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特集2 子どもの権利条約をいかして

日本の運動は子どもの権利条約をどう受け止め発展させてきたのか?
―子どもの権利条約実現運動の30年をふりかえる−


                         世取山 洋介(新潟大学)
 

はじめに

 1989年に国連子どもの権利条約(以下、適宜、権利条約または条約)が国連総会で採択されてから25年、そして、1994年に日本政府が本条約を批准してから昨年で20年が経った。若干遅くとはなるが、採択25周年、批准20周年を機に、本条約が国連において起草されていた頃からすでに始まっていた日本における本条約の実現のための運動の30年をふりかえり、運動がどこまで来て、何が課題となっているのかを検討してみたい。

 国連の人権に関する条約は権利を明確に一義的に規定しているので、条約を批准した国における運動の役割は国家間で合意されたことを政府がきちんと実施するよう働きかけることに限定されているものと理解されがちである。しかしながら、こと人権に関する条約について言えば、このような理解は正しくない。条約に規定された権利の内容だけでなく、条約全体の意味さえもが、条約を批准した国における運動と政府との関係、そして、条約の実施監視にあたる国連の組織−権利条約の場合には、国連子どもの権利委員会(The Committee on the Rights of the Child)(以下、CRC)−と国内の運動団体との対話の中で大きく変わってくからである。

 権利条約を批准するとその国の政府は定期的に条約の実施状況に関する制す報告を国連に提出し、CRCによる審査を受けなければならない。また、CRCが審査の後に採択する最終所見を権威ある文書として受け止めながら条約を実施していくことが求められる。CRCは審査のプロセスへのNGO参加、具体的には、政府報告書に書かれていない事実に関する情報の提供を重要視している。このためCRCによる政府報告の審査は、NGOと政府との間の対話のみならず、NGOとCRCとの間の対話を助長する機会となるのである。
権利条約の日本における運動の歴史を振り返ってみると運動の担い手と運動が掲げる理念、そして、そこから導かれる運動のスタイルが、日本社会における権利条約の基本的な意義を決定し、国連による条約の理解も発展させていったことが理解できる。

1. 1980年代における日本における議論の状況

 日本における権利条約を実現するための運動の歴史は権利条約が国連総会で採択される以前の1980年代中盤から開始されている。国連における条約の起草は1979年の国際児童年を契機として始まっており、日本においては研究者の間で条約草案に関心が集まり、起草の進捗状況の分析が行われ、その成果が実況中継的に公表されていたのである。この研究者の動きを支えていたのは、当時の日教組に事務所を構えていた「子どもの人権連」であった。

 人権連を中心とする国連の動きをいち早く日本に伝える研究者が中心の運動は、その理論面を見ると、日本の当時の状況に大きな影響を受けていたことがわかる。

 1980年代初頭から「管理主義教育」、すなわち、内申書、校則、体罰を「三種の神器」として子どもの学校内外の行動を過度に規制することが問題視される中で、子ども固有の権利、すなわち、子どもが子どもであるという理由だけで認められる権利―以下、子どもの権利(・・)−ではなく、子どもが大人と同じ人間であることから認められる大人と同じ権利―以下、子どもの人権(・・)−を守らなければならないという主張が強くなったことである。1980年代以前における子どもの権利と言えば、子どもが子どもであることに着目した子どもの成長発達権と子どもの人間としての成長発達に不可欠な学習を権利とする子どもの学習権を意味していた。そして、自由な人間的主体こそが子どもを自由な主体へと育てることができるとの条理に基づき、教師を「権利保障主体」として位置づけ、教師の教育の自由もが子どもの権利の実現のために実現されなければならないと考えられていた。

 ところが、管理主義教育のもと教師による子どもの死亡・自殺事件あるいは子ども間のいじめを理由とする自殺事件が起きると、子どもの人権(・・)、例えば、生命に関する権利や自己決定権−への着目が強くなり、しかも、子どもの人権を侵害している教師を「人権侵害主体」ないしは「権力者」とみなすべきとの議論を促すことになった。このような議論の状況の下、子どもの人権(・・)を軸に条約草案を理解する潮流が生み出され、条約草案に子どもの表現の自由などの市民的自由が盛り込まれることになったことの意義を強調し、あるいは、条約12条に規定された意見表明権を自己決定権であるとする議論までもが登場することになった。そして、日教組が1989年に学習指導要領の法的拘束力を認め、教師の教育の自由の実現、さらには、「子どもの権利」の実現を実質的には運動の課題から降ろしてしまったため、この潮流がますます強くなっていってしまったのである。

