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特集2 地域で子どもを守り・育てる

地域での子どもの活動と子どもの主体性


       棚橋 啓一(子どもの発達と地域研究会)
 

1、 地域社会と子ども

 子どもは毎日、地域の自然や地域社会の中で生活し、遊び、学び、しごとをしている。そしてその中で成長し発達を獲得している。子どもは目を輝かして周囲を見つめ、周囲からどんどん学びとり、いろいろな力を身につけ、片時も休まず発達している。誰かに強制されたからではない。発達は子ども自身が主体的に獲得するものである。

 人間はもともと「学習型(体外情報型)の生きもの」であり遺伝的には継承できない人間の文化を周囲から学びとる活動が活発である。だから子どもはもともと“知りたがりやでやりたがり”である。発達のまっ最中であるからじっとしていない。

 ところが子どもが学びとろうとする周囲の地域社会は今、経済中心の活動が大きく広がり、娯楽場や遊び道具、学習塾などの宣伝があまりにも多く、子どもを営業のレールに引き込もうとする動きがあまりにも激しい。また、ケータイやスマホなどがさらに子どもを情報過多の状態に追い込んでいる。これでは子どもたちは「本もの」体験の機会が少なくなり、疑似体験ばかりが多くなる。そうすると人間本来の発達の筋道に混乱が持ち込まれ、子ども自身が困ることになる。

 また、大震災のあとに大きな問題として改めて関心が高まっていることであるが、地域住民の日常的な人間的なつながりについてである。子どもたちは日常的に地域の一員として、地域の人達と関わり共同の活動をしているだろうか。特に都市部ではこの点は弱くなっているように思われる。地域の子どもの利用する施設の清掃など日常的な管理などは、子どもたちを含めて話し合うなど、子どもを社会の一員として大人と共に考え行動するという地域社会の在り方が必要なのではないだろうか。(後に実例として挙げる「ちびっこプールの清掃」参照)

 昔からの地域行事、“まつり”や“娯楽会”で、子どもや青年が年配の人達と一緒になって活躍している例はあちこちにある。少数の人が支配的な運営をしている場合は問題であるが、話し合いや共同がだいじにされていれば、このような場でこそ、子どもたちは人間の真実、つながりやズレ、共同・分担、譲り合いなど、“本もの”の人間関係を学び、地域社会を知り学ぶ、そして自分なりの人間観を作っていくのである。子どもは学校、勉強がだいじ、と、子どもを地域社会の活動から引き離す方向は、不自然な方向のように思われる。


2、 子どもの発達と集団の質

 子どもも日常の生活の中でいろいろな集団に所属している。家族、遊び仲間、近隣の友達、学校、クラスメイト、クラブや習い事の仲間などなど多種多様である。出入りの自由な遊び友達のような集団もあれば、“こうするのだ”“これはだめ”と枠の堅い集団もある。そして子どもはその時その時の所属している集団の様子に対応して行動しているのである。

 子どもが幼い場合、集団の全体像が認識・理解できないので、近くの仲間の動きなどを見て学びながら行動しているのであるが、成長発達するに従って自分と周囲との関係や集団全体のことを考えるようになる。その時、「ここではこうするのだ」と決めつけられる集団では、子どもはあまり考えず、周囲の動きに従うことが多い。「この友達はどうするのかな」「みんなは(集団は)どう動くのかな」など考える必要も無い。従ってそういう所では、一人一人の子どもに社会的な認識、一人一人の主体性なども育ちにくい。

 しかし、遊び仲間などのような柔軟な集団では、多くのことを自分たちで決める。また“〜〜をする集団”と外の力で作られたのでなく、自分たちで作った集団は、自分たちで活動の方向を決める。決めなくては活動が始まらない。決めたあとも自分たちの力で実行しなければならない。そういう集団にいると、当然一人一人の主体性が育つ。仲間とのつながりも強くなる。そして集団自体も自立的であり、活動が活発になると集団にも主体性がしっかりしてくる。他の力に寄りかからないのである。

 ある母親が「子どもの意見をきいている家族を見て驚いた」と言うのを聞いたことがある。この母親は今まで子どもには指示を与えるものだと思っていたので、驚いたのである。日本ではまだまだそれが当たり前だと思っている人も多いのではないだろうか。それは「子ども」と書くとき、「子供」と書く人がまだまだ多いことにも現れている。「供」という字は「お供え(おそなえ)」とか「お供(おとも)」というように、付属物とか下位に位置づけるときに使う文字である。

