トップ  ひろば一覧表  ひろば183号目次 
早川幸生の

京都歴史教材 たまて箱83 −ちまき(粽)−
花脊の笹で、魔除けから食物の包装まで


           早川 幸生
   「ひろば 京都の教育」183号では、本文の他に写真・絵図などが掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」183号をごらんください。  
 

――「粽」その一(食べられるちまき)――

 五月になると、床の間に「武将図」の掛け軸と、三宝の上に素焼の「かわらけ」が出ます。そして五日の朝に「粽」と「柏餅」が乗せられ、夕食後に家族全員(七人)で上手に分けて食べていました。

 最近知ったのは、「粽」は中国の故事に因んだ伝来のもの、「柏餅」は端午の節句として盛んになった鎌倉時代に「武士の世の中」に「尚武」と「菖蒲」を関係づけたことと、菖蒲の香りが魔除けとされたことや、葉の形が刀に似ていることで端午の節句に重要視されたことと同様に、日本独自の風習として「柏餅」が定着し、現在に伝わっていることです。

 それは、柏の木は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから、「家系が絶えない縁起物」として武士のみならず民間にも拡がったようです。庭に立てる鯉のぼりも日本独自です。

 歴史的には「粽」の方が古いことが分りました。もう一つは、五月頃になると必ず耳にする大正時代に発表された歌です。『鯉のぼり』『茶摘み』同様昔から歌われている『背くらべ』の中に「粽」が出てくるのです。

 「柱のきずはおととしの、五月五日の背比べ。ちまき食べ食べ兄さんが、計ってくれた背のたけ。昨日比べりゃ何のこと(後略)」

 粽が歌詞に出てくる歌がたいへん少ない中、歌詞といい、メロディといい、とても印象深い歌です。ただずっと気にかかっていたことがありました。それは歌の中の「おととし」という部分です。そこで調べてみると、作曲・中山晋平、作詞・海野厚であること。そして作詞した海野厚の家族を想う歌だったのです。

 七人兄弟の長男だった海野厚が、十七才年下の末弟春樹少年の背たけを計ったことで弟の成長と故郷をなつかしんだ歌詞です。

 旧制静岡中学卒業後、早稲田大学に進学。俳句や童話を志し「赤い鳥」の北原白秋に認められ、後に中山晋平と「子ども達の歌」を出版し、児童雑誌の編集長も務めました。

 しかし海野厚は、病弱気味で生活は苦しく、故郷の静岡に帰れない状況でした。「弟はどうしているだろう。二年も故郷に帰っていない。末弟春樹の背たけを計ったのもおととしのこと。弟は元気だろうか。会いたい。母の手作りの粽も食べたい・・・」という想いがいっぱいつまった歌だったのです。

 海野厚は志半ば、結核のため二十八才で死去します。一九二五年五月二五日のことでした。


――「粽」その二(食べられないちまき)――

 京都では、年に二回「粽」に出会う機会があります。それは、端午の節句・子どもの日の食べられる「粽」と、セミの鳴き始める初夏です。

 七月になると、京都の街がそわそわします。「コンコンチキチン、コンチキチン・・・」

 祇園祭のお囃子の音が鳴り始まります。昨年から「大船鉾」の復活もあって、前の祭りと後の祭りの二日実施になりましたが、今から六〇年ほど前は、毎年前・後の二日実施の山鉾巡行でした。前の祭りは四条通から寺町を北上し、三条寺町を辻廻しで西向きに左折し、三条通を西に進むのでした。

 父との山鉾巡行のお勧めポイントは、牛鍋で有名な「三嶋亭」の前でした。当時は巡行途中のポイントポイントでの「粽まき」も実施され、特に山鉾の進行方向を変更する「辻廻し」の場所では、どの山鉾も多くの「粽まき」をするのでした。

 また、巡行路に面した寺町通の各家は、二階の窓を全てはずし赤い毛氈などをかけ、親戚や友人、お得意さんを招いて祭りを楽しむのでした。山鉾の囃子方の位置と、各商家の二階がほぼ同じ高さで、辻廻しのために停止した鉾に各家から何本もの虫捕り網が差し出されました。中には冷えたラムネやサイダー、ジュースが入っていました。粽との物々交換の意思表示でした。たまたま竹竿や虫捕り網が届き交渉が成立すると、僕の見上げるはるか頭上で、鉾から粽が二階の軒先へ渡るのでした。いくつかの鉾を見送り、また最前列で辻廻しを見ていた僕の前に、ポトリと粽が落ちてきました。幼稚園児だったので背が低く、大人の人よりいち早くかがんで粽を拾えました。

