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連載 早川幸生の京都歴史教材たまて箱85
弓矢(五穀豊穣と人々の幸せを願い、天災や災い、万難を除いて)


* 早川 幸生
  「ひろば 京都の教育」185号では、本文の他に写真・絵図などが掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」185号をごらんください。  
 

―弓矢と地域の祭りや神事―

 左京の八大神社や、伏見の御香宮など校区の祭り(神事)や伝統行事に、一年を通し、春秋の祭りを含め「弓矢」が登場する行事が多いことに気が付きました。また、門口の飾りや屋根看板の破魔矢も目に留まりました。京都府、市内をはじめ近畿一円で一月の行事に以外に多くの「弓矢」に関する伝統行事が、続けられ生活の中に根付いていることにも気づきました。

 また、弓道や「武芸のための的場」から生まれた言葉や表現が、暮らしの中に多いことにも驚かされました。思いつくものから記します。

 「射止める」「図星」「的中」「金的」「的外れ」「的を射る」「目星をつける」「攻撃の的」「羨望の的」「あこがれの的」「弓折れ矢尽きる」「三本の矢」「金星、白星、黒星」等々。少し乱暴な言葉の「やばい」は、矢場(やば)で働くことが危険なことから生まれたといわれていること等が挙げられます。


―弓矢とは―

 弓と矢からなる武具で、戦い(軍事)や戦(いくさ)そのものを意味しています。特に戦に限っては「いくさ」の語源が弓で矢を放ち合うことを意味する「射交わす矢(いくわすさ)が「射交矢(いくさ)」に変化したともいわれています。

 また「弓矢」を「箭霊(さち)」と表記して「幸」すなわち幸福と同異義語として理解し、正月や祝い事に活用することもあります。

 赤ちゃんが生まれて初めての正月を「初正月」といいます。赤ちゃんの祖父母をはじめ親せき、友人たちが「初正月」を祝い「破魔弓、矢」を贈る習慣があります。意味は字の如く、赤ちゃんの「無病息災」や「無事な成長」を祈り、お守りの意味も持っています。魔除け、厄払いのお守りです。

 同じようなものに、正月、神社などの破魔矢や、建築物の棟上げの際、屋根に立てる破魔矢があり、いずれも弓矢の持つ霊の力を信じることから生まれた習慣です。


―通し矢(東山区・三十三間堂・成人式前後の日曜日)―

 東山七条の京都国立博物館の南にある三十三間堂は、平安時代の末期に後白河法皇の勅願によって平清盛が造営したと伝えられています。現在では、成人式前後の日曜日に、新春の風物詩「三十三間堂の通し矢(弓引き初め)」が行われます。これは、江戸時代さかんに行われた「通し矢」に関係する行事で、新成人の弓の愛好者はもちろんのこと、初心者からベテランまでの弓道者が、ここに集まってきます。

 「通し矢」とは、三十三間堂の裏手(西側の縁側)で、的を南の端におき、百二十bも離れた北から矢を放ち的に当てるものです。江戸時代の通し矢では、一昼夜のうちに何本的に当てられるかを競ったと伝えられます。

 貞享三年(一六八八)には、紀伊藩の和佐大八郎が一昼夜で八一三二本(放った矢の総数は一三〇五三)の命中率約六二%が過去最高とされています。(現在の的までの距離は六〇bです)


―久多の山の神・お弓(左京区久多・志古淵神社・三日)―

 宮座の関係者が朝から神社に集まり、ムラサキシキブの木を削り弓矢と鏑(かぶら)矢(や)、宝剣と鯛を作ります。その後、神職が二人で山の神の祠(ほこら)に神饌を供え、祝詞(のりと)を奉上し神事を行います。

 終了後、神職は拝殿前の広場で、最初にその手の恵方に向かって矢を放ち五穀豊穣と家内安全を祈願します。次に十b先の的に向かって矢を放ち、見事に的を射るとその年は豊作とされます。

 京都市の登録無形民俗文化財に指定されています。


―西七条奉射祭(下京区西七条・松尾大社御旅所・十日頃)―

 京都市中央市場近くの、西七条南中野町にある松尾大社御旅所で行われる正月の神事です。「鬼」という字の書かれた的を射て邪気を払い、今年一年の松尾大社氏子一同の家内安全、無病息災、商売繁栄を祈ります。

 四方の隅と天地を射て、すべての鬼の侵入を防ぐのが目的です。弓を射るのは、地元の奉射議員が従来から務めています。


―弓始め式(相楽郡精華町・春日神社・十日)―

 豊作を願って弓で的を射る行事です。春日神社の三つの宮座(真座・本座・今座)から選ばれた宮守が白装束に烏帽子姿で弓を射ます。その年の恵方に置かれた紙で作った的に十本の矢を射ます。多く当たるとその年は豊作だと言われ喜ばれます。

 氏子は式の前に、ワラ束に米を入れた紙袋を取り付けた「トウビョウ」というものを神前に供えます。式後、解体された的の墨色部分の紙片をトウビョウに付けて持ち帰り、春の苗代作りの時に、花と一緒に苗代に供えます。


―弓座(乙訓郡大山崎町・小倉神社・十三日)―

 「花びら」という餅と弓矢、的を神殿にお供えし、祝詞(のりと)を奏上後、弓が射られます。疫病退散、五穀豊穣、方除を祈願する神事です。

 この時使われる弓は、長さ五尺の青竹が使われ、六本の矢は葦(あし)竹で杉原紙を矢羽として神主が作ります。「鬼」と書かれた的と二枚の菰(こも)は、六人の宮年寄が担当します。