 人間一人一人の尊重、人間お互いのつながりの尊重などを子どもの身につけようとすれば、そのような集団で、みんなと一緒に生活し活動することが必要である。相互に交わされる会話や一緒に仕事や活動を進めるときの動きなどを見聞きするうちに、子どもの身につくのである。しかし、地域社会にはまだまだ古い上下関係が強く残っているので、それが絶えず集団に持ち込まれる。それで「人間の尊厳」「一人一人の尊重」が集団のメンバーの認識となるような取り組みも忘れてはならない重要な活動である。


3、 子どもと大人とのかかわりと発展

 地域で子どもたちと大人たちが、他から言われてではなくて、お互いが主体的に集り、集団として活動し、それが発展して行った実例をもとにしながらそこに見られる幾つかのポイントを挙げ、このような取り組みの軸になる視点や動きを取り挙げてみたい。(『ちびっこプールの掃除』『子どもがつくる“子どものまつり”』−「京都発、地域で生き生き!輝く子どもたち」子どもの発達と地域研究会・京都教育センター刊に紹介)

(1) 子どもの要求とその具体化

 子どもたちは何かやりたいと思っているが、具体的にならないことも多い。幼児用のプールで遊ぶ子どもたちを見ている4,5人の小学生に、「毎日のプール掃除をしないか。そしたら水と遊べるね」と声をかけると、どこかで相談をして戻ってきて「掃除をする」との返事。暑い!水と戯れたいのだ。

 小学生数人が遊びに飽きておしゃべりをしていた。私があちこちの“子どもまつり”の楽しさを話し、「ここでもやらないか」と声をかけた。軸になる子どもはかなり迷い考えていたが、みんなで「やる」ということになった。

(2) 話し合いの場

 先の二つの例でも、どちらも“声かけをする”“考える”“相談する”という経過を経ている。そこで集団が作られていくのである。また押し付けるのでなく、子どもたちが考え話し合い決定している。子どもが主体的に決定している。子どもの主体性が重要である。子どもが受動的では全く集団活動の質が異なる。出発点、基本的在り方が重要である。

(3) 柔軟さ

 お互いの柔軟な話し方が、自他の尊重(民主主義)、自由な気持ちでの発言の空気を作り出す基盤になっていた。柔らかい雰囲気が口数の少ない子どもの発言も引き出した。相手の考えを尊重した話し方や、他人の考えも総合した意見が言えるという子どもの変化は、子どもの発達であり集団の発達である。

 「フェンスのこの錆び、どうしたら落ちるかな」「この枝は切った方がいいのでは」とか「まつりの受付を作ろう。私がやる」「私も」と、子どもの思いは今までの枠の中に留まってはいなかった。

 プール掃除に参加の子どもが増え、母親たちまで参加し、幼児プールの楽しい行事を作るまでに活動が広がった。“まつり”に前日になって母親たちが、餅つきで参加すると申し入れがあり当日も“まつり”に大きく花を添えた。

 堅い集団や堅い雰囲気では、このような発展は起こらなかっただろう。

(4) 年令集団、異質の集り

 年令や経験の異なる子どもたちの集りは、お互いの貴重な学びの場であり、多面的な経験の場を作り出す。お互いの存在の重みを感じさせる場でもある。年下の子どもへの配慮は無理なく自然な形でされていたし、対立やきしみなど起こらなかった。かえって質的に豊かな集団になった。

 大人の参加も質的な高まりを作った。子どもだけでは遊びの段階から大きく出なかったのではないだろうか。この二つの活動は、子どもたちに文化を伝える活動でもあった。話し合い、会議の運び方などについても子どもたちは多くを学んだと思われる。

(5) 大人の役割

 大人の存在は(4)の意味もあるが、それとは別に、社会的な責任があるという点を曖昧にしてはならない。経費や活動の場の問題は、直接表に出て活動に参加しない親も同様である。

 また親の会などを持ち、子どもたちの様子を話し合い、周囲の子どものことにも理解を深めることや、子どもについての理解、認識の学習を進めたり、子どもたちの活動について意見を出したり、時には直接行事に参加したりすることも必要である。

 ◇今まで述べてきた中にも書いたように、現在の日本の社会には、まだまだ古い人間観が広く存在しているので、人間一人一人が独立した重い存在であることを基礎にしたものの見方、考え方、行動の仕方を確立する課題が、我々には課せられている。

 「学校に子どもを合わせるのでなく、子どもに合った学校を作る」という言葉が、障がい児のための学校を作ろうという時によくきかれたが、それは障がいのある子どものことに限らない重要な視点である。そして学校だけでなく、地域も、子どもが生き生きと育つ場を作り、子どもの発達を保障すること、そして子どもと一緒にみんなが生き生きとする集団を作り、活動を活発にすることが、今、求められていると思う。

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