トップ ひろば一覧表 ひろば178号目次 
道徳教育の教科化とその対抗軸を考える


                碓井 敏正(京都橘大学名誉教授)
 

はじめに−安倍政権の教育改革の性格−

 2012年末に成立した第二次安倍内閣は、アベノミクスの名による、綱渡り的なデフレ脱却政策により経済の浮揚を図る一方で、歴史修正主義的立場から、「戦後レジームからの脱却」を目指そうとしている。安倍首相が教育「改革」に熱心であることは周知のことである。第一次政権時代に教育再生会議を発足させ、教育基本法を改定(2006年)したことは記憶に新しいが、その後、かれが短期で政権を投げ出したことにより、安倍流教育改革は頓挫せざるを得なかった。今回は政権発足後すぐに、教育再生実行会議を立ち上げ(2013年1月)、各種の「改革」を足早に実現しようとしている。その中心にあるのが、教育委員会制度の「改革」、教科書検定基準の見直しなどと並び、道徳教育の特別教科化である。

 本稿の課題は道徳教育の教科化に焦点を当てながら、安倍教育改革の意味と狙いを分析し、それに対抗する戦略を考えることである。その際、あらかじめ確認しておきたいのは、安倍首相の教育改革には、かれの歴史修正主義的復古主義が色濃く反映しているということ、この点は、近年の政権(民主党政権含め)による教育・研究改革が、国際競争力強化のための人材育成(生きる力やグローバル人材)とそのための機構改革が中心であったことに比べて、大きな特徴となっている、ということである。


T、道徳教育の歴史と道徳教育の特別教科化の狙い

 道徳教育の教科化が、戦前型道徳教育の復活を狙うものであること、その点で復古的性格が強いことを明らかにするために、ここで少し道徳教育の歴史を振り返っておこう。戦前の道徳教育は明治5年の義務教育開始(学制)以来、科目(修身科)として行われてきたが、西欧に追いつくことを目標とした知育中心の教育政策の下で、それほど重視されていたわけではなかった。修身科が格段に重視されるようになったのは、教育勅語制定(明治23年)以降のことである。

 その後、教育勅語が修身科だけでなく、太平洋戦争にいたる戦前の教育の柱となり、忠君愛国の精神を子どもたちに注入することによって、多くの軍国少年を育て、戦場に送ったことは周知のとおりである。それは教科としての修身科が、時の支配層のイデオロギーを注入する上で、格好の教育形態であったからである。歴史は繰り返すというが、教科化された道徳教育が果たした、歴史的に負の役割を理解しておくことは重要であろう。

 戦後、修身科への反省から、道徳教育は教科としてではなく、教育活動全体を通して推進する、いわゆる全面主義(科目特設主義に対して)へと転換した。しかしこの方法は長続きせず、戦後の右より教育再編の中で「道徳の時間」が特設されることになった(1958年)。しかし当時から現在に至るまで、「道徳の時間」は教科ではなく(したがって教科書はなく)、数値評価も行われてこなかった。現行の道徳の指導書に「道徳教育の目標は・・・学校の教育活動全体を通じて、・・・道徳性を養うこととする」「道徳の時間に関して数値などによる評価は行わないものとする」と記述されているように、週1時間の「道徳の時間」はあくまで、各教科や特別活動などの教育分野で足りない部分を補うための、いわば補完的時間として位置づけられており、その点では、全面主義の前提は不変であった。

 教育再生実行会議の提案する道徳教育の特別教科化は、このような戦後の道徳教育のあり方を大きく変えることを意味している。もちろん、戦後積み上げられてきた歴史を簡単に清算できるものではないし、「特別教科」という名称が示すように、他の教科と同じような教科書を作成し、道徳教育専任の教員を配置し、厳格な数値評価ができるわけでもない。しかし今後、安倍政権が続く限り、より厳密な教科化が押し進められることは、間違いないであろう。


