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●京都歴史教材たまて箱79
伏見人形(深草細工人形)――祈り・暮らし・歴史を伝えて



                          早川 幸生
   「ひろば 京都の教育」179号では、本文の他に写真・絵図などが掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」179号をごらんください。 
 

歴史といわれ――

 伏見人形は元和年間(一六一五〜一六二三)に作られ始めたといわれ、稲荷参拝の土産として全国に有名になりました。持ち帰られた人形が全国各地で模倣されて同様の人形が作られ、固有の味も加わって現在も各地の土人形として人気を博しています。そういう意味で「伏見人形は日本の土人形の祖」と言われています。本来農耕神であった稲荷神社は農業従事者からの信仰が厚く、稲荷山の土を自分の田や畑に入れると稲が豊作になると信じられたことから、稲荷山の土で作った人参や大根などの焼物を持ち帰り田畑に入れたと伝えられています。

 古来より稲荷山から深草にかけて産出する良質の粘土で素焼のかわらけ(神に奉げる農作物を入れた皿状の器)を作ったあい間に、生み出した郷土人形と考えられています。

 元禄時代から発展して文化文政時代(一八〇四〜一八二九)には伏見街道に五十余りの窯元と十数軒の人形店があったそうです。今は唯一「丹嘉」だけです。


『土師部』――

 古くから伏見深草には、古墳時代から円筒作り等を専門とした土師部(はじべ)と呼ばれた人々が住んだ土地であることが記録に残っています。土師は祭祀用器具をはじめ日用雑貨などを稲荷山の良質の土で作り続けてきました。

 そして土師部の氏神として祀られたのが伏見稲荷神社の前身とされ、後に保食(つけもち)神と結びつき五穀の神・農業神となったのです。「かわらけ」「でんぼ」「火吹竹」「ごま煎り」などは、人形作りの前身と考えられています。

 現在の伏見人形に関する記録や文献は、江戸期元禄前後に頻繁になります。豊臣秀吉は伏見城築城の折、播州や河内から瓦職人を呼びよせ、城瓦作りをさせました。深草に瓦町という地名が現在も残っています。伏見築城も大仏造営も一段落し、世の中も落ち着いた時期から、瓦師の彫塑の技術が土人形製作に向けられたとも考えられます。現在の丹嘉の店先の大きな臥牛も瓦製で、他にも瓦製の原型が何点もあることから、瓦職人と伏見人形のつながりを認めることができます。


土人形の広がり――

 伏見で作られた土人形は、淀川の川舟を経て大阪から北前船などにより各地に運ばれました。廻船や北前船などは、伏見人形の流通範囲を広げた最大の要因とみられます。

 大阪等で積荷をおろした後、返りの船の安定を図る積み荷として、土製の伏見人形が好まれ大量に全国に広がりました。抜き型がとられ各地の土人形として定着したものに、滋賀の小幡人形や山形の相良人形に、伏見の型と瓜二つの物が見られ、興味深いです。

(1)器

 農耕神であった稲荷山の神に、収穫した農作物をのせて御神前・神棚に供えた器が、稲荷山の土で焼いた素焼きの「かわらけ」であったと考えられます。そのかわらけ様の物を大・中・小と三枚重ねにし、縁を赤や群青で簡単に色つけしたものを「でんぼ」と呼びました。語源は稲穂を入れる容器の「田穂」「田豊」から転化したものと考えられています。

 さらに立体的な器として作製され、現在の京都の町中(なか)で実用化され見られるのが「柚でんぼ」です。はじめは子どもの菓子入れとして柚の形をした器でしたが、今は柚味噌を入れて売られ京名物になっています。

(2)信仰・縁起物

 伏見人形の殆どが、さまざまな信仰・縁喜につながるものといわれています。
 人間の一生のどの時点にも伏見人形は結びついており、安産・無事成長・結縁・無病息災・死後安穏といった具合です。現在でも布袋さん(福を授ける布袋と火伏せ・火事除の布袋)や狐(伏見稲荷の神さんのお使いとされ、稲作・田作の害獣であるねずみやモグラを退治する益獣と考えられていた)が最も多いことも、伏見人形の特徴の一つです。

