどかった。あれは生き地獄だったと今、思います。

 所々にある水で頭を突っ込まないとダメなんです。誰かが「山へ逃げろ」というのでみんな山に逃げ、また「山ではダメだ。海に逃げろ」というので海に逃げた。やっと朝になって姉の家を見に行ったら、風向きに助けられて無事でした。

 次の日、須磨から1本道を歩きました。その途中、電車に引っかかって真っ黒になっている人やら、焼け野原でいっぱい人が死んでいた。生暖かい臭い風が吹いていて、人間というのはそういう状況のもとでは人間性が喪失するのですね、悲しいとも、あわれとも思わず、ただだるくなり、とぼとぼと歩きました。電車があるというのを聞いて「神戸で焼き出されました」というと京都の四条大宮までタダで乗せてくれました。四条大宮から家までまた市電をタダで乗せてくれました、家に帰ったら、「もうダメだ」と思っていた母が泣いていました。

 そのあと、食料がなく大変でした。私のすぐ上の姉がお産で帰ってきました。家は六人になりました。配給がなくなり、おかずも、主食も何もなくなりました。あるとき配給があるからとよろこんで行ったら、九条ネギ2本でした。それで1週間六人がどうして食べられますか。田舎ならなんとかなるだろうと母と姉たちを田舎へ帰らせて、私は寄宿舎に入りました。寄宿舎も大変で、馬町が焼夷弾でやられて、寮にも落ちたのですが、箝口令で1切何も知らされない時代でした。

4.敗戦後

 敗戦後の生活は食料がなくもっと惨めでした。満州から3番目の姉が1歳と3歳と5歳の子どもを連れて帰ってきました。夫はソビエトに抑留されていました。1歳の子はもうどこがお尻か分からないぐらい痩せていました。

 米糠を食べました。満州から引き揚げてきた姉が、「壽ちゃん、米糠で何をするの。ニワトリのエサ、ニワトリを飼っているの?」「違うよ、私たちが食べるのよ」。米糠を入れないと菜っ葉だけではドロッとしない。糠をたくさん入れるとその晩、下痢をするのです。姉は「満州のほうがまだ食べるものがあったよ。内地は塩がないというから持って来たのに、お砂糖もないの」というから、「お砂糖なんてもう何年も見たことない」という時代でした。

5.戦争でわかったこと〜気がついたときにはもう遅い〜

 戦争ってパッとくるもんじゃないということです。気がついたら戦争になっている。気がついたときにはもう遅い。そのときにはこっちが戦争を欲するように仕向けられています。治安維持法がありましたが、あれでみんな何も言えなくなり、山宣はそれで殺された。

 2013年秘密保護法が成立したとき、「これは危ない!街頭に立とう」と言い出したのは85歳の友だちと私です。85歳を過ぎた2人が宣伝カーを借りて街頭に立ちました。ただ私たちが訴えてもみんなケロッとしている。戦争をからだで感じてきた私たちと、理論的に知っている60代、70代とは違う。それ以後、毎週、街頭に立つようになりましたが、今夏以降、やはり年齢のせいか1回立ったあと何もできなくなりました。

 教育、マスコミがどんなに大変なことか。今の安倍さんのやり方を見ていたら分かりますね。NHKにまで文句を言っていますが、それは恐いことです。私はいまNHKの受信料を払っていません。「安倍さんがやめない限り、NHKの運営委員を代えない限り払いません」。教育、秘密保護法、それらは全部お膳立てされていて、とうとうと来るものが全部来てしまったという不安がいっぱいです。

6、終わりに 〜教員になってよかった〜

 私が変わったきっかけは、戦争が終わったあと誰も謝ってくれなかったこと。死にたい、あっという間に人生を終わりたいと思っていたけど、教員になってよかったと思います。

 顔を真っ黒にした勉強ができない子もいれば、家庭教師がついている医者の子どももいる。その55人が同じクラスでいて、そこで矛盾を感じて私はいろいろと鍛えられたと思います。

 第23回「血のメーデー」に出たのも、「卑怯者去らば去れ 我等は赤旗を守る」と、それだけ自分に言い聞かせながら歩きました初めてのメーデーです。

 教師であった私はいっぱい生徒から教えられて鍛えられました。もう1つは京教組のたたかいです。これは誇り高いたたかいで、京都の民主陣営を築いていったのは京教組だったと言っても言い過ぎではありません。

 「絶望に生きしアントン・チェホフの晩年をおもふ胡桃割りつつ」という短歌が毎日新聞に出ましたが、今はそういう心境です。アントン・チェホフの名作『桜の園』がありますが、そのタイトルに喜劇と書かなければならなかったチェホフの悲しさと無念さを思い、私の心はゆれます。「教師の任務は…」という話について、私がやってきたことを本にも書きました。私が京教組におったから、教員だったから、変わり得たこと、だからこそ誇り高く胸を張って今を生きておれることについてもう少しお話をしたかったのですが…。これで私の話は終わりです。

 
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