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早川幸生の

京都歴史教材 たまて箱82 −花鎮め(はなしずめ)−
散る花に豊作と無病息災との願いをこめて


           早川 幸生
    「ひろば 京都の教育」182号では、本文の他に写真・絵図などが掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」181号をごらんください。 
 

―― 一枚の絵との出会い ――

 昭和五十八年(一九八三)に、二つ目の勤務校として、伏見の羽束師(はずかし)小学校に着任しました。創立十年目を目前にした若い学校で、学校創建時の発掘調査で「長岡京左京三条三坊」であることがわかる道や祈とうに使われた「土馬」や土器等が出土したという、歴史環境に恵まれた学校でした。

 始業式・終業式等儀式的行事は、体育館で行われるのが常でしたが、児童が見上げる舞台の右側の壁面に大きな油絵が掲げられていました。近づいて見ると「花しずめ」という題が付けられ、古川俊三氏作で昭和五十六年十二月二十三日寄贈された絵であることがわかりました。花傘をかぶり小傘を手に、数人の青年が舞っている、春の季節感溢れる作品でした。作者は、地域の羽束師神社の宮司、古川俊三氏で、伏見区を中心に小学校の教員もしながら画家を目指し、芸術活動をされていたことを知りました。

 今回の「花しずめ」執筆のため、二十五年ぶりに羽束師神社を訪れ、息子さんである現在の宮司さんにお話を伺いました。

「現在も『花しずめ』や『風しずめ』という言葉や神事があります。父は地域の神社の宮司として、人々の健康や田畑の実りを祈念して画材に『花しずめ』を選び描いたことは、十分に考えられます」と、写真を見つつ話してくださいました。


――二つの花祭り――

 春四月といえば、昔から「花咲く四月」と呼ばれ、桜をはじめ数多くの種類の開花が始まります。春を待っていた人々の、目と心を癒すだけでなく、自然界の昆虫や鳥、動物たちも花粉や蜜等を大切な食料としての花をそして実を、待ちこがれの春として迎えました。

 各地の春の行事(社寺の祭り等も含む)に「花の祭り(花祭り)」がありますが、実は二つの種類の「花の祭」があるのです。

 一つは満開に咲いた花を神前等に献花する「花祭り」と、もう一つは、花の散る時期に活発になる御霊(おんりょう)や、病いを振りまく疫神(えきじん)を鎮めるために行われる「花祭り」です。

 献花祭の「花祭り」は各地に多く見られ、季節柄参拝者や観光客も多く、子どもたちが参加する稚児行列や稚児舞等の行事も加わり絢爛豪華になりました。満開の花は米の豊作を予感させ人々は喜び合いますが、花が散り始めると心配になったようです。

 そこで「花鎮め(はなしずめ)祭り」を行いました。満開の花の散る様は、稲の花が飛び散って結実せず凶作に繋がるとし怖れました。霊力をもつ花が散ると御霊や疫病神が活動するのだと考えたのです。

 「花鎮祭り」はもともとは宮中の行事でした。奈良時代以前に定められた大宝律令(七〇一年)に「季春(すえのはる)」の、国家による祭りとして定められており、奈良県三輪大社と侠井(さい)神社で行われていました。花を稲の花の象徴として考え、受粉して結実しないうちに散ることがないように「やすらえ(ゆっくりせよ)花よ、やすらえ花よ」と祈りを込め呼びかけたのでした。


――やすらい(夜須来・夜須礼・安良居)祭り――

 奈良時代以前から「花鎮祭り」が宮中行事として行われていたことがわかりましたが、平安時代になり都が京都に移ってからも実施されていました。八三四年に定められた「令義解(りょうぎのげ)」に次のような一文が記されています。

 「謂。大神侠井二祭也。在春花飛散之時。疫神分散行癘(れい)。為基鎮遏(ちんあつ)。必有此祭。故日鎮花」この文の大まかな意味は「(三輪)大神と侠井の二祭です。春の花が飛散する時に分散し、疫病をひろめる『疫神』を鎮遏(ちんあつ)するために、必ず鎮花祭りを執り行わなければなりません」という意味です。

 平安時代の中期になると、京の都に疫病や自然災害が続き、京都の人々をたいへん悩ませました。天変地異や疫病等はすべて御霊(怨霊)の仕業と考えられていた当時は、これらを鎮めるために各所で御霊会(ごりょうえ)が行われました。

 御霊会とは、たたりや災害を振りまく怨霊を鎮め慰める祭りで御霊祭とも呼ばれています。京都の「上御霊神社」と「下御霊神社」もその目的で建てられた代表的な神社です。八坂神社の祇園祭は、その規模と祭礼に使われる「鉾」や「山」が大型化したものと考えられています。その起りは、八六三年(貞観五)五月二十日、京都の神泉苑において、崇道天皇(早良親皇・桓武天皇の弟)、伊予親王、藤原夫人、観察使、橘逸勢、文室宮田麻呂等政治的に失脚した人々をまつったことが始まりです。怨みを残して死んだ人、非業の死を遂げた人々の霊魂がこの世にたたりをなし、災いを起こすのだと信じられていました。このため当時政権の座にあった藤原氏一族が中心となって、またその呼びかけに京都の人々が参加して、社会不安を一掃しようとして御霊会が営まれたのが始まりであったと言われています。

 また、疫神の託宣により、京都紫野に今宮神社が創始(長保三年・一〇〇一)されたと伝えられています。

 「花や咲たるや。やすらい花や。や、富草の花や、やすらい花や。・・・(後略)」と続く花鎮めの囃子言葉に、桜の花の散り始めに疫病が流行したので、「花よ、ゆっくりせよ。急いで散らないで」と葉の霊を鎮め、無病息災と、稲の豊作を祈願したのが「やすらい祭り」の起こりと考えられています。

