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■早川幸生の京都歴史教材たまて箱77

猿 猿に因んだ京の町めぐり

             −−早川 幸生
    「ひろば 京都の教育」177号では、本文の他に写真・絵図などが掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」177号をごらんください。
 

 「猿知恵」「猿真似」「猿芝居」そして「猿楽」「猿すべり」「猿の腰かけ」等、毎日の生活の中に猿に因んだことばや物がたくさんあります。勤務した左京区の比叡山や右京区の愛宕山の野猿をはじめ、高雄高山寺の「鳥獣戯画」の中で子ども達とともに、多くの猿に出会いました。

 東山区の旧弥栄(やさか)中校区の八坂の塔近くには「庚申(こうしん)さん」があり、梅の季節の参詣者の多さに驚きました。その参道には写真のような猿の人形(猿形)が軒を飾っています。「庚申さん」の門の上には「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿も。

修学院雲母(きらら)坂・比叡山の登り口には、赤山禅院があり、本堂の屋根に大きな猿が鎮座しています。地域の子ども達 の人気者でした。

 伏見の向島では「庚申町」という町名があり、昔は「大きな庚申塚があったらしい」という話も聞きました。四百年以上続くと言われる伏見人形にも「猿ちょろ」等もあります。

 猿と京都の町について調べてみました。


御所 「猿ヶ辻」

 京都御所に「猿ヶ辻」と呼ばれる所があります。場所は紫宸殿、清涼殿など宮殿群が長方形の築地塀で囲われた東北角です。御所の艮(うしとら)、鬼門(きもん)に当たる所です。資料のようにL字型にへこんでいます。

 鬼門の思想は、六世紀頃中国から伝わった陰陽道に基づいており、鬼が出入りするといわれすべてのことに忌み嫌う方角です。鬼門から出入りする鬼の災いを「さる」ということで、L字型にへこませた東側の築地塀の屋根裏に、立(たて)烏帽子(えぼし)をかぶり御幣(ごへい)をかついだ木彫りの猿を飾りました。鬼対策には役立ったようですが、木彫りの猿が夜な夜な出歩きイタズラを繰り返したり鳴いたため、天皇の安眠を妨げるということで金網を張り閉じ込めました。

 この辻は古来「つくばいの辻」と言われましたが、以後「猿ヶ辻」と呼ばれています。

 幕末の文久三年(一八六三)五月二十日の深夜、猿ヶ辻で鬼門を裏付けるような事件が起こりました。それは事件前年に尊皇攘夷派の督促で三条実美(さねとみ)とともに江戸に行った姉小路公知(きんとも)が御所での会議を終えての帰宅途中、猿ヶ辻にさしかかった時に幕府方の刺客に襲われました。頭に切り傷を負った二五才の公知は気丈夫に持っていた木の笏(しゃく)で戦い、刺客の太刀を奪い切り返したため、刺客は逃亡したとのこと。公知は数百メートル離れた自宅に自力で到り着いたものの、翌未明亡くなりました。その後明治維新史上有名になり語り継がれています。


「皇城表(おもて)鬼門(きもん)」赤山禅院の猿

 左京区修学院の雲母(きらら)坂沿いにある赤山(せきざん)禅院の拝殿には「皇城表鬼門」という大きな文字が掲げられています。これは天皇の都・京都の東北、表鬼門にあたるため、昔から方(ほう)除(よ)けの神として信仰を集め、後水尾上皇の時「赤山大明神」の勅額が贈られたということです。

 比叡山延暦寺の別院ですが、拝殿の屋根の上には写真のような素焼の猿が鎮座し、右手に御幣、左手に鈴を持ち京都全体の鬼門を守り、方除け・魔除けの任を負っています。

 赤山明神とは、天台の鎮守神で中国の赤山にある泰山府君のことで、昔から商売保護の神として知られ懸(かけ)よせ(集金)の神として崇拝されており、赤山を詣ってから懸取りに廻るとよく集金できると言われました。「五日払」は赤山の賽日が五日であったことによるとのことです。

 また、比叡(ヒエイ)も日吉(ヒエ)も共に稗叡(ひえい)から日枝(ひえ)が転じたもので、伝教大師最澄が王城鎮護のために延暦寺を建ててから「比叡山」と改められたと伝えられています。

