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好評 連載 早川幸生の「京都歴史教材たまて箱」
― 舎密(セーミ)局とワグネル博士
・・・明治初期、人づくり・物づくりの京の町を再興したドイツ人


                          早川 幸生
   本文には、○番号の写真が掲載されていますが、ホームページ掲載に於いては省略しています。
 

舎密局が校区に――

 昭和五十四年(一九七九)に新採教員として赴任したのが、下京区の番組小学校として明治二年に開校した、後の立誠小学校(中京区木屋町蛸薬師下ル備前島町)でした。市政開始当時は、上京区と下京区だけで、区分け線は三条通りでした。三条通から上(かみ)(北)は旧銅駝校区、下(しも)(南)は立誠校区と呼び、体育振興会も二つあり秋の区民運動会も二回実施され、秋の日曜日に二回体育主任として、綱引きの大綱や、玉入れの紅白玉、ピストルや紙玉、バトン等を運んだものです。文化活動も別々に、そして「高瀬川保勝会」も三条通を境に、行事や取り組み・立て札・看板等も違い、旧番組小学校区の自主自立の意識がそれぞれに異なりつつ、高いことに常に驚いていました。

 初めての家庭訪問で、元・銅駝中前を通った時に、校門横の「舎密局跡」の立て札@に気が付き、家庭訪問の時間を気にしつつ読んだのを覚えています。

 小学生の時、何も知らず「ワグネル博士」の碑に登って遊び、高校生の時、彼が何をしたのかを新聞で知ったものの、舎密局がどこにあるのかも知らないままでした。

 「舎密局て、この辺にあったんか」一人感動したものです。その後、木屋町二条角の「島津記念館と島津源三氏」のこと、また、市役所東側の「勧業場跡」、丸太町周辺の「女紅場」、「高瀬川の舟運」と「市電」のことなど、次々と校区内に江戸・幕末・明治維新の教材があふれていることに驚くのでした。

 また、銅駝・立誠校区それぞれに地域の郷土史研究家の方が多く、勤務した五年間に、何度も訪問したり学校に招くなど多くのことを児童と共に学んだのでした。「舎密局」Aは、シャミ局ではなく、「セーミ局」と読みます。オランダ語のセーミ(化学)が語源です。大阪府にもあったので、「京都(府)舎密局」Bとも言われます。


「ドクトル・ワグネル」の碑――

 左京区神宮道二条の交差点南西角に派出所があります。そしてその南には岡崎の府立図書館が建っています。小学生の頃、週に一、二回はそこの付属児童図書館に通っていたのですが、近くのいろいろな小学校(粟田小・新洞小・錦林小等々)から顔見知りの友達が集まると外遊びが始まりました。

 児童図書館のすぐ北の広場のようなところに、写真のように青銅版のはめられた大きな石造物Cがありました。鬼ごっこ、リレー、すべり台。チェーンの綱渡りなど多目的に活用しました。真ん中の銅板は外国人の男性像Dでした。

 その男性が誰なのかが判ったのは、高校二年生の春でした。昭和四〇年二月一日から始まった京都新聞の新連載「京都百年」の一〇五号でした。新聞を見るなり、「アッあれや。知ってる」と口走りました。連載が始まった一号の「遷都さわぎ」から興味のある号だけ切りぬきをしていたのですが、それ以来最終の六〇〇号まで欠かさず切り抜いて、今でも残っています。

 それ以来、京都舎密局と文中の「明治期の京の恩人ワグネル博士」が頭の中に刻まれました。銅板プレートの碑文Eを紹介します。

 『ドクトルゴッドフリード、ワグネル君ハ、獨逸(ドイツ)国ハノーヴェル州ノ人ナリ。維新ノ初(ハジメ)我邦(クニ)ニ来リ科学ヲ啓導シ、工藝ヲ掖進スルコト廿(20)餘年、殊ニ本市ニ於テ尤モ恩徳アリ。明治十一年君本府ノ聘ニ應ジ來テ、理化学ヲ医学校ニ、化学工藝ヲ舎密局ニ教授シ旁ラ陶磁七宝ノ著彩、琺瑯玻璃石鹸、薬物飲料ノ製造、色染ノ改善ニ及ビ、講演実習並ビ施シ、人才ノ造成産業ノ指導功效彰著官民永ク頼ル。大正十三年本市万国博覧会参加五十年記念博覧会ヲ岡崎公園ニ開ク。初メ本邦斯会ニ参加スルヤ君顧問ノ任ヲ帯ビテ本市ニ来リ。頗ル斡旋スル所アリ是ニ至テ市民益々君ノ功徳ヲ思ヒ、遂ニ遺容ヲ鋳テ貞石ニ嵌シ之ヲ会場ノ一隅ニ建ツ。庶幾ハクハ後昆瞻仰シテ長ニ 徳ヲ記念セムコトヲ、京都市長従三位勲二等、真淵鋭太郎誌ス』と記されています。