U、安倍教育改革の復古的性格と戦後体制

 ところでこのような教科化の動きには、どのような背景が存在するのであろうか。その口実となっているのは、大津市の事件を始め、近年のいじめ問題であるが、実は中教審の審議では見送られたが、すでに第一次安倍政権の教育再生会議の第三次報告の中で、徳育の教科化が提言されていたのである。その点では、道徳の教科化は安倍首相をはじめとする、自民党復古派の宿願でもあった。第二次安倍政権による教育改革の背後には、自民党の更なる右傾化がある。この点を明らかにすることは、今後、国民に幅広く支持される運動を展開していく上で不可欠の作業と思われる。

 まず安倍政権の母体となる自民党の性格の変化であるが、確認すべきは、自民党は民主党に政権を奪われ下野して以降、その性格を立党の原点に戻る形で、一層保守化させたという事実である。政党の性格は時の政治情勢や他党派との関係の中で決まるものであるが、2010年の新綱領は、当時の政権党である民主党との差異化を図るため、保守的性格を顕著とさせている。立憲主義否定の復古的憲法草案(2012年)は、そのような自民党の新たな性格を現したものである。

 しかし重要なのは、安倍流保守路線が幅広い国民的支持を得ているわけではないという事実である。比較的高い内閣支持率は経済政策に対する期待と、民主党政権への失望によるところが大きく、決して国民が安倍政権の歴史逆行的保守主義を積極的に支持しているわけではない。その証拠に、立憲主義否定の自民党改憲草案に対しては、改憲派を含め反発が強く、96条先行改憲も挫折状態にある。また特定秘密保護法の強行に対する国民の反発は記憶に新しい。そして中国、韓国だけでなく、アメリカを含め国際的批判を浴びた靖国参拝や一連の歴史見直し論に対しても、国民多数は批判的である。このような国内外の反発を受けて、官房長官は村山談話や河野談話の継承を認めざるを得なかった。そのため、政権基盤は発足当時よりもかなり脆弱化している、というのが専門家の見方である。そもそも国際関係含め、戦後の秩序を根本的に覆すような動きは、国民や国際社会が受け入れることのできないものなのである。

 一定の価値を上から押し付けることにつながる道徳の教科化は、実は、自民党の立憲主義否定の復古的憲法観の教育における表現と考えることができる。しかし、この種の権威的教育改革に国民が賛成するとは考えにくい。というのは、「日本の国柄」に基づく「日本人らしい生き方」を押し付けようとする、自民党の改憲草案に対して国民が反発したのは、日本人は戦後、権利によって保障される自由で多様な生き方を享受してきたからである。このような市民社会の成熟の水準の内に、われわれの運動の可能性がある。

 この点との関連で重要なのは、安倍流教育改革をゆとり教育や個性尊重を柱とする教育改革と区別することである。この間の財界の人材養成に応える教育改革は、資本・経営の論理によって歪められてはいるが、道徳教育を教科化し、一定の道徳的価値観に子どもを注入するやり方とは基本的に性格を異にしている。財界が求めるのは、グローバルに活躍できる「生きる力」と高付加価値を生み出す創造力を有する人材であり、復古的、権威的価値を従順に受け入れる受身的存在ではない。安倍政権は両者を同時に遂行しようとしているが、われわれの運動論は、両者の違いを切り分けた上で、歴史逆行的な教育改革に批判の焦点を当てる形で組み立てられる必要がある。


V、教科化の教育的矛盾

 さてここで、教育的視点から道徳教育の教科化の問題性について、改めて論じておこう。簡単にまとめるならば、それは以下の二点に整理できるであろう。@特定の価値を国定のものとすることにより、教育の世界で立憲主義の精神を否定し、Aその価値を、学校教育を通して子どもに押し付け、その結果、子どもの人格的成長を阻害するという点である。@についてはすでに述べたが、付言すれば、教育目標はまず現場の生徒や先生、父母など関係者によって地域の実情を踏まえながら練り上げられるべきであり、教育委員会や行政が上から指示するものではない。教育行政は教育環境の整備に専念すべきであるというのが、立憲主義国家における教育の本筋であることを再確認しておきたい。

