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特集テーマ 2 不登校・引きこもりを考える
総論 「居場所」とは何か?−「居場所」がなぜ必要か−


              心理臨床家 高垣忠一郎
 

1 「三間のない生活」と「登校拒否」 

 高度経済成長期以降、地域から「原っぱ」が消え、異年齢集団の遊びが消えていきました。やがて子どもたちの生活が「三間のない生活」と言われるようになります。「時間」「空間」「仲間」です。日が暮れるまで、「原っぱ」で仲間と共に夢中になって遊ぶ子どもたちの姿がいつの間にか消えていきました。子どもが大人の支配や干渉から自由な空間のなかで、仲間とともに自分たちの時間の主人公として過ごす、そんな子どもたちの「居場所」が地域から失われたといえるでしょう。

 このような子どもの生育条件の大きな変化は、子どもの生活が家と学校という2点を往復するだけの生活に囲い込まれ、家でも学校でもない地域での生活が貧しくなっていくことを意味しています。そのような子どもの生育条件の変化と軌を一にするようにして、「登校拒否」といわれる子どもたちが日本の社会に登場し、70年代半ばから急増してきたのです。

 その変化は、「教育基本法」に則り「人格の完成」を目的とした教育がおこなわれるはずの学校が、財界の要請や国の教育政策によって経済発展に資する能力をもった「人材」養成のための機関に変質させられ、子どもたちが企業の役に立つ「能力」を身につけるための競争レースに囲い込まれてきたことと重なっています。

 つまり、生きものとして、人間として、成長・発達していくために欠かせない遊びをはじめとする活動を、「仲間」とともに十分に体験するための「空間」と「時間」を子どもたちは失ったのです。だから、私の目には「登校拒否」というものが、生きものとして、人間として育つための時間をとりもどす子どもたちの起死回生の試みのようにみえて仕方がありません。


2 「登校拒否」の子どもの「居場所」が作られ始めた頃

 私は全日本教職員組合(全教)の教育研究集会(教研)の「登校拒否・不登校」の分科会の共同研究者を長年やってきました。全教教研がまだ始まったばかりの20年ほどまえの集会で、ある登校拒否の子どもの「親の会」の代表をしているIさんが、「子どもの広場(居場所)」をつくった経緯を報告してくださったことが印象に残っています。

 Iさんの息子さんが中学2年生の項、「死にたい」とつぶやいていましたが、同じ会員の親の家に遊びに連れて行ったら、その家のお兄ちゃんも高一で登校拒否でした。以来、息子さんは学校に行けない子はたった一人自分だけだと思っていたのに仲間のいる事を知り、毎日のように出かけていくようになったのです。始めは車で送り迎えでしたが、次第に自転車で出かけるようになり、見ちがえる程元気になったそうです。

 こんな息子さんの様子を見て、「やはり子どもは子どもとの交流を求めていることを痛感した」とIさんはおっしゃいます。家庭が一番居心地の良い子どももいますが、自分を取り戻し、意欲が出てきて何かやりたいなあと思い始めた子や、友達がほしいという子どもたちには「あそこへ行けば誰かに会える、おしゃべりができる、学んだりできる」という場所が必要なのだということを確信されたのです。

 そこでとりあえず週一回、子どもたちと楽しいひと時を過ごすために、「子どもの広場」を始めたのです。いろんな人の協力を求め「作ってあそぼう」や「作って食べよう」「外で遊ぼう」と遊び道具や料理をつくり、サイクリングやハイキング、プール、スケートなど外で身体を動かし遊ぶ日をつくりました。子どもたちは、17歳から5歳までの異年齢集団で、年上の子が下の子のめんどうをみたり、又イライラをぶつけ合い、ハラハラする場面もありましたが、何度か会い、一緒にいろんな事に取りくむ中で、お互いを認め合えるようになってきたといいます。

 そうして、これまでの成果として、@子ども自身の孤独感が大分やわらいでくる。A学校のなかで傷ついた友人関係(人間関係)を少しずつとりもどすことができる。B学習や製作が評価の対象ではなく、学ぶ楽しさ、作る楽しさを体験し、“やってみようか”という意欲が出てきた。C行きつ戻りつの状況があってもあせらず、親も子どもも仲間が居ることで待ってやることができる(何もしないで待つのはあまりにも苦しい!)。Dボランティアの方の力(その人の持っているすばらしい人間性)は、子どもたちに新い人間信頼の生まれるきっかけになっている(自己形成のモデルの必要性)・・・を報告してくださいました。

 1980年代半ばごろから、各地に「親の会」ができ始めました。そしてその親たちが自分たちの手で、登校拒否の子どもの「居場所」作りを始めたのです。登校拒否の子どものための「居場所」づくりの多くが、当初こんな形で始まったのです。


3 「よい子」の「枠」から子どもを解放する「居場所」

 ある15歳の登校拒否の女子が昔、教育研究集会で話してくれました。「私はいま自分が好きです。“ありのままの自分”でいいのだと思えるようになって、自分が好きになりました。そうすると心が軽くなって、あれもしたいこれもしたいと思うようになりました。いまは自分のしたいように毎日を過ごしていきたいと思います」という短い報告でした。

