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早川幸生の 京都歴史教材たまて箱81

さぎちょう(左義長・三毬杖)・とんど

        早川 幸生
   「ひろば 京都の教育」181号では、本文の他に写真・絵図などが掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」181号をごらんください。 
 

――年の始めを祝い、一年の進歩を決意して――

 一月十五日を小正月と呼びます。これは元日からの大正月に対して、満月の日を月初めとする原初的な暦の名残といわれています。

 この日には、資料の図のように三本の松と青竹を組み立て、中に正月に飾った注連縄(しめなわ)や門松などを入れて燃やす「左義長(さぎちょう)(とんど)」の行事が神社をはじめ日本各地の都市部・農村部で行われています。古くは平安時代、正月の宮中行事で、清涼殿の東庭で青竹を束ねて立て、正月に使った毬杖(ぎっちょう)三本を結び、その上に扇子や短冊、書き初めなどを添え、陰陽師が謡いはやしながらこれを焼いたのが始まりで、それが民間に伝わりどんど焼きとなったと言われています。

 語源としては、火が燃えるのを「尊や(とうとや)尊(とうと)」と囃(はや)し立てたことからその囃し言葉がなまったという説、また火がどんどん燃える様子からそのような名称がついたのだという説もあります。

 火は穢(けが)れを浄め、新しい命を生み出します。竹の爆ぜる音は災いを退けます。現在ではどんど焼きは祓い清めるという役割と、正月に浮かれた人々の心を現実世界に戻すという二つの役割を担った行事と考えられています。

 また、この火にあたると若返るとか、この火で焼いた団子や餅を食べると病気にならないとも言われています。書き初めの紙が高く舞い上がると習字が上達し、学業が向上するなどとも言われています。

 一般的には、田んぼや空き地に、長い竹や木、藁(わら)や茅(かや)、杉の葉などで作ったやぐらや小屋(どんどや)を組み、正月飾りや書き初めで飾り付けをしたのちそれを燃やし、残り火で柳の木や細い竹にさした団子、あるいは餅を焼いて食べるという内容で一月十五日前後に各地で行われています。

 どんど焼きの火にあたったり、焼いた団子を食べたりすれば、その一年間健康でいられるなどの言い伝えもあり、無病息災・五穀豊穣・家内安全を祈る行事になっています。

 全国のどんど焼きの行事は、最北端は秋田県、最南端は鹿児島県で実施されているようです。実施期間は、全国的に一月小正月です。

 京都市の小学校では今でも、農業が行われている校区を中心に、どんど焼きを行っているところが数ヶ校あります。正月飾りや書き初めを持ち帰り校庭で実施します。残り火でさつま芋や餅を焼いて正月を祝い、一年間の健康と交通安全、学力向上を願います。また一人一人、今年一年に取り組むことを決意する日であり、行事でもあるのです。


――毬杖(ぎっちょう)――

 左義長の語源ともいわれる「毬杖」とは何でしょう。「毬杖」は、平安時代に子どもの遊びとして始まり、後に庶民の間に広まったようです。木製の槌を付けた木製の杖を振るい、木製の毬を相手陣に打ち込む遊びまたはその杖のこととされています。振々(ぶりぶり)毬杖(ぎっちょう)とか玉ぶりぶりとも呼ばれました。杖には色糸がまとわれていたようです。

 平安時代の月毎や季節折々の都の様子を描いた「年中行事絵巻」にも「毬杖」が描かれています。その現代版解説を紹介します。

 「毬杖は、今日のホッケーのような遊びで、本来は子どもの遊戯であるが、時には大人も加わってこれを打ち興じたという。図は、打ち上げた球が、眼にも止まらぬ速さで飛んで来る。墨で尾を引いて、その速さを表す。毬杖に興ずる子ども達の腰には、一様にゆずり葉(親子草)をつけている。代々を譲り、子孫が長く続く、という縁起をかつぐもの」と記されています。
 現在の鏡餅にも、橙(だいだい)やゆずり葉が使われていますが、橙は、子々孫々、代々家が続くようにと縁起をかついだものと言われています。

 以前、沖縄を旅行したとき、博物館に郷土玩具のコーナーがあり、沖縄県の離島に毬杖やブリブリに似た木製の道具があることを知りました。平安時代に本土から伝わったと考えられるという表示があったことを思い出しました。


――「ひだりぎっちょう(左毬杖)と左義長」――

 左義長のことを調べていて、一番興味深かったのは「ひだりぎっちょう」のことです。「ひだりぎっちょう」の語源としては「ヒダリキヨウ(左器用)の転」とされています。また「左の手利きたる人をぎっちょうといえるは、左義長という意」ともあります。
 さらにこんな説もありました。

 平安時代に「毬杖」が様式化されて「舞楽・打球楽」になった。舞楽では舞人が本当の毬杖を右手に持って舞う決まりになっているのに、左手に持って舞ってしまった。気付いた他の舞人から「おまえ、それは左手にギッチョウじゃないか」と指摘された。(後略)

 それ以来、左利きや左ききの人のことを「左ギッチョウ(左ギッチョ)」と呼ぶようになったという説もあります。面白い説ですね。


――地名「左義長」と各地の左義長行事――

 「左義長町(さぎちょうちょう)」という町名に出会ったのは、京都市山科区の山階南小学校に勤務のときのことでした。はじめは「さぎながちょう」と学校でも呼んでいたのですが、調べた結果「さぎちょう町」であることがわかりました。

 この「左義長町」のある場所は、文明十年(一四七八)室町時代に本願寺八世の蓮如によって京都市山科区に建てられた「山科本願寺・寺内町」の土塁の内側に位置しています。当時の資料に「富貴に及び、栄華を誇る。寺中広大無辺にして荘厳さながら仏国のごとしと云々」と述べられています。応仁の乱後の荒れはてた同じ京都の地です。