 次いでAの点に関わって強調すべきは、教科書を指定して評価を厳格化することは、道徳教育の知識化、形式化につながり、子どもの道徳性を発達させるどころか、「知識としては理解できても、実行できない」非道徳的な子どもを大量に作り出すことになる。いじめでもそうであるが、頭で理解することと、身に付けることとは基本的に異なるのである。

 わたしは大学で長い間、資格科目としての「道徳教育の研究」を担当してきたが、多くの受講生は、道徳教育イコール「道徳の時間」であると誤解しており、道徳教育にあまりよい印象を抱いていないことを感じてきた。その背景には、副読本に頼る「道徳の時間」が、道徳教育を知識化、形式化することにより、生徒の心に響かない道徳教育づくりに貢献している、という実態がある。

 道徳教育に限らず、人間が人格的に成長するのは、書物による知識を通してではなく、他者との現実的人間関係をはじめとした、自主的体験を通してである。その意味で、道徳の教科化は、押し付け的道徳を推し進めることによって、現行の道徳教育の矛盾をさらに拡大する恐れが強いと言わねばならない。一方すでに教育現場では、多くの実践が積み上げられてきている。今求められているのは、道徳の教科化ではなく、道徳教育を効果的に推進できる環境の整備であり、生徒の自主的活動を保障することによって、自律性と自治や協同の精神を育むことなのである。


W、対抗軸を考える−「愛国心」には愛国心で−

 最後に、道徳教育についての基本的捉え方と当面の具体的対抗軸を論じておこう。かつてわたしは、@道徳教育は教育の要であるということ、A現行の道徳教育の目標や内容には、人類の普遍的価値につながる側面が含まれているということ、Bこの点を踏まえて道徳教育的実践を、国家(文科省)・行政主導ではなく、教育現場、市民社会主導で展開することが大事であると論じたことがある(『教育基本法「改正」批判』文理閣)。ここではこのような立場を基本としながら、愛国心を例に道徳教育のあり方を論じておこうと思う。愛国心は「改正」教育基本法の論争点のひとつであり、また安倍流歴史逆行的な教育改革と切り結ぶ重要なテーマだからである。安倍首相の歴史認識に基づく「愛国心」は、かれの「戦前の日本のアジア侵略の見直し」や「慰安婦問題」に関する発言を見れば分かるように、排外的で偏狭なナショナリズムに通じるものであることは論を待たない。

 それでは愛国心をどのように捉えるのが、正しいのであろうか。この問題を考える上で参考になるのが、かつてアメリカの進歩的知識人の間で起きた、愛国心論争である。その中で多文化主義者のC・テイラーは、次のように述べている。「われわれはコスモポリタンであると同時に愛国者であるという以外に選択の余地はない、・・・そのことは普遍的な連帯に開かれているような種類の愛国主義のために、そうでない、より閉鎖的な種類の愛国主義に対して戦う、ということを意味している」(『国を愛するということ』人文書院)と述べたが、これこそ愛国心に対する、われわれの観点でなければならない。

 現行の道徳編指導書でも、「日本人の自覚をもって国を愛し、国家の発展につとめる」という内容項目と同時に、「国際的視野に立って、世界の平和と人類の幸福に貢献する」とあるが、これは「開かれた愛国心」を教育する根拠となる記述である。現場では、このような愛国心理解に基づき、総合学習(国際理解は文科省が示す四つの項目の一つである)などとリンクさせ、道徳教育を展開していくことが、偏狭なナショナリズムへの有効な対抗戦略となるであろう。愛国心をめぐるこのような現場での取り組みの効果的展開が、平和憲法と戦後の民主教育の伝統を護る運動ともつながるのである。


 
「ひろば 京都の教育178号」お申込の方は、こちらをごらんください。
トップ ひろば一覧表 ひろば178号目次