 彼女は「ありのままの自分でいい」と思えるようになって、自分が好きになったのです。よくわかります。おそらく彼女の心には「よい子」でなければならないという「枠」がはまっていたのでしょう。でも、「ありのままの自分」を認められるようになり、「ねばならない」の「枠」外れたのです。そうすると、「よい子」の生き方に自分を閉じ込めていた心が自由に動きはじめたのでしょう。

 これまでは、「〜ねばならない」で行動していたのが、自分の心に正直に素直に「〜したい」で行動できるようになり、そんな自分が好きになったのです。「よい子」は周囲の期待に応えてがんばり、しばしば学校の先生をはじめ周囲の大人の評価は高いのです。でも、その心になかにはいってみると、自分のことが嫌いな子が少なくありません。「よい子」という「牢獄」に閉じ込められている自分を好きになれないのでしょう。

 「居場所」とは安心して「自分が自分でいられる」場所のことです。私の言葉でいえば、「自分が自分であって大丈夫」と思えるところです。「他人と共に居ながら、安心して自分自身で居られる」場であること、それが登校拒否・不登校の子どもにとって必要な「居場所」の最も大切な条件です。

 実は彼女のお母さんは、地域で「親の会」をつくり、親の辛さや悩みをありのままに出して語り合い、共感的に耳を傾け合える親同士の関係をつくりました。それは親にとっての「居場所」だと言ってよいでしょう。そのような関係のなかに身を置くことで、ありのままの自分を受け入れ、「世間体」やこれまでの「とらわれ」から自分自身を解放することができたのでしょう。そのような心で、お母さんは娘と向き合い、娘をありのままに受け入れることができたのだと思います。

 すなわち、親自身が「他人と共に居ながら、ありのままの自分で居られる」居場所をつくり、その中に身を置くことで、「世間体」や「『よい親』でなければならない」という縛りから自らを解放し、ありのままの自分を受け入れることができるようになったのです。


4 親にも子にも、安心して自分自身で居られる「居場所」が必要

 親も子どもも、この競争社会の「評価」のまなざしに曝されて生活しているなかで、いつの間にか、「世間体を気にする」「比べ癖」などの垢を心にくっつけて生きています。競争原理で評価する「世間相場」のものさしで自分や他人を値踏みする癖がついています。

 そういう「ものさし」がいつの間にか、親の心のなかにも入り込み、自分自身や子どもを値踏みし、企業社会の気に入る「よい子」でなければならないと脅す「支配的な他者」として君臨するようになります。親がそういうまなざしで子どもを育てることによって、子どもの心の中にも、同様の「支配的な他者」が住みつくようになります。

 登校拒否の子どもたちは、「世間並み」に学校に行くことのできない自分を「ダメな奴」「親の期待に背く情けない奴」と責め、時にこんな自分は死んだ方がましだと、存在そのものを否定するようになります。そういう自己否定の思いにとらわれた心から自分を解放していくことなしに、彼らは元気になれません。

 そういう子どもたちには、まず一番身近な親が学校に行けない自分を丸ごと受け入れ、承認してくれることが必要です。親がそういう親になっていくために、先述したような親自身が「ありのまま」を出して支えあえる「親の会」という居場所が必要になるのです。その中で親が変化し、子どもを丸ごとありのままに受け入れることができるようになると、子どもも自分を責め、否定する心をゆるめ、少し元気になって動けるようになります。そうすると、家の中に閉じこもっていた子どもも、家でも学校でもない第3の活動の場を求めるようになります。

 つまり、自分を「世間相場」のものさしで値踏みしない「空間」で「仲間」と一緒に自分たちが主人公になって「時間」を過ごせる「居場所」を求めるようになるのです。「居場所」とはまず何よりも、自分が期待されていることを「する」から受け入れられるのでなく、そこに行けば自分の「存在」そのものがまるごと大切にされ、受け入れられているという手ごたえを感じさせてくれるところでなければなりません。

 何をしなくても、ボーッとしていたければ、ただボーッとしていられる、漫画を読んでいたければ、ただ漫画を読んでいられる。そのことが許される「空間」であり「時間」であり、「仲間」であることが大切です。そういう場をつくり、世話する人は、そういう世界を守れる人でなければなりません。たとえば身につけた心理学の知識やノウハウを「役立てたい」という人はむしろふさわしくありません。子どもたちが気を遣わなければならなくなるからです。

 「世間相場」の「評価のものさし」ではなく、あくまでも生きものとしての子どもを愛する「生命相場」の「共感のまなざし」で子どもをみることができ、子ども自身が主人公であり、子どもがやろうとすることを尊重し、その場に溶け込み、彼らと一緒にそこに居て、その場を見守ることができる人が望ましいのです。

 「よい子」の習性の抜けない子どもは、その場でなにか「期待されている」ことを「しなければならない」、そうしないと安心できない子どもたちです。だから、自主的な意欲によって動けるように慎重に見てやらなければなりません。そのうえで、「〜したい」が出てきたときに、それを手伝ってやれるような配慮が必要になるでしょう。

 
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