 一八六九年(明治二)の東京遷都によって千年の都京都は衰退していきますが、欧米の最新の技術(人)と設備を導入して強力な産業振興策を展開しました。その第一人者として京都の人々が慕い感謝したことがよく表されています。
碑文の中の製品について調べてみました。舎密局ではいろいろな理化学の研究や実験が行われ、またその製品が売りだされたようです。

 里没那垤(リモナーデ)公膳本酒(コウゼンポンス)依剥加良私酒(イホカラス)など清涼飲料をはじめ、石ケン、氷糖、七宝焼、陶磁器、ガラス、石版印刷、写真術など多種多様にわたっています。

(ア) 膳本酒(コウゼンポンス)――里没那垤は「レモネード」、公膳本酒は「ラムネ」のことです。もとは「ポン!」といって開くことから「鉄砲水」と呼ばれていたそうですが、威勢も良く、すうっとした味から大人気で引っぱりだこになりました。このことから、公(おおやけ)の膳、つまり宴会の席には乾杯用に今のシャンペンのようにつき物で、味もすうっとした味なので公膳本酒Fとなったといわれています。

 御所、中山邸の佑井(さちのい)で育たれた明治天皇は、京都の水が大好きなこともあり「京のポンスはまだ届かぬか」と催促され、京都舎密局謹製の公膳本酒が「しばしばお買い上げの栄によくした」と言われています。

 ジュースやサイダー、コーラ等の登場までは、京都のみならず全国の人気モノで、今も区民運動会や保育園・幼稚園の運動会のプログラムに「ラムネ早飲み競争」があるのも当時からの行事の流れや伝統であるようです。

(イ) 剥加良私酒(イホカラス)――これはビールのことで、ワグネルの母国ドイツのエキスポルトやボックビーヤからつけられたのではと考えられています。日本のビール麦の栽培は明治九年(一八七六)に北海道開拓使の札幌麦酒醸造所設立に伴い農家で始まりました。

 京都におけるビールの歴史は、やはり京都舎密局内で明治三年(一八七〇)にビール醸造の研究に始まります。舎密局内の理化学校での講義を受講した酒造業者も多かったようです。京都府では、明治十年(一八七七)には清水寺の音羽の滝の水を利用して府営の麦酒醸造所が建てられました。明治十年の天皇行幸の際に「扇印麦酒」と名付けたビールが献上されたという記録も残っています。

 「日本初のビール麦栽培の記念碑」があります。もともとは川岡小学校内に建てられていたのが阪急桂駅前Gへ。そして今は京都市西京区大原野上羽町のJA京都中央会農協研修所内Hに建っています。碑の正式名は「興産紀功之碑」と記され、幅一・四メートル、高さ約三メートルの大きな石碑です。

 阪急桂駅の周辺は、約一一〇年前ビール麦の産地でした。現在の川岡、川岡東、樫原の小学校区にあたる川岡村の農民が栽培を始めました。その時の農会長であった塩田助右衛門は、ビール麦の将来性にいち早く注目し、「川岡村ゴールデンメロン大麦作人組合」を立ち上げ、現アサヒビールとの契約栽培を提唱し、日本発のケースとなり、全国のモデルになりました。作人組合の誇らしげな自信にあふれた碑です。

(ウ) 石鹸――京都舎密局の平面図や写真を見ていると、三階建ての洋館に目が留まりますI。これが石鹸製造所で、初期の舎密局の事業として創立とともに石鹸製造に着手し、明治五年には製品を売り出しています。明治五年六月に発行された京都新聞に「石鹸の話」として次のような記事が載せられています。

