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特集2 主権者として育つ-18歳選挙権-


●総論 18歳選挙権と主権者教育

                 浦野 東洋一(帝京大学)

 

はじめに

 憲法学者が憲法違反と断じ、人々が「戦争法案」と呼んだ法案―「安全保障関連法案」が強行採決され、成立しました。

 安倍晋三首相をはじめ政権党の政治家の言動、憲法や歴史についての認識をみていると、それら政治家の資質の「劣化」が急速に進んでいるように感じられて恐ろしくなります。

 しかしそれら政治家を当選させ、政権党に圧倒的多数の議席を与えたのは主権者国民です。選挙における投票率の低下、特に若い世代の目をおおいたくなる低投票率は、日本の民主主義にとって危機的です。

 資質が「劣化」した政治家も「棄権」する若者も、大きくみれば「教育の産物」といえましょう。教育学者である私は、その責任の一端を自分も担うべきだと思うと憂鬱になります。
 同時に、「戦争法案反対」のとりくみに多数の市民が参加し続けたこと、特に若者が立ち上がったことは、1943年生まれの私にとって未来への希望となっています。

 このような時期に18歳選挙権が実現しました。

 簡単に経過を復習しますと、①憲法の改正手続きに関する法律の一部改正(2014年6月20日)により、2018年より18歳以上の者が国民投票の投票権をもつこと。このことに関連して、②公職選挙法等の一部改正が行われ(2015年6月19日)、選挙権年齢が18歳以上に引き下げられました。来年夏の参議院議員選挙時には、投票権を持つ高校3年生が生まれることになります。18歳選挙権の実現は国際的に見れば当然のことであり、各紙社説も一様に肯定的に評価し、「主権者教育」「政治教育」の必要性を説いています。


18歳で急に主権者にはなれない

 注意すべきは、18歳になると急に主権者として行動できるようになるわけではないことです。幼いころからの発達段階にそくした「主権者教育」「政治教育」が必要です。

 私は、その中心に

① 憲法、子どもの権利条約を大人と子どもがともに学ぶ

② 子どもを中心に据えた参加と共同の開かれた学校づくりにとりくむ

③ 子どもを学校の主人公、地域の担い手として尊敬し、主権者としてトレーニングすること

がおかれるべきと考えています。そしてこのことは、教員や大人たちに

④ 「学校観」「子ども観」の変革を迫ることになる

と考えています。

 しかし明治時代以降の国の教育政策の伝統と教育界の現状にかんがみると、①~③の取り組みも、④の「変革」も容易ではなく、

⑤ 「政治の次元・政治力学からみれば『政治的中立』などはありえない」ことと、「国民の思想良心の自由を保障する『教育における政治的中立の原則』は、厳守すべき重要な教育条理・公教育の原理である」ことを、明確に区別して認識すること

⑥ 文部科学省は、高校生の政治活動を事実上禁止した1969年(昭和44年)10月31日付文部省通達「高等学校における政治的教養と政治的活動について」(いわゆる「44年通達」)を廃止して、近く「新通達」を発出します。日本国憲法、子どもの権利条約、諸外国の現状と「新通達」の内容を比較考察し、「新通達」を批判的に検討しあい、知恵を出しあうこと。そのさい、「教育論」として検討するだけでなく、「主権者国民の一員である教員の政治活動の自由」という視点からも批判的に検討しあい、知恵を出しあうこと、

が求められると考えています。


憲法・教育基本法と教育

 主権者教育・政治教育ということから、今後、模擬投票、政党の政策(マニュフェスト)の比較、事例を挙げながらの公職選挙法の学習などが高校で行われることになると思います。それはそれとして必要であり結構なことですが、まずは「憲法学習」を充実させ、「子どもの権利条約」を学習したいものです。

 私の勤務している大学1年生の授業で「日本国憲法の3原則」について聞くと、ほとんどすべての学生が「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義」と即答します。ついで「学生であるみなさんには、憲法を守る義務はありますか?」と聞くと、ほとんどの学生が「ある」と答えます。そこで私は、憲法第99条=「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」を読み上げ、日本国憲法が「立憲主義」に立脚していることを説明します。そして公立学校教員など公務員に採用されると「服務の宣誓」というのがあり、「日本国憲法を尊重し擁護すること、全体の奉仕者として誠実に職務を執行することを固く誓います」という趣旨が書かれた書面に署名・捺印して提出することになる、私も45年ほど前に「服務の宣誓」をしたことを話します。(日本国憲法が「硬性憲法」であることも、学生はほとんど忘れています)

 ところで、戦後改革で6-3-3制が採用されて、新たに中学校、高等学校を設置しなければならなくなりました。当時の文部省はそのガイドラインとして『新制中学校・新制高等学校 望ましい運営の指針』(1949年4月)を発行しました。そこには次のように明記されています。

