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●京都歴史教材たまて箱78

牛――人の願いやくらしを支え続けて



                          早川 幸生
   「ひろば 京都の教育」178号では、本文の他に写真・絵図などが掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」178号をごらんください。 
 

――天神さんと牛――

 京都の北野天満宮(天神さん)の参道の両側や境内には、二九頭の牛(なで牛)がいると言われています。天神さんにはなぜ「牛」が付き物になっているのでしょう。

 いくつかいわれがあるのですが、その第一は、菅原道真が牛年生れであったという説です。そしてその二は、平安時代の乗り物であった牛車の牛が、菅原道真に危険を知らせたことがあって、牛を特に大切にしたという説です。そして菅原道真が九州の大宰府で亡くなった時、遺体を運ぶ牛車の牛が途中で動かなくなったため、その地にやむなく埋葬したそうです。道真の死を悲しんだ牛がその場に座り込んだというものです。その地が、今の大宰府天満宮です。その後、その座り込んだ牛は臥(が)牛と呼ばれ、北野天満宮の牛もほとんどのなで牛が座った牛になっています。

 その他には、北野神社が農耕の神様であることから、牛はそのおつかい、農耕神のシンボルとして祀られているというのが通説です。

 また、菅原道真が大宰府で死んだ後、京都では落雷による人身事故や火事があり、「菅公の祟(たた)り」と怖れられました。しかし雷は常に雨を伴うため、農業にとって雨水は良い農作物生産には不可欠なものであり「ピカピカ、ゴロゴロ」は怖いものの、その後の「バラバラ、ザザー」の雨は歓迎されたのでしょう。今では学業成就の神様ですが元は農耕神です。北野神社のずいき祭として残っています。

 牛は朝鮮や中国などから古代に日本に入った動物で、農耕と荷役運搬に使われていました。


――牛祭――

 「太秦の牛祭」は、広隆寺の伽藍神である大酒(おおさけ)神社の祭礼で、毎年十月十二日の夜、広隆寺の境内で行われます。大酒神社の本殿には、秦始皇帝、弓(ゆ)月(づきの)君(きみ)と秦(はた)酒(さけの)公(きみ)を、別に呉(くれ)織(はとり)・漢(あや)織(はとり)を祀る延喜式の古い社です。

 もとは、大辟(おおさけ)神社といいました。「辟(さ)く」とは、開く(開墾・開拓する)ことと考えられるので、元はこの地域一帯の農耕殖産の神社として存在していたことが考えられます。

 そこに渡来人の一族である秦氏の来住によって秦氏の信仰・奉斉するところになり、一族の統領の秦酒公の名を同じくすることから、秦氏の氏神として、松尾神社と共に一族が崇拝するようになったといわれています。

 祭は赤鬼青鬼の格好をした四天王を従えた摩?(まだ)羅(ら)神が、牛に乗って境内を一巡することから「牛祭」といわれ假金堂の前に設けられた祭壇に上り、摩?羅神が祭文をながながと読み上げ、読み終ると同時に大急ぎで假金堂の中へ駆け込んで終るという、一風変った祭です。京都の奇祭の一つに数えられています。

 平安時代の長和元年(一〇一二)に、恵(え)心(しん)僧都(そうず)源信(げんしん)が、広隆寺の本尊阿弥陀如来報恩のため、摩?羅神という神を念仏守護の神として祭ったことが始まりです。ちなみに摩?羅神は、もとはインドの火の神様だったそうです。

 この時、鼻の尖った摩?羅神の紙の面は、悪疫除災のお守りになるということから、参詣者のうばい合いになります。嵯峨面の一種で、希望者は寺で買い求めることができます。


――農耕牛――

 牛は縄文時代の遺跡からも出土しています。日本へはアジア大陸から古くに伝来し、西日本を中心に家畜として飼育されて、農耕や荷物を運搬することに役立つ動物として大切にされ、頭数も次々と増加してきました。

 牛や馬など人間社会に役立つ動物も、長雨で川の氾濫を鎮めるための「生けにえ」として沈められた記録が残されています。が、その有用性の高さから、儀式には生きたものから素焼の土牛・土馬が使われました。馬も板に書いた絵の馬「絵馬」に変化し現代に存在しています。