 拝殿の入口におかれた的を、本殿側から神主が射ます。射終わった矢は、宮年寄によって下げられ、保管された矢が六本たまるのをめでたいこととして喜ばれています。


―おこない・お弓(左京区大原・浄楽堂・十五日)―

 京都市の登録無形民俗文化財に指定されています。青年団により、お椀に盛られたサイコロ状に切られた大根を、少しずつ取り出しては転がす「サイコロ転がし」というオコナイが終了した後、「お弓」が実施されます。

 お堂近くの田んぼで、準備され作りつけられた的に向かって、一(いち)和尚(ばんじょう)と二(に)和尚(ばんじょう)の役を務める青年によって、一人五本ずつの矢が放たれます。


―武射神事(北区上賀茂・上賀茂神社・十六日)―

 歩射神事とも呼ばれています。境内参道横の芝生に射場を設け、狩衣を身にまとい烏帽子をつけた八人の神職が射場に並び、一人十二本ずつ直径一,・八bの的を射ます。

 的の裏には「鬼」という字が大書されています。この行事は、平安時代に宮中の建礼門で「五穀豊穣」「無病息災」のために始められたといわれています。一年の初めに天災や疫病、災いすべてを的の鬼に見立てて矢を射り、退散させてしまうのでしょう。


―勧請縄と歩射神事(長岡京市奥海印寺走田・十四日)―

 一の鳥居に約十二bの注連縄(しめなわ)が取り付けられ、その下をくぐることで厄除けになるといわれています。注連縄から十二本の榊が垂れ下がり、その長さでその年の米の相場を占ったとも伝えられています。

 そして氏子の「御弓講」による「歩射神事」が行われ、氏子村人の厄をはらいます。

 参拝者には三角の御供が配られますが、これを「お千度祭」と呼ばれることがあり、昔は子どもたちの楽しみの正月行事でもありました。


―「弓取り式」―

 日本古来の弓である「和弓」が、全国版のテレビ放送で画面に登場する機会があります。それは日本の国技である大相撲の、結びの一番が終わるとおこなわれる「弓取り式」の場面です。

 本来は千秋楽だけの行事でしたが、昭和二十七年の一月場所からファンサービスとして毎日行われるようになりました。「弓取り式」は、大相撲の本場所の千秋楽(十五日目)の結びの一番の勝者に代わり、「弓取」の作法を心得た力士が土俵上で弓を受け、勝者の舞を演ずることです。

 その始まりは諸説あるのですが。平安時代に行われた相撲節会で左近衛府と右近衛府に分かれて相撲を取った際、勝った方の立会役が矢を背負って勝者の舞を演じたことが始まりといわれています。また、安土桃山時代の『織田信長が相撲を観覧した際、優勝者に信長秘蔵の「重藤」の弓を褒美(ほうび)として与え、力士がその返礼として舞ったことに由来する』という説がありますが定かではありません。

 今日の原型は、一七九一年七月十一日(寛政三年の六月十一日)に横綱の二代谷風梶之助が徳川家斉の上覧相撲で、土俵上で弓を受け「敬い奉げて四方に振り回した」ときに出来上がったとされているのが史実のようです。

 元々は、三役揃い踏みに大関として登場した二人のうちの勝者が行っていたが、千秋楽に幕内の取り組みがなくなり、幕下力士が行うようになりました。「弓取り式」が千秋楽にのみ行われたのは、この場所最後の勝者を称えるという意味を含んだものだったのです。

 「弓取り」を行う力士は向正面に控えとして座ります。結びの一番で東が勝てば東から、西が勝てば西から土俵に上がり四股を踏み、弓を振ります。「弓取り」は、基本的には横綱がいる部屋の力士によって行われ、横綱不在の場合は、大関のいる部屋から選出されています。

 「弓取り式」で、力士が弓を落とした場合は足で拾います。これは、手を土俵につくと負けとなり縁起が悪いことからとされています。拾い方は、足の甲に弓を乗せ、足で弓を上に跳ね上げたところをつかみとります。また、万が一、弓を土俵の外に飛ばした場合は、呼び出しが拾って手渡すことになっています。


―京弓―

 一五三二年創業の弓師が京都に存在します。現在、京弓を受け継ぐのは、二十二代続く「柴田家」一軒のみとなっています。

 戦国時代から受け継ぐ伝統の「京弓」ですが、柴田勘十郎弓家は、戦国時代の天文年間に、初代が薩摩藩の弓師として仕えていたことが始まりとされています。京都に移って徳川藩に仕え、「弓師」の称号を得て現在に至っています。

 「京弓」の材料の竹は、主に京都に自生する竹で、寒暖の差が激しい京都の四季の中で育つことで、繊維がしまり密度が高くなるため、硬くそして節も高くなるそうです。この性質により、美しく剛健な弓に仕上がるとのことです。

 江戸時代、数十あった「弓師」を束ねる「弓座」の中心だったといわれる柴田家ですが、明治時代になり弓の需要が激減する中で明治二十二年に宮内庁御用達となり、二十年に一度の伊勢神宮の式年遷宮での御神宝弓の制作を現在も続けられています。

 弓道界では「やっぱり弓は柴田の弓」と言われ、すべてが注文品だそうです。柴田勘十郎さんも「弓は作品ではなく、あくまでも道具です。使ってもらえるものを作りたい」と話されています。

 二十二代目長男の宗博さんは、アメリカで和弓の製作、宣伝活動に従事しています。世界中の弓との交流の中で、「京弓」を伝え育てる活動を行われており、注目を集めています。

 
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