 「お父ちゃん、粽拾えた」「よかったな」。家に持ち帰ると、父はすぐに玄関に粽をくくりつけ、飾りました。

 「あの粽食べへんの」「あれは家のお守りや。中には何んにも入ってへんのやで」

 祇園祭の粽が食べられないのを知ったのは、この時が初めてでした。

 十数年が経ち、他府県出身の友人と祇園祭の宵山に出かけました。彼にとっては、初めての宵山そして山鉾巡りでした。鉾町を訪れると、町会所から子ども達の声が響きました。

 「厄除けの、ちまきどうですかぁ」

 先を争って買い求める観光客を見て、「俺もちまき買ってくる」と友人は人ごみの中に消えました。次の日、開口一番彼の口から出たのは「昨日のちまき、中に何も入ってなかったぞ」の一言でした。


――粽は「茅巻」または「千巻」――

 こんな話が伝わっています。昔、須佐之男(すさのおの)命(みこと)という神が日本中を旅した時、親切にもてなしてくれた人々に、「悪い病気が流行した時には、茅萱(ちがや)の輪を腰につけなさい」と教えたことから、粽は「茅巻」と表すようになり、病気を防ぐお守りとして茅萱の輪のかわりに「粽」がお守りになったという話があります。

 また、ある説では、五月の節句の粽同様、笹や茅萱、菰やあやめの葉で何度も何度も巻くことから「千巻」と呼ぶという説もあります。

 それを今のように笹の葉に変えたのが、京のお菓子屋さんであったといわれています。


――御ちまき司「川端道喜」――

 粽の歴史はさかのぼること、平安前期までといわれ『倭名類聚抄』という書物によると、「菰(まこも)の葉で巻く」と書かれています。実際には茅萱をはじめとして、多くの植物の葉が用いられたらしく、それを初めて笹の葉に変えたのが、初代の川端道喜だといわれています。宮中に献上する粽として、吉野の葛をおいしくする方法を工夫するうち、京都のネマガリダケの葉の繊細な美しさとその香りの高さから、笹の葉を使うと葛のような柔らかいものでもうまく包めることに気づいたそうです。乾燥したネマガリダケの葉を湯がくとさっと高い香りが立ち、これに葛をのせて包みイグサでしばるそうです。

 川端道喜の店先には、写真のような暖簾がかけられています。店で頂いた由来記の一節を紹介します。

 暖簾の「御ちまき司」の「御」の字は、禁裏御用達を意味し、「司」の字は、帝御(天皇)好みの粽を製作する役目であることを意味しています。

 明治になり、東京遷都に伴い明治天皇や宮内省はじめ有力者の勧めを断り続けました。その上、明治政府の東京遷都に反対する嘆願運動にも名を連ね京都に残ることを決意したのです。川端道喜では初代から十六代の現在まで、この伝統的な粽を作り続け、日本古来の粽を今に伝えています。


――笹の種類と効力のあれこれ――

 食べ物と笹の関係を思い出してみると、五月の節句に食べる粽をはじめ、生麩をくるんだ笹巻などの和菓子類があります。また笹を使った鱒や鯖の押鮨も有名ですし、小鯛の笹漬けも大好きな人が多いようです。また昔は酒をつくる樽にも、笹で蓋をしたとか笹の粉を入れたなどという話も聞いたことがあります。

 笹の葉は古くから、その美しさと香りの良さ、また昔から経験として得た笹の防腐作用などにより、人々に利用され愛されてきました。京都では、地域的には特に北山に自生するクマザサ類がなじみ深いものになっています。


――クマザサは「熊笹」ではなく「隈笹(くまざさ)」――

 粽を追いかけるまでは、幼い頃からの先入観もあり、クマザサは熊が食べるということから漢字は「熊笹」だと信じていました。でも本当は、秋に葉の緑の部分が黄色がかった白色に隈どられることから「隈笹」と書くのが正しいのです。

 粽に使われる笹は、八月下旬から九月いっぱいにかけて、鞍馬、花背、百井、別所等の周辺の山で刈り取られます。それをすぐに山の冷気の中で乾燥させ保存しておきます。そして使う直前に水に漬け、新鮮な緑の葉にもどすのです。

 これらの作業は、従来からすべて上賀茂一帯の農家で行われています。そして次の年の六月下旬になると、一斉に縁起粽づくりが始まるのです。

 前述したこれらの地域の笹は、チマキザサやネマガリダケなどの繁殖力の強い種類が大半を占めています。他に京都でも日本海側には、チュウゴクザサがあり、市内左京区の比叡山の奥には園芸用に好まれるミヤコザサという種類の笹もあります。

 これらのうち粽などの食品に、最も多方面に用いられるのが、チマキザサです。葉の幅が広く、裏に柔らかい毛が一面に生えているのが特徴で、四国・九州・本州そして北海道にかけて広く分布し、特に新潟県に多く見られるそうです。

 その関係でしょうか。北陸名物の笹団子や笹飴、鱒鮨などはこのチマキザサで作られています。


 
「ひろば 京都の教育183号」お申込の方は、こちらをごらんください。
トップ  ひろば一覧表  ひろば183号目次