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■早川幸生の京都歴史教育たまて箱74

牧場(まきば・ぼくじょう)
――物資を運搬し、田畑を耕し、人々の栄養を支えた牛馬等家畜の安住の地――


                 早川 幸生

 

 牧場との出会いは、京都市左京区の修学院小学校での地域学習と農業・牧畜業の学習でのことでした。

 五年生の社会科の授業で、地域の農業について調べ学習の発表の時のことでした。

 「修学院小学校の校区に、乳牛(ホルスタイン)を飼って牛乳を搾っている牧畜家があります。場所は僕の家の近く、修学院離宮の農場と音羽川の間の地域にあります」

と、一人の男子児童が発表しました。彼の調査によると、戦争が終わってから現在まで三頭~五頭のホルスタインが飼育され、家族で搾乳したあと地域の牛乳工場に納品していることを報告してくれました。

 また、他の女子児童は地域の工場調べで、

「地域の牛乳工場は、大正時代に始まり、戦争終了後、学校給食と共に会社規模が順々に大きくなったこと」(今現在は惣菜会社)「学校給食に出された脱脂粉乳の後、ビン牛乳になり、ピラミッド型のテトラポット型になり、今は直方体になっています」

と、工場で会社の人に教わった数々の報告をしました。

 児童の報告で、詳しく知りたいことや疑問点を教えてもらうために牛乳会社を訪れました。会社の方の話から、もともとは会社のある近くに放牧場があって、そこで飼っていた乳牛の乳を販売していたことが牛乳工場の始まりであったことや、左京区にあった農家・牧畜業農家の牛乳を集め、徐々に規模が大きくなったことを教えてもらいました。(岩倉・松ヶ崎・修学院地域)
 そして、その放牧場とは、現在の白川通りから数十メートル比叡山寄りの石垣が積まれた段々畑のような所で、乳牛が放牧されていたこと。また、牛の糞尿で肥えた土地や、土を利用して畑作等が行われ、古代から昭和三十年代まで行われていた牧農によく似ていたようです。特別に牧場をもつ畜産農家は少なかったそうです。また、明治時代の初め、荒神橋周辺に「鴨(おう)東(とう)牧場」という府立の牧畜場があったことも学びました。


牧(まき)

 牧とは家畜を放牧するための農地・区域のことで、日本古代においては、牛馬は舎内飼いではなく原則的に年間放牧して育成されていました。

 律令国家の統一には馬が不可欠な手段であったので、朝廷は各地に牧を設置しました。『大宝令』(七〇二年)によると、摂津など十三ヵ国に十七の官牧が記されています。近畿に設置されたので近都牧ともいわれました。

 続いて慶雲四年(七〇七)には東国・九州など二十三ヶ国に国牧が設置され、さらに『延喜式』(九二七年)によると、国牧とは別に勅旨牧(官牧)が甲斐に三牧、武蔵に四牧、信濃に十六牧、上野に九牧設けられました。

 これらの牧からの貢馬数は、甲斐六〇匹、武蔵五〇匹、信濃八〇匹、上野五〇匹と決められています。需要の増加から各地に開かれました。当時不支配だった東北地方・蝦夷地の地には、官牧は設けられていません。

 後、中世の武士団は、官牧を横領して馬を生産したようです。江戸時代諸藩では、馬奉行を置いて農耕馬までも管理したようですが、東北・関東・九州などでは藩営牧場や幕府営の牧場が設けられました。

 明治時代になると、小岩井農場をはじめ各地に牧場が開設され牧畜業が国策として始められ、民間にも普及し現在に至っています。

 一方、日本海や瀬戸内海の島々では、畑地と牧場を転換する土地利用がありました。有名なものとして「隠岐の牧畑」で、第二次世界大戦後まで存在していました。


山科東野「表徳碑」(西運寺)

 山科の山階南小学校の校区を東西に横切る旧道があります。妙見道と呼ばれています。山科のほぼ中央部に「三ノ宮神社」がありますが、その北側を妙見道が通り、少し東へ行くと西運寺(東野八反畑町)に着きます。

 門前に写真のような「表徳碑」と呼ばれる石碑が建っています。(碑文は資料参照)京都寺町御池下ルにある旧舗「京都鳩居堂」の当主熊谷直恭(蓮心)が、一八二五年(文政八)に東野村に放牧場を作り、農耕や運送に使用できなくなった年老いた牛馬を集めたり、洪水で悩まされていた村を救ったことなどを伝えるために、一八八八年(明治二一)に建てられたものです。建立者は「山城国宇治郡東野村人共謀立石・総代安田伊右ヱ門」と刻まれ、地元村人が共同で建てたものです。

 文政八年に山科三ノ宮妙智院で牛馬放生を始めた時、農家に配られた木版一枚摺りのチラシ「老衰牛馬放生勧進辨」が鳩居堂に残されています。そこには「老牛を見捨て、我家を追出し、某行末を思わざるは無慈悲千万、神仏もかなしみ給う。一生飼置給へば子孫必ず繁昌成べし」と諸国に牛馬放生を勧めています。

