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■特集テーマ 2 子どもは人間らしく育っているのか

ヒトは群れの中で人となる



                  山本 健慈(国立大学協会専務・和歌山大学前学長)
   本稿は、2015年6月27日京都教育センター学習会においての講演を「ひろば」編集部の責任で編集いたしました。 
 

1.自己紹介


 3月まで和歌山大学長を務めておりましたが、今、国立大学協会で専務をしております。私は10年間京都で勉強し、和歌山に行き、住んだのが大阪の熊取町で、自分の子育ての関係で無認可アトム共同保育所の運営にコミットしました。2009年に学長になりまして、5年と8ヶ月ほとんど学長職のみに専念しておりました。京都の関係でいうと、67年に京都大学に入学しまして、大学院生時代から京都教育センターに参加させていただき、京都の皆さんに育てていただきました。


2.社会教育から保育・子育て支援へ

私のやってきたことを紹介します。これは親として出会うのですが、無認可のアトム共同保育所でした。これは熊取にある京都大学原子炉実験の職場保育所として設立されたもので、京大の朱い実、風の子の姉妹保育園です。今は2つの保育園を経営する300人近い子どもがいる法人の認可保育所になりました。そこは子どもが集まっているだけではなくて、「大人(親、保育士)も育ち、子どもも育つ」組織になっています。家族・親と子ども、保育士・教員と親や子どもの関係が根本的に改善されなければもう先はないという中で、1つのモデルとして提供したものになっているかと思います。

 1996年に読売新聞の大阪本社版にアトム保育所の中心である市原(現社会福祉法人アトム共同福祉会理事長・京都風の子で保育士をスタート)と私で連載したエッセーがあります。それはのちにかもがわ出版から出版しました。その一節に「保育所の5年間、親と子の育ちに同伴していると、『人生が見える』と感じる時がある。その子がどんな時、どんな場面でつまずくか…。だが、問題に見える行動も、大人がていねいに対応すれば、個性として育つ」と書きました。「人生をみる」、ここが大切です。


3.東京の風景で見えること

 5月から暮らす東京で見える風景は、大阪や和歌山から見えていた風景とはちがうと感じます。東京は日本じゃない、異国があるという感じです。保育所はビルの一室、小学生も早朝の地下鉄で私学に登校。幸せなのか、不幸せなのか。人としてはたして育つのか。そんなことがあたりまえになっている。東京からものを見ていると日本の流れができれば、どんどんと日本はいびつになっていく。しかし、この風景のなかで多くの人間が育っていっている、

 今、教育改革で、入試をどう変えるかという議論があります。8月末には方向を示す中間まとめを提出し、今年内には平成32年度からの段階的実施の制度設計を確定するといっております。これまでにも共通一次とか、センターテストの制度をやってきましたが、それなりに5年、10年と準備を重ねてやったのです。ところが今進行中の制度設計は、多方面からの疑念にもかかわらず、また実務的な困難が想定されるにもかかわらず政治の主導、その政治に保障された一部有識者の一方的ともいえる采配での制度設計が進行しているのです。

 大学改革もしかりです。私がいま職務上多くの関係審議会の傍聴をしていますが、審議会での良識的な議論とは別なレベルで「改革プラン」が作成され、政策化され実行されていくように見えます。86の国立大学の集合体である国立大学協会は、いま、そしてこれから何ができるか正念場だと思っています。


4.大学生から考えたこと

私は38年間、大学生を見てきました。確かに入学試験は立派に合格して、とくに国立大学であればかなりの水準の進学校の学生が入ってくるわけです。しかし、エピソードがたくさんあって、他人と話ができない。わからないことを他人に聞くことができない。自己紹介させると名前ぐらいしかいえない。次の言葉が出てこない。ある学部では自己紹介シートを先生がわざわざつくってやってやらないとしゃべれない。

 入学手続等を親が代行するというのは少なくありません。書類は全部親が書く。センターテストの際に、親が選択科目を記入したらしく、受験生本人の選択の意識と違っていたというエピソードもありました。また親から、大学に行きづらいので友だちをつくってやってくれないかいう相談もある。学生同士のトラブルが家族同士のトラブルになり訴訟までになる。本当にそういうことが起こっています。入学式には、多くの親が参加しますので、式辞のなかに「お子さんの自立のために諸手続きを親がしないように」というメッセージを組み込むようにしました。そしてそれが実に効果あったのです。