 「新制中学校または新制高等学校に関係する教育者と一般の人とは、その学校の教育方針を、相当期間 にわたって研究した上で、これをたてなければならない。これをたてるには、校長も教師も生徒もその土地の人々もこれに参加することが必要である。」(8頁)

  「もし学校の機構が独裁的になっていれば、その学校の生徒は民主的生活について何の価値あること も到底学び得ないであろう。学校の管理は、校長・教師・事務職員・生徒・校舎管理係および一般の人を含む学校と地方とのすべての人の協力によってなされるべきものである。」(88頁)

 一部に「時代」を感じさせる用語がありますが、是非熟読していただきたいと思います。憲法と教育基本法から導きだされたこの「学校観」は、今日主張されている「参加と共同の開かれた学校づくり」のそれと同じではないでしょうか。私たちはこうした学校観に立ちきっているかどうか、自己点検をしてみる必要がありそうです。「憲法改正に反対する」立場は、「憲法を現実に生かす行動」に裏打ちされてこそより意味があると思うからです。


子どもの権利条約のインパクト

 日本国憲法と子どもの権利条約を引き合いに出すのは、単にそれが憲法とわが国も批准した条約であるからではなく、そこに込められている理念と価値が教育の条理に合致しているからであることを強調しておきたいと思います。

 教育を受ける権利を規定した憲法26条について、最高裁判所は次のように判示しています(1976年5月21日、大法廷判決)。

 「子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属する」

 「(子どもの教育は)専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものである」
 政府や財界や大人たちのあれこれの都合により子どもを教育的操作の対象として支配してはならず、教育はもっぱら一人ひとりの子どもの利益のために行われなければならない―憲法26条はこのように命じていると、最高裁は判断しているのです。ところで、人類の英知のあらわれでしょう、宣言のレベルにとどまっていた「児童の権利宣言」(1959年、国連総会採択)を法的拘束力をもつレベルに発展させるために、国連は1989年の総会で「子どもの権利条約」を採択しました。日本はこれを1994年に批准しました。
同条約は、遠くにある存在ではなく、日本の国内法であることに注意を喚起しておきたいと思います。

 宣言から条約への発展には、「主として保護の対象としてみる子ども観」から、「能動的な権利の主体としてみる子ども観」への発展がともなっていました。条約は「児童の最善の利益」を根本にすえて(第3条)、「意見表明権」(第12条)、「表現の自由」(第13条)、「思想・良心の自由」(第14条)、「結社の自由、平和的な集会の自由」(第15条)など、もろもろの権利を子どもに保障するとしています。

 私たちは実際に、一人ひとりの子どもをもろもろの権利の主体・独立した人格の主体とみなし、そのような存在として尊敬し、遇し、つきあっているかどうか。自己点検をしてみる必要がありそうです。


おわりに重要な二つのこと

 「開かれた学校づくり」という言葉は、国の政策文書にもしばしば登場しました。制度としては学校評議員制度、学校運営協議会制度(コミュニティ・スクール)が導入されましたが、そこには子どもがいっさい登場しません。地域に学校支援本部が設けられてさまざまな事業がなされていますが、企画の段階から子どもが主体的に参加・参画することはほとんどありませんから、子どもにしてみると「なんだか仕事や課題が増えてしんどいな」ということになりかねません。

 これに対して三者協議会と学校フォーラムを軸に、子どもを中心にすえて「開かれた学校づくり」に取り組んでいる長野県辰野高校―私の研究のフィールド校です―の実践は、前述した「学校観」「子ども観」に立脚するものとなっています。憲法と子どもの権利条約を現実に生かす取り組みになっているということです。

 その中で生徒たちは、校則問題をはじめさまざまな学校の課題にとりくみ、学校を変えています(学校の担い手/学校の「主権者」としての行動)。住民と交流しながら、さまざまな地域の課題にとりくんでいます(地域の担い手/地域の「主権者」としての行動)。その経験は間違いなく「国の主権者」を育てています。

 最後に、原発問題にせよ安保法問題にせよ、政治の次元においては「中立」はありえないこと、たとえば「沈黙すること」も政治力学的に見れば一定の政治的役割を果たす―たいがいは権力の側を支持する役割を果たす―ことは明白でしょう。政治教育について定めている教育基本法第14条にも、「政治的中立」という用語は出てこないという事実に注目していただきたいと思います。

 これに対して、教育の次元における―つまり教育実践、教育内容・方法における―「政治的中立の原則」は、子どもと国民の思想・良心の自由を保障するために不可欠の、厳守すべき公教育の原理です。そして、ある教育実践がこの原則に反しているかどうかを見定める基準は、その実践が教育条理に立脚しているか否かであり、それ以外には考えられません。欧米では、授業の中での教員個人の政治意見の表明も公然と認められており、そのルール(教育条理に立脚した共通理解)も確立しています。この重要な問題については、別途論じたいと思います。最後までお目通しいただき、ありがとうございます。


 
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