 特に、性質もおとなしく、力の強い牛は農作業や荷物の運搬に適し、田畑の拡張に伴い牛の活躍する姿や様子が、絵画や農業指導書の中に描かれています。

 農業は江戸時代に目ざましく発展し、農機具の開発・改良が進んだと言われています。そして昭和の初めまで、道具や使い方も変らず続けられていたと言われています。勤務した三小学校で、学校創立周年記念行事として「子ども風土記」作りと「郷土資料室作り」およびリフォームに携わりました。そこでも牛が使った鞍や鼻輪、鋤(すき)やくびき等が校区各地域から寄贈され、展示することができました。その中で珍しい物として、伏見区の向島地域の「牛のわらじ」があります。作業する牛の蹄をいたわり大切にしたことを物語っています。

 また、昭和の中頃まで「貸し牛屋」業があり、春先に痩(や)せた牛を家に預けにきて、秋の稲刈りの後、丸々と太った牛を連れて帰ったそうです。業者は半年間農家に牛を貸す。借りた農家は、農作業させるかわりに、毎日の世話と餌を与えるという条件だったそうです。

 「子ども心に、今年はどんな牛が来るやろと楽しみやった。毎日世話をした牛が秋に連れて行かれるときは、本当に寂しかったな」昭和九年(一九三四)の室戸台風による校舎倒壊を経験された卒業生の方が、郷土資料室リニューアルオープン式の時、牛のコーナーの前で展示品を手に、ふと独り言のように口にされたお話です。


――牛車(ぎっしゃ)・御所車(運搬牛その一)――

 牛が引く乗用の車としての「牛車」が平安京で盛んになるのは、九世紀に入ってからといわれています。『日本後世』によると、「桓武天皇、平安遷都以後、天下の風俗一変して、貴族高門多く車に駕(が)し、牛を以て、これを挽かしむ」とあります。これは平安時代になって政治経済が安定するのに伴い、それまでの輿や騎馬から牛車への乗車の風がおこり、牛車の利用が拡大していったことを述べています。

 乗車の主体は始めは皇太子、皇太后、太上天皇と内親王以下後宮女官というふうに女性系列に拡大し、その後男性では天皇からの勅許という特別な事由をもつ宮中の官人から官人一般に拡がっていきました。

 牛車は、元は中国から律令制度とともに日本に入ってきた乗り物で、律令国家とその運用主体である官人・貴族社会以外には広がりませんでした。また、牛車はある程度整備された道でしか運行できず、平安京(京都)や都に準ずる整備された道をもつ限定された地域でしか運用できなかったことも、人的・地域的に広がらなかった原因だといえます。

 歴史の中で牛車が登場して記録に残るのは、江戸末期の和宮降嫁行列です。この行列は婚礼行事としては日本で最大規模で、中でも乗用具を使えたのは参列者の一%以下です。牛車には和宮とお付の女官だけで、使用できた地域は京都―大津と江戸だけと限定的でした。京都を出発した牛車は、大津で分解し運び、江戸でまた組み立てたとのことです。

 今、牛車が常時見られるのは、宇治市の「源氏物語ミュージアム」です。千年紀を記念して造られた実物大の文車(もんのくるま)が展示されています。


――車牛(運搬牛その二)――

 車牛がひいた牛車による運送が行なわれていた地域は、京都を中心に五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津)と、江戸、横浜、鎌倉、仙台、駿府そして箱根の七つの地域が確認されています。京都の牛車は慶長一九年(一六一四)の大阪冬の陣で輜重(しちょう)役を果たしたことによって、畿内だけでなく全国営業許可の特権を得ました。牛車が利用されたのは京津(山科)街道―大津、逢坂峠、山科、日ノ岡峠、粟田口、京三条と伏見・竹田街道―東洞院七条、伏見京橋そして鳥羽街道―淀、上鳥羽、京九条の三街道です。特にこの三街道には、人が通る歩道とは別に牛車道(車道)が設けられ、“歩車分離”が確立していました。

 特筆すべきことは、この三街道には花崗岩の敷石をレール状に並べ、登りや雨の日のぬかるみを考慮し、牛の負担を減じたことです。結果、車輪跡で溝の掘れた石は「車石」と呼ばれ、京都三街道周辺では大切に保存されています。