5.和歌山大学の決意

 和歌山大学では私の学長のときのスローガンは「和歌山大学は、生涯、あなたの人生を応援します」。<生涯>というと卒業後の支援のことを考えるのですが、私はそれ以上に「入学前の18年のツケも含めて応援する。みんなツケを背負って、大学に入っているので、このツケもわれわれ教育する側の課題にしよう。これをしっかりやれば大学の信頼が高まる」と。それを教職員全体の認識にするために「教育活動宣言」というのをつくり、学生への約束という形式で発表しました。「本学に入学した学生の多様な思いを深く理解します。」これが第一節です。どういう教育をするのか、がんばってやっとたどりついた人、いやいやたどりついて早くやめたいと思っている人、悠然とたどりついた人、合格した、入学したといっても一様ではない。いろいろいるので、それを全部受け止めて、われわれが教育しますということが大前提になる。そういうふうな理解で「生涯 あなたの人生を応援します」と言っています。実は私は学長になる直前に、事実上最終の講義で、学生への授業で「私も長年、<教育とは何か>と考えてきたけども、結局、教育というのは、皆さんが自らの幸福の実現を自分自身で追求できる主体になるように応援すること、すなわち皆さんの人生を応援するというのが教育の根本的な目標であり、基本なんだ」という話をしたのです。ところが学生の反応は、「学校生活で、人生の応援してもらっているという気持ちになったことはない」。これが大多数でした。

 教職員は、学生に対して個性的で多様な方法で講義をし、また仕事をしてもらっていいのですが、その実践の奥底に目の前の学生の人生を応援しているという意識がなければならない、それが教育だ。いろいろとやり方は多様であってもいいし、人によってやり方もちがう。人生の幸福とは何かということも人によってちがうわけですから、率直に自分の幸福感を述べて、「僕はこう思うから、こういうふうに応援します」ということを伝えるのが教師の仕事だということを繰り返しいいました。
そうしたら、職員は本当に変わった。親から電話かかってきたら1時間でも2時間でも話を聞くわけです。仕事は渋滞する、職員にとっては業務妨害に等しい、ストレスもたまる。そんな職員の交流会を年1、2回ぐらいやり、愚痴を聞き、経験交流会をするのです。

 若い職員は「親がけしからん」と、モンスターペアレント、ヘリコプターペアレントだと。子どもの周りをぐるぐると回っていて、急きょ何かあると急降下して、クレームをつけたりする。若い職員はもうへとへとになっていますので、「親はけしからん」というようなことをいうのですが、年配課長が「いやいや、親の人生を応援するんだよ」とか私がいいたいセリフを先にいってくれたりするようになる。これが組織というものの強さです。みんながそういうことが大切だということを実感する、失敗もあるけれども、それはいい経験だと共有する、そんな気風が浸透していけば、楽しく強力な職場、組織になる。実はこういう大学生とのつきあいとか、経営者としての組織論を教えてくれたのは、実はアトム共同保育所でした(拙著『地方国立大学 一学長の約束と実践・・和歌山大学が学生、卒業生、地域への「生涯応援宣言」をした理由(わけ)』 高文研 2015年2月刊)。


6.保護者・親世代について

 今、子育てや教育への対応で一番注目すべきは、親たちがどういうふうに焦りに似たような行動に出ざるを得ないか。親は何に怯え、わが子に必死なのかを考えることが必要だと思っています。1年生のお母さんをみたら、自分の子どもの心配と自分の心配が重なっているということがみてとれます。いじめが起こってからもう30年、40年が経っているわけですので、そのことを小学校時代に親自身が経験していて、いじめられた、いじめたか、いずれにしても深い後遺症をもっているので、わが子を小学校みたいな危ない所に入れることに不安と恐怖があるのですが、隣のお母さんもそういう不安をもっているということはなかなか認識できない。自分だけがそうではないかと思っている。

 熊取町で調査(2009年)をしたときは、橋下大阪府知事が学力テストでがんばるといって大騒ぎをしていた時代です。就学前の親の調査で、今子ども達に一番身につけさせたい力は「基本的生活習慣」が261人(41.2%)、それを上回るのが「人と関わる力」324人(51.1%)、人間関係です。学童の親はもっとはっきりしていて、「学力」は10%ぐらいしかなくて、一番身につけたい力は「人と関わる力」です。これはまさに親が人生の力として子に何を身につけてさせようかということと重なっています。それは親自身の不安の表現でもあると解すべきでしょう。


7.保育・子育て支援で考えたこと

 「人と関わる力」というのは、道徳教育でも教科書でも学べることではなく、これはきわめて単純で、同世代の関係、上下のトラブル、大人とのトラブルなど、さまざまな人間関係を経験することが一番重要だと思います。人間関係のトラブルを経験するために何が必要かというと<群れ>がなければいけない。集団ではなく<群れ>、集団というのは何か統制されているというイメージがあり集団という言葉は使いません。

 もう1つ重要なのは、トラブルに直面すると感情がおきる。苦しい、楽しい、うれしい、悲しい。この感情を徹底的に大切にする。あるいは記憶する。あるいは自分の心地よい場面が、他者にとっては苦痛であり、悲しみであることもあり、それを記憶していく。これが人間関係の基本だと思います。