 現在京都では、今宮神社(紫野今宮町)、玄武神社(紫野雲林院町)、川上大神宮(西賀茂南川上町)と上賀茂(上賀茂岡本町)の、北区に存在する四つの「やすらい踊保存会」によって伝承され、各神社や地元の祭を盛り上げています。

 現在は、四月の第二日曜日に実施されている「やすらい祭り」ですが、午前中は今宮神社で八つ膳の儀式が行われ、午後に今宮神社の北にある光念寺から約五〇人の練り衆が二組に分かれて出発します。

 行列は、先立・鉾・御幣持ち・小鬼(羯鼓(かっこ)・神子(かんこ)ともいう)・大鬼・花傘・囃子方などからなり、少年二人の扮する小鬼と大人四人の大鬼は白小袖に緋縮緬の打掛をまとい、赤や黒の赤熊(しゃぐま)(赤や黒色に染めたヤクという動物の尾の毛で作った髪の毛やかつら等のかぶり物)をかぶり踊ります。小鬼は鼓(小鼓)、大鬼は大鼓・鉦を打ち鳴らし「ハー、とみ草や、インやすらい花や、ヨーホイ」と歌い囃しながら、桜・椿・若松・柳などで美しく飾られた花傘のまわりを激しく跳びはねて踊ります。これは花の精に誘い出されるという悪霊を花傘に閉じ込めるためで、氏子地域の厄を祓いながら練り歩くのです。

 午後三時頃、二組の練り衆は神社で合流し、社殿の前でもう一度やすらい踊りを乱舞して、各地域で集めた花傘に宿った悪霊を神の威厳で降伏させ、鎮めるのです。この時、花傘の下に入った人は「一年間病気にかからない」と言われ、現在でも見物人が殺到します。

 今では四月の第二日曜日の「やすらい祭」ですが、京都では何故か「やすらい祭の日が晴れれば、その年の京都の祭事はすべて晴れ、雨ならすべて雨が降る」と言われます。


――今宮(いまみや)神社――

 京都の北部、北区紫野に位置する今宮神社は「やすらい祭り」が行われることで有名です。京都には「京都三大奇祭(『鞍馬の火祭り』『太秦の牛祭り』『今宮神社のやすらい祭り』)と呼ばれるものがあり、その一つに数えられています。八世紀初めからの国家行事である「花鎮祭(夜須礼祭)」を実施するお宮の創建が一〇〇一年であることや、その名前がなぜ「今宮」なのかとても不思議でした。

 その疑問が解けました。それは、一条天皇の正暦五(九九四)年に西の方からやってきた疫病は都で猛威を振い、四月頃には洛中洛外に病者の行倒れが多く、六月には病を恐れた人々は外出せず通行人の影も見られなくなったと伝えられています。

 そこで、翌年朝廷では、神輿二基を造らせ船岡山に安置し疫病鎮めを祈りました。これが「紫野御霊会」で「今宮祭」の起源とされています。ところが数年後の長保三(一〇〇一)年にまたも疫病が流行し、都の人々を悩ませました。そこで朝廷は、船岡山から現在の地に移し神殿や神輿を造らせました。そして三柱の神を創祀し、今までにあった疫(えやみ)社ともどもに「今宮社」と名づけ「御霊会」を営みました。「今宮」とは「新たに設ける宮」のことです。

 以降、応仁の乱や戦国時代等の戦乱で一時は廃れるものの、豊臣秀吉や、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院は、西陣の氏神としての今宮神社を盛り立て、社殿の改修や神輿の寄進をし、現在に至っています。


――あぶりもち――

 はやり病いや疫病の神を鎮める「やすらい祭り」で有名な、北区紫野の今宮神社の東門前に、神社の神饌菓子である「あぶり餅」を売る店があります。北側の店「一和」の創業は、紫式部や清少納言が活躍していた平安時代の長和二年(一〇〇〇)といわれ、現在で二十三代目とのことです。門前の店は二軒あり、「一和」こと「一文字屋和輔」と参道を挟んで南側にある「本家・根元かざりや」です。こちらも江戸時代創業で、四〇〇年の歴史があるといわれています。江戸時代の安永九年(一七八〇)に出版された京都のガイドブック「都名所図会」の六巻に掲載されている図版「今宮神社」を見ると、東門前に一軒の茶屋が描かれています。現在のあぶり餅屋の前身でしょうか。

 あぶり餅の始まりは、平安中期一条天皇の子が疫病を患った時に、病気回復・疫除けの願いを込めてあぶり餅を供えたのが始まりと伝えられています。疫除神饌菓子といわれる由縁です。あぶり餅は親指大の餅を荒削りの竹串に刺し、きな粉をまぶし紀州備長炭で焼いた後に白味噌の入った甘いたれにつけて食べます。十二センチメートルの長さの串、十五・六本が一人前の餅ですが、京都食文化特有の味噌あじを代表する和菓子です。

 京都の町では今も、このあぶり餅を食べると「一年間は悪疫から逃れる」「病気にかからず、一年間を過ごせる」と、祭りの日だけでなく多くの参拝者から喜んで食べられています。

 あぶり餅は、応仁の乱などで一時さびれた時もあったそうですが、その後再興され千利休がこの餅を茶会などの茶菓子として用いたと伝えられています。その時から現在まで、千家御用達として使われているそうです。

 白味噌文化の京都を代表する菓子で、今宮神社参道の店先での賞味がお勧めです。

 
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