 都名勝林泉図会を見ると、江戸時代に境内で猿が飼われていたことがわかります。


日吉(ひえ)大社の神猿

 日吉大社と猿の関係は明確ではないと言われていますが、古来猿は山の神、農業の神、また太陽の神として猿信仰が広がっていたとする説もあるようです。猿を神の使いとする考え方は中世以降になってでてきたようで、鎌倉時代に成立した山王神道書の『耀天(ようてん)記』に「神という文字は、申(さる)に示(しめ)すと書くから、神があらわれる時には、申に姿を仮りて示される」と述べられており、猿を神の仮身として崇め大切にしてきたことがうかがえます。

 奈良の春日大社が「鹿」を、伊勢神宮が「鶏」を、また熊野三山が「鴉(からす)」を神の使いとするように日吉大社では「猿」が神の使いとされています。西本宮の楼門を仰ぎ見ると、楼門軒下の四隅には木彫の猿がしっかりと柱や屋根を支え、西本宮はじめ日吉大社を守っているように感じられます。

 現在も西本宮の社務所前には「神馬堂」と「神猿」が並んで参拝者を迎えています。また、写真の西本宮参道の鳥居は「山王鳥居」と呼ばれる、神仏習合を表した形であると言われています。

 ここでは、猿は「山王神使 神猿(まさる)」と呼ばれ、昔から日吉大社のお使いで『魔(ま)が去る』『何よりも勝る』として縁起の良いものとされています。開運招福や交通安全の守りとのことです。

 資料の絵を見ていると、インドで発祥した猿信仰が、仏教とともに中国に入り「西遊記」の孫悟空に姿を変え、日本に伝わった説に肯けます。


狂言「靭猿(うつぼざる)」と平岡八幡宮

 右京区梅ヶ畑に平岡八幡宮があります。

 そこに一つの高札が立っています。「歌舞伎靭猿」と書かれています。「靭猿」の登場人物は、大名と猿引(猿まわしの親方)と猿です。歌舞伎の世界では子役時代に、この猿役を演じることが登竜門であったこと。またその舞台背景が平岡八幡宮の社であること。そしてその時代に、京都の郊外に町中で猿まわしを生業とする人々がいたことを知りました。


 狂言「靭猿」の内容を紹介します。

 <ある日、大名が冠者(従者)を伴って遊山へ出かける途中、「猿引」に出会う。大名が「やいやい、その猿はどこへ連れて行くぞ」と問われ、猿引は「それがしは猿引で御ざる、町へ猿まはしに参りまする」と答える。

 大名は、猿引が連れている「見事な猿」を見て靭(うつぼ)(矢を入れる筒状の器で、表面を毛皮でおおうことがあった)の皮にしたいと思い「その猿の皮を貸せ」と言う。猿引は仰天して断るが大名は聞かず、猿引と猿に矢を向ける。やむなく猿引は「猿よ、よう聞け。小さい時から飼うて、いま殺すは迷惑なれども、あの大名の皮を借ると御意じや、いま殺す、それがし恨みな、えい」と鞭を振り上げる。

 ところが、猿はその鞭を取って舟の櫓を押すまねをする。猿引は「死ぬことは知らいで、櫓を押すまねと思うて、櫓を押しまする。畜生でもふびんや」と泣く。そのさまに、さすがの大名も「許す、殺すな」と折れる。猿引は礼に猿を舞わす>というストーリーです。


庚申信仰とくくり猿

 京都東山区の「八坂の塔」として有名な法観寺の南西徒歩一分の所に、京都の庚申(こうしん)さんがあります。正式には「大黒山金剛寺八坂庚申堂」と言い、大阪四天王寺庚申堂、東京入谷庚申堂(現存せず)と並び日本三大庚申として有名です。

 庚申とは、干支(えと)の庚(かのえ)申(さる)の日を意味し、この夜に人間の体の中にいる三尺の虫が、寝ている間に体から脱け出して天帝にその人間の行った悪行を告げに行きます。天帝は寿命を司る神ですから、悪いことをした人に罰として寿命を縮めます。ところが三尺の虫は、人間が寝ている間にしか体から脱け出ることができません。だから自分の悪いことを天帝に告げ口されないように徹夜をする。これを人々は「庚申待ち」といいました。江戸時代にはとりわけ盛況で、社寺や個人の家で組織的に集う庚申講が全国各地、特に農村部で盛んであったようです。が、明治の廃仏毀釈によって急速にすたれました。

