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リアルな子ども理解を抜きにした道徳教材
   
――『わたしたちの道徳 一・二年生』――


                石澤 雅雄(京都市つづり方の会)
 

  問題点は多々あるが、限られた紙数で三点に絞る。本書は、子どものにこやかな顔のイラストがちりばめられ、一見ソフトな印象であるが、実は一人一人のリアルな子ども理解を抜きにし、子どもを追い詰めるものであることを、具体例で示したい。


(1)巧妙に仕組まれた〈一方的押しつけ〉

 下村文科相は、「教師が一方的に教えるのではなく、あるべき道徳を子どもに多様な角度から考えさせる内容にした」と語ったとのことである。たしかに本書には、「この本のつかい方」として、「ともだちと考えを話し合いましょう」などとあり、結論を押しつけることなく、子どもたちの自由な意見が尊重されるかのような装いをしている。

 しかし、注意深く読めば、子どもの心理を利用し、巧妙に仕組まれた〈一方的押しつけ〉であることが分かる。具体的に見てみよう。

 低学年の子どもたちは、「書いたりぬったり」が好きである。その心理を利用したページが多くある。

「みの回りのものを、かたづけることができていますか。学校での(家での)様子をたしかめてみましょう。できたら、○に色をぬりましょう。」
「自分でやらなければならないことを書きましょう。できたら、○に色をぬりましょう。」
「よいと思うことがすすんでできたときのことを、思い出して書きましょう。そのときの気持ちも書きましょう。」
「一日をのびのびと明るい気持ちですごせたら、気きゅうの風船に一つずつ色をぬりましょう。」
「毎日の生活にはたくさんのあいさつがあります。どのようなあいさつがあるか、絵を見てかきましょう。」
「あいさつができたら、木のみにすきな色をぬりましょう。」
「できるようになりたいあいさつを書きましょう。」
「あいさつができたときの気もちを書きましょう。」

以上は、ほんの一部であるが、「書いたりぬったり」する作業を通じて、巧みに一定の方向に誘導しようという著者の意図が透けてみえるだろう。

 私は、「かたづけ」や「あいさつ」の指導が必要でないと言うのではない。「書いたりぬったり」したいという子どもの心理を利用して、「かたづけ」「あいさつ」をさせようという著者の誘導(=巧みな〈一方的押しつけ〉」)に、不純なものを感じてしまうのだ。

 さてその結果、子どもは「かたづけ」「あいさつ」が大事だと本当に自覚するのだろうか。ただ「書いたりぬったり」したいがために、そのときだけ、「かたづけ」「あいさつ」をすることになる、ということはないのだろうか。


(2)ネガティブな感情を「笑顔」で取り繕わせる

 さきに引用した「一日をのびのびと明るい気持ちですごせたら、気きゅうの風船に一つずつ色をぬりましょう。」というページについて、別の観点からも疑問を持つ。

 喜怒哀楽のさまざまな感情の中で、「のびのびと明るい気持ち」だけがなぜ色を塗れるのだろうか。そういえば、本書のイラストの子どもの顔はほとんどが笑顔だ。「のびのびと明るい気持ち」以外の、他の感情を持つことはいけないことなのだろうか。いつも笑顔でいなくてはいけないのだろうか。

 たしかに毎日を笑顔で暮らせる人生だったらいいなとは思うが、実際にはそんなわけはないし、いやしくも「道徳」の学習ならば、ネガティブな感情もまた、人を育てる重要なプラスの契機となりうることを言った方がよいのではないかと思うが、どうだろうか。

 大人の世界ならまだしも、子ども時代は感情を素直に顔に出した方が良い。この本は「笑顔」だけに値打ちがあるかのようなメッセージを子どもたちに送っているが、それは間違いだ。感情を素直に表現できない子どもを作るのではないかと、私は心配する。

 不登校に苦しむ子どもたちが増えているが、しばしばその子たちは、自分の苦しい思いを周りに表現できないでいる。その一つの理由として、ネガティブな感情をみずから恥ずかしいと思っていることがある。それは、問題の解決を困難にするが、〈ポジティブな感情=良いこと、ネガティブな感情=悪いこと〉という本書のメッセージは、それに拍車をかけてしまう。

 ネガティブな感情との向き合わせ方は、今日の子育ての重要なポイントだ。「笑顔」で取り繕わせるのは、解決にならないばかりか、子どもをさらに苦しませる結果になる。そういう重大な問題を、この本ははらんでいる。


(3)子ども理解の視点が欠けている

 「るっぺどうしたの」という読み物がある。三つの挿話から成り立っていて、第一話はるっぺの朝寝坊をする様子、第二話はるっぺが靴のかかとを踏んでいたりランドセルの中身を散らかしたりだらしない様子、第三話はるっぺが砂場で砂を投げてみんなにいじわるしている様子が描かれている。

 いろいろな点で気になる文章なのだが、もっとも気になるのは、朝早く起きられないとか、いろいろなだらしなさとかを、「不道徳」の問題としてとらえていることだ。実際には、そうした子どもはいろいろな発達上の課題や生活上の困難を抱えていたりする場合が多く、はじめから道徳指導の対象と見るのは決めつけではないかという疑問を持つ。

 私の経験では、たとえば、一年生のA子は忘れ物を繰り返したが、実は母親が病気で子どもの世話を十分してやれないでいた。一年生のB男は授業中に教室を歩き回ったが、実は緊張のあまりじっと座ってられないのだった。学校生活に慣れるにつれて落ち着くようになった。このようなことは、今日よくあることで、たいていは子どもの暮らしや発達上の問題を理解することで徐々に解決していく。子どもの表面だけ見て道徳指導の対象とするのは、かえって子どもの不安感をあおり、問題をこじらせてしまう。

 子どもの「問題行動」を、この読み物教材のように、読みようによっては「性格の悪さ」とか「生来のいじめっ子」とも取れるような文章で学ぶと、子どもたちもまた、互いの「問題行動」について、そのような決めつけた見方をするのではないだろうか。どのような「問題行動」も,子ども理解を抜きにしては語れない。その視点が、この教材には欠けている。
 誤解を恐れずに言えば、私は、どの子どもも「問題行動」をするものであり、また、それを契機として成長していくものだと思っている。そしてその成長を保障するもっとも大切なことは、道徳指導というよりも、親や教師が子どもを理解し、子どもたち同士もまた互いに理解し合うことだと思っている。


 
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