2. DCI日本支部の登場

 1989年の国連総会における権利条約の採択段階において運動において顕著であった「子どもの人権」を基調とする潮流を変える分岐点となったのは、日本政府が権利条約を批准した3か月前の1994年2月にDefence for Children International(DCI)日本支部が設立されたことであった。

 DCI本部(ジュネーブ)は条約起草に当たって世界のNGOの意見を国連にインプットするための窓口となり、条約起草へのNGO参加の要となっていた。そして日本支部は「子どもの人権」ではなく、子どもの権利(・・)に足を置き、権利条約の意義は「世界の子どもすべてに豊かな子ども時代」を実現しようとしていることにあるとの考え方を展開した。日本において独特の発展を見ていた子どもの権利(・・)論の運動の受け皿が登場することになったのである。

 DCI日本の登場により、運動のスタイルも変わっていくことになる。まずは、国連の人権担当官とCRCの委員とのつながりをつくり、国連の動向を伝えるだけでなく、国連との相互的な対話に基づいて権利条約の意義を探求していくというスタイルを確立したということ。次に、設立当初からの自律性を生かし‐典型的には財政能力の貧弱さにもかかわらず独立した事務所を構えていたこと−、1996年に「声をひとつ」にした代替的報告書作りを日本の国内NGOに訴え、「子どもの権利条約市民・NGO報告書をつくる会」の立ち上げに大きく貢献したことであった。
CRCはそれまでは無秩序に展開されていたNGOの政府報告審査を定型化していた。包括的な情報を提供したNGOをジュネーブに招請し、予備審査においてNGOと議論をし、政府報告審査において取り上げるべき問題を確定するという手続きを採用していたのである。当時国連人権担当官であったフィオナ・ブライス・久保田さんからの「NGO参加を最も効果的なものにする方法は、NGOの声をひとつにすることだ。」とのアドバイスに従い、先のような提起をし、つくる会の立ち上げに大きく貢献したのである。

3. つくる会による理論の展開

 つくる会は1997年、2003年、そして、2009年に3回にわたって代替的報告書をCRCに提出している。つくる会の活動の最も大きな特徴は運動と理論の往復運動を実現しようとしたことにあった。草の根からのレポートを広く募集して、日本における子どもの権利の状況に関する情報を草の根レベルから収集するのと同時に、研究者や活動家がその情報を分析し、1つのストーリーにまとめ上げるという手続きを取って報告書作りを行ったのである。そして、このスタイルは理論の画期的な進展をもたらすことになった。

 第1回代替的報告書のタイトルは『豊かな社会日本における子ども期の喪失』であり、強者への忠誠ないしはすり寄りと引き換えに弱者に利益が配分される日本社会のもとにあって子どもはありのままに受け止められる人間関係を大人との間で喪失しており、子どもは豊かな社会において子ども時代を失っていることが主張されていた。第2回報告書のタイトルは『豊かな社会日本における子ども期の剥奪』であった。「喪失」から「剥奪」への変更は、21世紀初頭から本格的に開始されたいわゆる「構造改革」のもと何かによって子ども時代が奪われているとしか言いようのない事態が展開していることを示すものであった。そして、第3回報告書のタイトルは『新自由主義社会日本における子ども期の剥奪』であり、ここに至りようやく、日本社会を「豊かな社会」と性格付けることと決別し、しかも、子ども期を剥奪している犯人を「新自由主義」、すなわち、多国籍企業中心の社会と国家を作ろうという考え方に特定できたのである。

 3回の報告書作りの中で「子どもの権利」論は、@子どもの主体性、すなわち、子どもが環境に働きかけ、そこから応答を引き出す力を持っているゆえに、たとえ理性的な主体でなくとも子どもには権利が認められるべきであり、A子どもの主体性は、子どもの要求に応える大人との親密な関係のもとでこそ実現されるものであり、Bこのような主体性が発揮されて初めて子どもの人間としての成長発達が実現できるという考え方にまで発展させられていった。そしてこの考え方は、権利条約12条に規定された子どもの意見表明権の意味は、子どもに主体性と主体性を発揮できる大人との間の人間関係を形成することを権利として認めたことにあるとのユニークな理解に結実することになった。