 「くくり猿」について調べてみました。くくり猿は、庚申さんへの参道沿いの家や、境内のお堂の軒先に吊るされています。猿が手足をくくられて動けない姿を表しています。これは、自然の猿のように動き回る人の心を象徴しているそうです。「意馬(いば)心猿(しんえん)」という言葉があるように、人の心は常に動き回って落ちつかないもので、それを庚申さんによってくくりつけられ、心がうまくコントロールされた良い状態を表しているそうです。

 日本最初の庚申さんと言われる京都八坂の庚申堂は、境内は狭いものの門や本堂の上、石燈篭の火袋等いたるところに、見ざる・聞かざる・言わざるの三猿が見られる心和む空間になっています。三猿捜しも楽しいです。

 二月一八日の初庚申に始まる偶数月の「庚申日」には、開基である浄蔵貴所由来の「こんにゃく炊き」の接待があり、多くの参拝者が訪れます。庚申さんの青面金剛の顔が怖いのは、みんなが悪い心を起こさないように怖い顔をしているようです。梅の頃がお勧めです。


「猿田彦神社」

 天孫降臨のときヒコホノニニギの命の道案内をした神で、日の神の使いである猿が先導役をしたとの伝承から、猿田彦神と呼ばれている。後に庚申信仰と習合したり、道祖神信仰と習合したりしました。

 山ノ内庚申猿田彦神社では、見ざる、言わざる、聞かざるの三神猿が世の諸悪を排除して、先の道開きの神・人生の道案内の神とされ、開運除災・除病招福のご利益で有名です。

 現在では、いろいろなお祭の先頭で、行列の先導役の大きな鼻の天狗のお面の方が猿田彦と呼ばれています。


伏見人形「猿ちょろ」

 現在唯一残る伏見人形の窯元、丹嘉の説明書によると「ちょろ」とは、正しくは「長老」のことで「長く老ゆる」即ち長寿・長生きを意味し、縁起の良いことの一つです。

 江戸時代から明治一四、五年頃までは、大神楽(伊勢地方からの獅子舞)と同様正月に、各家庭へ「長老が参りました。大福長老よ、長老を見る者福徳来たる」と縁起を祝に訪れる風習があったようです。それの土人形です。

 長老(ちょうろう)軒(けん)が訛ってチョロケンになりました。「お福チョロ」「猿チョロ」「徳子チョロ」「馬チョロ」等ありますが、特に「お福チョロ」は正月から福が来たと喜ばれたとのことです。「猿チョロ」も手にすずを持ち三猿神同様正月向きの目出たい人形とは思うのですが、かぶり物が気がかりです。伏見人形の中で数少ない朝鮮通信使と良く似たかぶり物です。

 来日を記念して作られた正使像、ラッパ吹きと共に、朝鮮通信使関連の可能性も伺えます。


伏見街道一之橋「瀧尾社(たきおのやしろ)」・素焼の猿

 JR・京阪東福寺駅から伏見街道を北へ五十メートル程歩くと、瀧尾の社があります。

 丹嘉さんのご主人、大西さんに御幣を持った「猿の人形」があることを教わりました。捜してみると、本殿に大きな素焼の猿が二匹、御幣を持って立っています。右側の大きいのは、伏見人形とのことです。もう一匹が屋根の上にとのことで、上を見ると金網に囲まれて座っています。

 宮司さんの話によると、御幣持ちの猿も屋根の上も共に有名な作家によるものとの事で、社伝では、人形屋幸右衛門の作と言われています。特に御幣持ちの方は、伏見人形の研究家である塩見青嵐氏の書に次のような資料が紹介されています。それは「京めいしょづけ」という古写本(江戸・元禄期?)によると


「瀧王社

 当社の内の北西の方に大木の松有 此木の枝に土細工の猿あり 昔鵤幸右衛門と云う人形師の伝ると云 (後略)」

 文頭の「瀧王社」は現在の「瀧尾社」のことだと考えられます。また文中の「大木の松」については、戦前まで神殿の北東にあり、本町通りに面し、その木の上に資料の図のように素焼の、手をかざした猿が置かれていたようです。花洛名所図会で確かめてみると、図のように二本の大木の松が描かれています。戦後廃れたため、神殿正面屋根に移されたようです。いずれの猿も目をカッと見開き、災いを祓う鬼門除けとして、信仰を集めたようです。大丸の創業者が参拝し、唯一大丸だけが氏子とのことです。

 
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