(3)節句物

 段飾りなどが買えない庶民の子ども達にとって、土人形の節句物は本当に喜ばれたようです。置物としてだけでなく写真の立びな等、女の子が手に持って遊ぶための物でした。

 伏見人形の節句人形は遠く紀州や播州までお祝い用の贈答品として用いられました。ひな祭りには神びなや立ちびななどの人形が、端午の節句には大将と旗持ちや飾り馬、そして金時と熊等が飾られました。

(4)干支物(動物)

 大西さん(窯元丹嘉)の話では、夏が過ぎると干支ものに取りかかるとのことで、動物でもやはり十二支が多いようです。伏見人形の中でも動物の型が随分と多いといわれています。お稲荷さんに因んだ狐も加わり、さまざまな動物が天真爛漫かつ奇抜さ面白さが加わり、大人にも子どもにも人気がありました。

 また、思い切った擬人化に成功したものが多いのも特徴です。節句に登場する飾り馬等もあります。象・竜・鯛・金魚など丹嘉さんの店内のショウウィンドウは、さながら動物園です。ぜひ一見を。

(5)教訓・説話物

 伏見人形の中には、教訓を背景に作られたものや有名な説話から取材し、作り始められたものがあります。特に有名で全国に拡がったのが「饅頭喰い」で、一説には幕末、明治初期の京都の「かわら版」にのった記事が発端とのこと。

 「お父さんとお母さんとどちらが好きか」と尋ねられた一人の子が、持っていた饅頭を二つに割って答えた。そこから子どもが聡明になるようにとか、賢い子ができるように等の願掛けや、安産祈願に納められました。

 北野天満宮参道西側の東向観音寺で現在も授与されています(有料)。

(6)わらい物(性玩具)

 伏見のお稲荷さんは元々は農耕神で、五穀豊穣の神様です。それはまた、生殖の神・安産の神でもあったのです。そして様々な商売繁盛の神になったのです。

 土人形をよく見ると、男性器や女性器が描かれており、庶民の願いを捉え、健康で明るい笑いを与えていたことがわかります。

 残念なことに明治五年三月の太政官布告で「風俗に害あるを以て、自今早く取捨て踏潰すべし」とされ、ことごとく原型が壊されました。

(7)歴史トピックもの

1、 朝鮮通信使――伏見の羽束師小学校で外国人教育の地域素材を探していると、「桂川を遡る朝鮮通信使」の記事。その記事を頼りに地域に出ると、通信使が上陸した淀の舟着き場(唐人雁木跡)が残っていたり、接待した渡辺さんの記録や絵巻が残っていました。

 朝鮮通信使とは――秀吉の朝鮮侵略を深く反省した徳川家康は、国交回復を求めて熱心に友好関係を求めました。侵略を受けた朝鮮はなかなか受け入れませんでしたが、渡航費用の日本側負担等の条件付で友好の関係が元に戻りました。徳川将軍に代わって、朝鮮からの祝賀使節を「朝鮮通信使」と言います。

 江戸期一二回来日した一行は、淀・伏見で見物でごったがえし「見物料として五百文。子ども向きに朝鮮ゴマや軍扇が売られ、通信使の版画や深草人形あらわる(資料)」ほど。

 そこで伏見人形の窯元「丹嘉」さんを訪ねると、今まで「道士隊」と呼ばれていた人形が二六六年前の通信使の正使像であることが判明し、人形の名前も変えられました。日朝友好の歴史を伝える素晴らしい作品です。一七四八年の作です。 

2、 象のり唐(から)子――江戸時代の中期に海を渡って日本にやって来た象がいました。長崎の中国人町から、新八代将軍徳川吉宗に祝いの品として贈られたものでした。

 享保十三年(一七二八)に牡牝二頭の像がベトナムから中国船に乗せられ長崎に到着。牝は長崎で死にましたが、牡は将軍のいる江戸まではるばる旅をし当時の日本人を熱狂させたと言われています。

 道中は大勢の見物の人であふれ、各地で象を描いた絵巻物や瓦版、土人形や張り子人形が作られ日本中が象フィーバーになりました。

 その道中、享保十四年(一七二九)四月二五日に伏見に到着し、横大路草津ヶ浜に上陸しました。翌日京都に入り二八日に天皇に拝謁したという記録が残されています。

 当時の中御門天皇は、「膝を折り、頭を下げ挨拶するなど、象とは利口な動物である」と象をほめたと伝えられています。また『象要集』という象を見た淀藩士が表した見聞録も残されています。「象のり唐子」人形も象フィーバーを伝えるものです。