 主な荷は各地から二条城に運ぶ米で、一頭の牛が引く牛車と一台九俵の米は合わせると一トン(千キログラム)近くであったと記録されています。力持ちの牡牛が引きました。


――車牛はどこから――

 江戸時代に出版された「日本山海名所図会」に天王寺牛市のことが記されており、興味ある説明が添えられています。紹介します。

 「備前・備中の国、おほく牛を飼いて子を産す。すなわちこれを大阪天王寺におくる。天王寺孫右衛門と云ふ者、牛市のつかさなり。この人の印形なければ、諸国に売買すること叶わずとなり。年中備前・備中より牛を引き来ること、日々たえず。毎年霜月に牛市あり近郷の百姓思ひ思ひに牛を引き来りて、互いに交易売買す。これを牛博労(ばくろう)と云ふ。すべて牛を商ふに、値段相定まる時は、互いに牛に米をかましむ。これを売買の証拠とするかや」牛も人も生き生きと描写されています。

 近世京都周辺の車牛の産地は但馬であるという説が主流です。江戸町奉行からの、牛車に使用する牛についての問い合わせに対する答申が残されています。「播磨・丹波より出候牛の儀相尋ね候処、京都筋へ出申し候。関東へは参り申さず候」と。資料から京都の牛の出生は但馬であることがわかりますが、全てではなく備前・備中また伯耆・因幡など中国地方産もいたと考えられています。


――牛肉は薬――

 江戸時代牛肉は、薬としてほんの一部の人々に知られ、賞味されていたようです。滋賀県彦根の大名井伊家から、牛肉の味噌漬が将軍家と御三家に贈られていたといわれています。彦根藩には、このような記録があります。

 一八世紀の末になると、彦根藩の牛肉が江戸で注目されるようになり、寛政四年(一七九二)十二月に、寛政の改革を中心となり進めた老中松平定信から牛肉を求められ、彦根藩は定信に牛肉二桶を献上しています。また、寛政五年の四月に、幕府薬法方から彦根藩領内の薬用となる品々についての調査と報告を求められた際、牛肉を薬として挙げました。

 ただし条件として

「領分では古来より痛み牛等があり、それが世用に立たないときには、それを飼っておき冬季に処分して薬用としてきた。しかし、いつもあるものではなく、試しに差し出せといわれても差し出しがたいものである」

と書いて返答しています。この時はそれで済んだようですが、その後も老中はじめ幕府の要職のものや有力大名から、たびたび牛肉を求められたようです。「養生薬」「返本丸」という名で呼ばれていたようです。

 そして寛政九年には、十一代将軍徳川家斉の命として、牛肉献上が老中を通じて彦根藩に伝えられたため、藩から将軍に寒製干牛肉と寒製酒煎(さかいり)牛肉が献上されました。彦根藩には、享和三年(一八〇三)六月に将軍家斉に干牛肉一箱を献上した時の、将軍の謝意を老中が藩主井伊直中に伝えた老中奉書という書状が残されています。


――すきやき屋(京の牛肉食)――

 「牛は、天神さんのおつかい」とする京町衆。また、仏教の教えから、四つ足の動物の肉食をさけることの多かった京都の町で、牛肉食が広まっていったのは明治維新の文明開化でした。

 明治五年(一八七二)の一月二十四日、明治天皇の食事に肉が出され「吾ガ朝ニシテハ中古以来肉食ヲ禁ゼラレシニ、畏レ多クモ天皇謂シ無キ儀ニ思シ召シ、自今肉食ヲ遊バサレルル旨宮内ニテ御定メアリタリ」と布告されたことが、大きなきっかけであったようです。

 明治二十七年に発行された『京都案内都百種』では、牛肉の精肉店が十軒挙げられています。福沢諭吉は「肉食之説」で「今我国民肉食を欠いて不養生を為し、基生力を落す者少なからず。即ち一国の損失なり」と説いています。『安愚楽鍋』という牛肉食を推賞する本も出版されました。

 明治三十七年(一九〇四)元旦発行の「京都日出新聞」の附録には牛肉商として「御幸楼」「翁亭」「三嶋亭」「森田」「竹亭」の五店が有名店として挙げられています。

 五店の内現存するのは「三嶋亭」だけです。明治六年(一八七三)に現在の地三条寺町に創業し、すきやき店の草分けとして当時のガス燈とともに国内外で有名です。

 現在牛と言えばホルスタインに代表される乳牛と各地の肉牛ですが、京都では「歴史たまて箱・174牧場」に登場する「京都府営牧畜場(現京大医学部)」からの影響が大きく、飼育用にまかれたクローバーとともに京都一円に広がったとも言われています。京都が「幸運の四つ葉のクローバー」発生の地と言われている歴史的な経緯の一つといえそうです。

 
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