 このことを描いたのが2003年のNHKスペシャル(『裸で育て君らしく・・大阪・アトム共同保育所』2003年7月6日放送 NHK出版の同名の本を参照)です。やんちゃな子とおとなしい子がトラブルを起こして、やんちゃな子が暴力を働いた。やんちゃな子同士がお互いに延々といがみ合っている。なぜか全員からなかまはずれにされる女の子がうまれる。これは群れがあれば当然で、それを「なかまはずれにしてはダメです」とかいっても、それは排除する根拠があるわけです。そのことをどうするかという問題を、子ども同士で、各自で徹底的に考える。保育士や親は、その過程に同伴する。

 やんちゃな子同士も常に毎日、毎日、繰り返すので、どうすればいがみ合いしなくてもすむのかということを自分たちで考える。あるいは、やんちゃな子がいつもおとなしい子を殴ったりするのですが、それをおとなしい子が悲しんでいるということを、どのように身にしみてやんちゃな子に考えさせるか、こんな場面で保育者はどう介入するか。その介入によって、5歳のやんちゃな子は非常に悩むわけです。痛切に悩みます。その日の夜に「僕生まれてこなければよかった」とお母さんにつぶやきます。それは自分がトラベルメーカーで毎回、注意されるわけですから、トラベルメーカーであることを意識せざるをえない。それを繰り返す自分が情けない、ということのつぶやきであるのです。

 もう1つは、これをお母さんがどう受け止めたかという問題があります。私は若いお母さんたちに「僕生まれてこなければよかった、と自分の5歳の子どもがいったらどうしますか?」って聞くと、多くの親は「保育所に文句をいいに行く」「あなたが生まれてうれしかったと説明する」…とか、お母さんたちはいうのですが、このお母さんは「わが子が深く悩んだということが一番の重要。注意されるだけでは変わらない。悩まないと彼は変わらないと思っていた。この悩む場面をつくってくれた保母さんに感謝している。でもこの悩みを一人で抱え込むのは辛かろう。『僕生まれてこなければよかった』とつぶやいたのはとてもつらいことです。そのつらいということを受け止めるが私の役割で、だからこうしなさい、というのは私の仕事ではない」というようなことをいわれています。

 また、私は<語り合い共同学習>といっていますが、わが子とさまざまなエピソードを中心に、親と当事者教員が繰り返し、その子どもはどんな人間であるか、その子どもの幸せはなんであるか、ということを語り合うということが一番重要ではないかと思っています。

 私は今、保育所とか幼稚園にはさまざまな状況がありますが、何かが学べるとか、何かを教えるという場所になるのではなくて、ヒトが人間になるための基本的な条件であるための<群れ>ができているか、ということが一番の価値。とにかく今、ヒトが群れられる、幼い動物が群れられるのは幼稚園と保育園しかない。家族にも地域にも<群れ>はないわけです。<群れ>をまったく体験していない幼い動物が、管理された保育所・幼稚園に入るというのは非常にストレスでもあるし、訓練されてないものですから、いろいろトラブルがおこるわけです。そのせっかくのトラブルをまた保育者、教師、親が管理してしまえば、せっかくトラブルを経験して、ヒトが人間化のためのプロセスを奪い去る。

 結局、学校というのは、ヒトが人間化されるプロセスを経ていない動物を、小学校に入学させるというふうに思えば、人生5年間やってこなかったこと、積み残しをおそらく小学校でやらないといけないと思っています。それでいうと保育所・幼稚園・学校の役割というのはそういう意味では非常に重要です。


8.おわりに

 日本の高等教育は、いやいろんな要因で、<人を人間として育てる>という意味において衰弱しつつあります。理工系の「人材」の養成に集中し、人文・社会科学系、税金を投入する価値がないというふうにいっています。教員の養成現場もまったく私学依存が広がっていて、国立は教職大学院にして、幹部教員だけを養成する、一般の教員養成は、私学でいい、そこでの教員の質の心配があるので、教員資格の国家資格化によって水準を担保する、そんな構造が、透けて見える。
問題は、全体の計画の見通しの合意がないまま、各セクターが競い合う。結局、競い合っていますので、体力のないところから衰弱して死んでいくし、国全体の財政上の管理する側からすれば、だんだんと疲弊し死んでいっていただければ、数が減り大いに結構ということになると思います。このままいけば体力のない地方の国立大学は衰弱死するというので、いま国立大学経営に外部から参加する「経営協議会学外委員」のみなさんが、和歌山大学をスタートに、もっと国立大学、日本の高等教育の在り方の社会的議論が必要だというアピールを出し始めています(6月末現在21大学)。これには文部大臣経験者、事務次官経験者、地方の財界人まで名前を連ねておられる。

 日本の教育のために、それぞれポジションで、それは多様な方法で取り組まなくてはならないと思います。私もなんとかがんばりたいと思っています。

 
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