 地名辞典によると「小正月に行われる火祭りの行事である左義長が町名になったのであろう。(中略)京・大阪では比較的、とんど・どんど・とんど焼きと呼ばれることが多い。この地が山科本願寺の外寺内に当たることと、近江から越前にかけては左義長(さぎちょう)と呼ばれることが多いことを考えあわせると、その人たち(寺内町の人々)によって寺内町で行われた行事に由来する可能性が高い」と述べられており、今後も更なる調査・研究が進められ、より詳しい事が解ることが期待されます。

 「左義長町」のことを学級通信に掲載したところ、滋賀県近江八幡市出身の保護者の方から日牟礼(ひむれ)神社に因んだ「左義長まつり」の情報が寄せられました。国の無形民俗文化財に選択されていることや、本来はやはり小正月の行事であったことが解りました。今では三月十四・十五日に近い土・日曜に実施され、担ぎ手の男性は織田信長の故事によって化粧し、「チョウヤレ、マッセッセ」のかけ声高くダシを引き廻し練り歩く祭礼です。近江八幡の左義長は、一ヶ所に据え置くのではなく、三角錐の松明にダシと言われるその年の干支にちなんだ飾り物(五穀やスルメ、昆布などの海産や野菜等すべて自然物で飾る)を付け、松明の頭に「十二月」と言われる赤い短冊をつけた五〜六メートルの竹を差して練り歩きます。

 地区ごとに左義長を持ち、町中で左義長同士が出会うとぶつけ合う喧嘩が始まることがあります。中学生が各学校、学年学級で作り参加しているのを見たことがあります。最終日には、日牟礼神社の門前に集り担ぎ棒を除いて全て燃やしてしますならわしです。

 福井県の勝山市にも「勝山左義長」が伝わり実施されています。「勝山左義長」は小笠原公の勝山封入時(一六九一年)にさかのぼり、三百年以上の歴史があります。参加者は赤い長襦袢で女装した太鼓の打ち手が三味線、笛、鉦による軽快なリズムでお囃子に合わせて太鼓をたたく様や、カラフルな色短冊による町中の装飾は、勝山左義長の特徴と言われています。二月下旬実施の勝山左義長は、市街地各町内に十二基の櫓(やぐら)が立ち唄や太鼓、踊りが見られますが、祭りの最後を飾るのはやはり「ドンド焼き」で、その年の五穀豊穣と鎮火が祈願されます。

 他では神奈川県大磯町の差義長は国指定の重要無形民俗文化財で、岐阜県海津市の今尾神社で行われる「今尾の差義長祭」も大規模で、岐阜県重要無形民俗文化財に指定されています。

 その他全国の、どんど祭り、さいの神(才の神焼き・歳の神・賽の神まつり)、かんがり等の、火にまつわる一月の行事も関連行事だと言われています。


――京のどんどん焼け(蛤(はまぐり)御門(ごもん)の変と京都大火)――

 蛤御門の変は、江戸末期の元治元年(一八六四)甲子年(きのえのねのとし)に起こったため元治甲子の変(げんじかっしのへん)とも、禁門の変ともいわれています。

 京都の中心部御所附近が激戦地となったため、市中は猛火に包まれ北の風にもあおられて、民家や有名社寺を焼きつくす天明八年(一七八八)に次ぐ京都大火となりました。

 長州藩邸や堺町御門から出た火が、手のほどこしようもなく燃え広がる様子を見た京都の人たちが、正月のどんどん焼きになぞらえ「京のどんどん焼け」とか「鉄砲焼け」などと名づけたようです。

 蛤御門とは、元は新在家門(しんざいけもん)といい、普段は閉ざされていましたが、宝永五年(一七〇八)の大火で開門されたので「焼けて身を開く蛤」から蛤御門と呼ばれたと伝えられた、烏丸通に面した門です。

 名誉回復と尊皇攘夷の勢力を取り戻そうとする長州藩と、御所を守る幕府(会津・桑名藩)および薩摩連合軍の戦いでしたが、中でも激戦区だったのは御所西側の蛤御門であったため「蛤御門の変」とも呼ばれています。

 尊皇攘夷派の勢力を取り戻そうと、長州藩は兵を率いて京都に向かい、御所の蛤御門の近くで幕府薩摩両藩との戦闘となりましたが、長州藩はこの戦いに敗れました。長州藩の久坂玄瑞は鷹司邸で自刃し、鷹司邸に火が放たれました。折からの北風にあおられた火は南方面に燃え広がり、京都の町は火の海になりました。堀川と鴨川の間の、北は一条通と南は七条通の間の約三分の二が焼きつくされました。戦いは一日で終ったのに、戦火は三日にわたって燃え続いたのです。

 五日後に孝明天皇が長州追討令を出したのを受け、幕府は長州征討軍を派遣(第一次長州征討)した際、長州兵が御所に向かって発砲したことから長州藩は、明治維新まで朝敵(天皇の敵)とされたのでした。

 明治維新まであと三年のことでした。このできごとは京都の町衆に、京都の町に消防組織が必要であることを認識させたのでした。

 明治二年文部省に先んじ、京都独自の「番組小学校」の設置の際、六十四ヶ校各校に、「火の見櫓(やぐら)」と「学校火消」と呼ばれた学校区毎の学区民による自主消防団誕生へと繋(つな)がっていくのでした。現在も当時の火の見櫓が一校に、竜吐水とよばれた手押ポンプや纏(まとい)が数校に残されています。一四五年前の歴史の証人です。
 
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