3、 歌舞伎人形――六年生の社会科の教科書に、江戸期「歌舞伎と版画」の項目を見て、昔伏見の古道具屋で見つけた茶色の伏見人形を思い出しました。

 授業で使えるか、丹嘉さんを訪れました。

 「これはたしかに『暫(しばらく)』という人形です。今では歌舞伎人形と呼ばれていますが、昔は専門店があって伏見成田屋人形と言われたようです。この『暫』と『助六』『矢根』の三体がセットになっています。詳しくはこの本で」と一冊の本が手渡されました。

 「そもそも江戸歌舞伎の七代目団十郎が・・・京都・大阪に来た訳は、江戸で余りにも人気が高く大奥のお局たちも競って自分の衣裳を歌舞伎衣裳として贈った。そのことが公儀の耳に入り『豪奢にすぎる』と“江戸払い”になった」とのこと。

 団十郎の人気は、京都・大阪の子女を熱狂させたこともあり、嘉永二年(一八四九)十二月に許され江戸に帰ることができました。その帰東の折、伏見の割松屋に命じて自分の十八番中の『暫』『助六』『矢根』の三つの型をとらせ、都合三百体の人形を注文して土産として持ちかえったという、史実に基づいた人形です。

4、 牛車と俵牛――今まで十二支の干支ものとして見ていた伏見人形の中に、江戸期の京都における牛による荷物の運送をテーマにした物が見られます。それは米(米俵)を運ぶために考案された「牛車」という京都独自の物で、京都名所案内図の始まりとされる『京童(きょうわらべ)』(一六五八年刊)をはじめ『都名所図会』に、「羅生門」や「鳥羽の牛車」として紹介されています。

 江戸時代、税として納められた牛貢米は、大阪城および京都二条城へ、安全にかつ早く、そして確実に運ばれることが求められました。東海道、鳥羽街道、竹田街道に米運搬専用の道として「車道」が出現し、牛車専用の敷石として「車石」が敷かれたのです。

 絵図や写真で見る牛車の車輪の矢数(自転車でいうスポーク)は、凡そ一六〜二二本です。土人形の牛車は八本になっている点について、丹嘉さんによると製作上簡略化したのではとのこと。一トン近い荷をひく牛の姿が写実的です。

 俵牛の米俵三つは、江戸期「人一俵、馬二俵、牛三俵」と言われた史実に合っています。

5、 蒸気船――大阪から伏見を結ぶ淀川に、船体の両側に大きな外輪をつけ、水しぶきを上げて綱引き人足なしで川を逆上る蒸気船が二艘出現しました。明治四年(一八七一)のことでした。蒸気船の出現で、それまでの十石船、三十石船等の川船に大打撃を与えました。

 その後、同じ蒸気機関を用いた陸蒸気(汽車)が、イギリスより輸入され、明治一〇年(一八七八)二月に神戸・京都間に鉄道が開通しました。人々の目は、運賃の高さにもかかわらず珍しい陸蒸気に移っていきました。

 そして、明治二二年(一八八九)一〇月、東海道全線が開通したことにより、今まで大阪と伏見を連絡していた川船の利用は、急に減ってしまいました。また、明治四三年(一九一〇)の京阪電車の開通により、川蒸気の姿は消えました(軍用の火薬を運ぶ船は敗戦まで運航した)。

 蒸気船の土人形は、京都伏見だけでなく滋賀県の八日市の小幡人形にも現れました。これは琵琶湖の長浜から大津を結んだ蒸気船に因んだものです。この二つは酷似しています。

伏見人形カステーラ――

 ずっと以前、「太陽」という雑誌に日本の郷土玩具の特集が組まれました。当然土人形の代表として伏見人形が掲載されていたのですが、一枚の写真に目が留まりました。伏見人形のベビーカステラの写真でした。

 「西行も 牛もお山も 何もかも 土に化けたる 伏見街道」のみならず、「菓子に化けたる」に驚きました。数十年かけての店捜しの末、大手筋通御香宮前の「福若堂」さんを発見しました。味見は今の内です。
 
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