 『石けんは、油とアルカリの化合したもので、上等のものは、飲めば胃を丈夫にし、便通を良くする。毎日浴用に使えば、身体が美しくなる。舶来品の中には、ヤシ油を使ったものがあり、品質の悪いのが多いが、ここで作ったのは上等で、薬用として飲んでも心配ない。値も安い。安心して使ってもらいたい』石鹸を作ったのも日本で初めてであるだけでなく、以上のようなコマーシャルにもそつのないところをみせ、明治五年に舎密局はこう公布しています。自信と意欲に満ちています。

 また、石鹸の製造は第一に薬用を目的にしましたが、もう一方では京都特産の絹織物の精錬に用いるという目的がありました。舎密局の中では、石鹸工場は三階建てで一番目立ち、製造への意欲が感じられます。後の京都府知事になる明石博高は、舎密局時代に絹の石鹸練を初めて採用し、織物染物の改良に努力したことも有名です。

(エ) 七宝焼――僕が生まれ育った東山三条から白川橋、神宮道付近(昔の粟田口)には粟田焼、七宝焼、象嵌と呼ばれる伝統工業(工芸)の店Jが何軒もありました。外国からの観光客向きでした。

 特に「稲葉七宝店」は、毎日一回大型の観光バスが店先に駐車し、外国人観光客が何十人も店に入っていきました。店の同学年の少年が友達で三条通を挟んで向い合わせだったので、店先からショーウインドウ越しに色鮮やかな大型の壺や花瓶等を見ていました。

 ワグネル博士の碑文に「陶磁七宝」の文字を見つけ、生家近くの「稲葉七宝本社」に向かったのですが、本社はもうありませんでした。

 懐かしい「Inaba」の大きな屋根看板に再会したのは、白川橋東入堀池町の「並河七宝記念館」Kでした。「錦雲軒稲葉」の展示資料です。

 並河さんは、僕の生家の隣の町内でした。小川治平衛(造園家・植治(うえじ))の宅や苗畑があり、並河医院の看板のかかる「お医者」さんでした。何度も母の「お使い」で訪れました。「並河七宝記念館」として、所蔵品と邸宅・小川治平衛作の庭園が公開された時は非常に驚きました。先々代の靖之氏が一生涯かけ、当地で「七宝焼」に取り組んだのです。

 今回の取材で記念館を訪れ、学芸員の方にお話を伺いました。結果は「記録等にワグネル氏に会ったとか、直接指導を受けたことはないが、当時近隣であった稲葉氏との交流もあり、ワグネル氏が七宝に力を注いだ顔料・彩料色素の調合への関心や影響はあったはず」と語られました。今後の研究・調査が更に楽しみです。


ワグネル博士と島津源蔵親子(島津製作所)――

 一八三九年(天保一〇)、京都の仏具職人の家に生まれた初代島津源蔵は、三六才の時に独立し科学立国の理想に燃え、京都府が開設した舎密局、勧業場、栽培試験場、織工場などがあった木屋町二条界隈に、教育用理科学器械の製造業を始めました。一八七五年(明治八)のことです。現在の島津製作所の誕生です。

 一八七八年(明治十一)京都舎密局に着任したワグネル博士の教えと影響を受けた多くの人々の中に、初代島津源蔵がいました。一八七七年(明治一〇)には、日本で初の有人水素気球の飛楊Lに成功しました。場所は現在の京都御苑の中で、その名は一躍全国に知られるようになりました。

 現在木屋町二条に「島津製作所創業記念資料館」Mがあります。島津製作所の創業一〇〇年(昭和五〇)を記念して開設されましたが、その中の展示物に日本に現存する最古の足踏式木製旋盤Nがあります。開設には「ワグネル博士がウィーン万国博覧会から帰国する際持ち帰った物を、明治一四年京都を去る時、初代源蔵に譲り渡し、明治中期まで使用されたとのことです。舎密局を介したワグネル博士と初代島津源蔵の深い交流を今に伝えています。

 二代目源蔵は、二五才で父の後をつぎ「ウィムシャースト感応起電機」の完成をする等「島津の電気」と呼ばれ、GSバッテリーのGは「GENZOU」のG、Sは「SHIMAZU」のSから名付けられました。また、レントゲン博士のX線発見の翌年の一八九六年(明治二九)にX線写真の撮影に成功するなどして、一九三〇年(昭和五)には日本一〇大発明家の一人に選ばれました。
 
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