4. 国連による受容と応答

 子どもの権利(・・)論を子どもの主体性を軸にして発展させながら、子どもの権利を押しつぶすものを特定してその改革を求め、さらには、子どもの権利を軸とした社会づくりを意識するつくる会の運動は、国連にも大きな影響を与え、大きな成果をもたらした。

 まずは、2005年にCRCが採択した「一般的注釈第7号 乳幼児期における子どもの権利の実施」において、子どもの主体性を軸にする子どもの権利についての考え方が受容されたということである。長くはなるがこの注釈の第16パラグラフを以下しておきたい。

 乳幼児は、自らの生存、成長、および福祉のために必要とする保護、いたわり、および理解を、親およびケア提供者から求める能動的な社会的主体(active social agent)である。新生児は出生直後から自分の親およびケア提供者を認識することができ、非言語的コミュニケーションを積極的に行なう。通常の状況では、親または第1次的ケア提供者との間に強い相互的愛着を形成する。これらの関係は、子どもに身体的および精神的安心、ならびに、一貫したケアおよび注意を提供する。子どもは、これらの関係を通して、自己のアイデンティティを形成し、文化的に価値のあるスキル、知識および行動を獲得する。このようにして、親(およびその他のケア提供者)は、それを通して乳幼児が自分の権利を実現することのできる主要な回路となる。

 次に、つくる会が展開した新自由主義批判がほぼ全面的に受け入れられ、日本の現状を日本に住むものが理解している以上に正確に描写する最終所見が、第3回政府報告審査に基づいて2010年にCRCによって採択されたということである。この最終所見では、子どもが、過去2回の最終所見で指摘された「高度に競争主義的な教育制度」のもとで不登校や自殺などの困難に直面しているだけでなく、情緒的幸福度の低さという新たな困難に直面するようになったこと、その第1次的原因が子どもと親そして子どもと教師との間の「関係の荒廃」にあること、そして、この第1次的原因が、労働規制緩和、民営化、子どもに直に接して子どものために働く大人の地位の低下など構造改革を構成する施策の束によって引き起こされていることが指摘されていたのである(第パラグラフ50、51、61、66、67パラグラフ)。

 CRCは、2010年の最終所見において、つくる会の主張を超えた新たな課題も提起していた。一つは、第1回政府報告審査に基づく最終所見の中で指摘された「高度に競争主義的な教育制度」の改革に関わって、競争による学力の向上ではなく、「子ども中心の能力形成」を実現し、それに伴い、学校種別間の接続を含む大学までの学校体系改革を行うべきであるとの勧告がなされたことである。第1回の審査が行われた1998年以来10年以上もかけてCRCによって示された具体的な問題の打開策であるが、含蓄に富んでいるうえ、実に根本的な課題を日本の教育関係者に投げかけるものとなっている(第71パラグラフ)。

 もう一つは、子どもの権利の実現のために企業に対する国家の規制を働かせるべきこと、すなわち子どもと親、そして、子どもに直に接して働いている大人を企業から保護する国家の義務の履行を日本政府に求めたことである(第27,28パラグラフ)。国家を使って子どもの権利を実現するためのバリアーを企業に対して設定する。新自由主義への対抗軸に基本がここでは端的に指摘されているのである。

まとめ−次の10年の課題−

 この30年日本における子どもの権利条約を実現するための運動をふり返ると少ない力で実に多くの成果を上げてきたと実感する。しかしながら、30年が終わった次の10年のチャレジとなる新自由主義との全面的な格闘に取り組むにはいくつかのハードルを超えなくてはいけない。CRCから新しく投げかけられた課題のほか、ここでは次の2つのことだけを指摘しておきたい。

 まずは、子どもの権利の内実に関連して、子どもの生得的欲求である愛着形成に着目し、第7号注釈などの成果を得てきたが、思春期以降の子どもの獲得的要求、すなわち「意味ある人生を社会の中で過ごしたい。」という要求に正面から取り組まなくてはいけない。

 次に、これまでの運動を支えてきた組織をバージョン・アップする必要があるということである。手弁当のボランティが担ってきた運動を、その精神を維持したまま、より組織的なものへと改革していき、日本社会の中に広く存在する子どもの権利を実現したいという多様な要求をよりよく受け止め、かつ、より広く応答できるようにしなくてはならないということである。
以上の雑駁な文章が、次の10年を支える理論作りと組織作りに参加したいとの気持ちを引き起こすものとなっていることを祈って終わりとしたい。
 
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