 山科は、東海道(中山道)奈良街道が通り、参勤交代をはじめ、伊勢参宮の旅人や近江からの米や京の都への諸物資の運送に活躍した、牛馬が数多く存在したことが考えられます。

 山階南小学校の児童が卒業後学ぶ山科中学の敷地は、「昔は、放牧場やった」と語られた地域のお年寄りの言葉を実感できる石碑です。


日本人と牛乳の出会い

 日本人の多くの人にとって、牛乳との出会いは学校給食だったという人が多いようです。僕も一九五〇年代、給食時間にアメリカからの救援物資であった脱脂粉乳を、鼻をつまんでアルミのお椀で飲みました。

 牛乳が人間の歴史の中に登場したのは・・・・紀元前四千年、古代エジプト、メソポタミアの時代に乳の利用が始まった記録があります。人間の営みは動物との関係が深かったことはいうまでもありませんが、遊牧や動物の家畜化のなかで、「乳をしぼる」ことが始まり食糧としていったことが考えられます。

 日本の歴史の中では、大化元年(六四五)に「牛乳」としての記録が残されています。搾乳の方法の一つの説は、百済から帰化した知聡という人によって伝えられた説で、知聡は「大和薬使主(やまとくすしおのおみ)」の姓を賜ったとされています。

 また、現存する日本最古の医学書といわれている「医心房(九八四年完成)」には、「牛乳は必ず一~二回煮沸して、冷やして飲むこと」「蘇(ソ)や酪(ラク)は全身の疲労や衰弱を助け、通じをよくし、皮膚のつやを良くしてなめらかにする」と記されています。医薬品だったのです。

 この蘇(ソ)(または酪)は「牛乳大一斗(約七、二リットル)を加熱し、約十分の一に凝縮したもの」とされています。チーズのようなもののようです。他に「醍醐(だいご)」といった乳製品も作られたようで、「醍醐味(だいごみ)」(醍醐のような非常にうまい味、深い味わい、本当の楽しさ)といった語源にもなるくらい美味く、また珍しい物であったと考えられます。

 「続日本紀」によると、七一〇年頃には今日でいう酪農家が六十戸もあり、当時の朝廷は牛乳院(乳牛飼育舎)、乳の戸(指定酪農家)等を設置したようです。しかし、乳製品を口にできたのは限られた特権的な貴族階級でした。

 その後は、伝来した仏教思想による「肉食禁止令」により江戸時代まで食糧として表に出ることはありませんでした。

 私たち庶民が牛乳を口にできるようになったのは、昭和の初期です。一九二八年(昭和三)に、広口ビン紙キャップの牛乳が作られるようになりましたが、第二次世界大戦へと続いた十五年戦争による「統制経済」のため、乳業の発展は妨げられます。その結果、また庶民が牛乳を口にできなくなってしまったのです。

 そして戦後「アメリカ的食生活」が、アメリカの占領政策の中で強引に食生活に入って来て、牛乳が身近なものになりました。鼻をつまんで飲んでいた脱脂粉乳からビン牛乳になったあの日のことは、今でも忘れることはできません。牛乳の本当の味を知ったのです。


京都府の畜産振興策と農牧教育

 「京都府市の牧場・牧畜のことを調べるのなら」と、府立資料館で閲覧させてもらったのが「京都府誌」と「農業全書」でした。抜粋して引用します。

 「明治初期における本府畜産施策として、特筆すべき府営牧畜場は、明治四年一〇月政府の設立許可をうけ、翌五年二月米国輸入した洋牛デボン種三四頭と羊一九頭の到着をまち京都市聖護院の元練兵場跡の払下をうけ開設した。なお同九年には船井郡蒲生野に牧畜場出張所すなわち府農牧学校を開設し牧畜事業と農牧教育の充実をはかった。当時牧畜場経営と農牧教育の任にあたったのは府が雇入れた米人ウィードである。これらの施設は、札幌農学校、駒場農学校とともにわが国農業教育の先駆をなすものであった。ウィードは場の内外を問わず精力的に活動を続けたが、大農式農業教育の失敗と、当時畜産を根幹とする農業経営方式を受け入れなかった地域的背景により、農牧学校、府立牧畜場ともにウィードの明治六年以来六年間におよぶ任期満了とともに明治一二年相前後して廃止の止むなきに至った。(後略)」と記されています。

 植村知事の独断により廃止になったことに対し、当時京都府の関係者であった旧会津藩士の山本覚馬等は、新島襄を介して、札幌から帰米したクラークに後任を求め、存続をはかったものの実現しませんでした。

 船井郡の牧畜出張所と府営牧畜場を区別するため、荒神橋東の牧畜場を「鴨東牧場」と呼んだことや、府農牧学校が現・府立須知高校であることもわかりました。

 江戸時代の記録としては一八六三年(文久三)、横浜の前田留吉という人がオランダ人の指導で乳牛を飼い、搾乳し、主に横浜在住の外国人を相手に牛乳を量り売りした記録が残っています。

 明治に入ると政府が酪農の振興を図りました。アメリカから乳牛を輸入し、学者や専門家を招き普及した結果、明治末には五千五百頭、大正末には十三万三千頭の記録があります。札幌農学校のクラーク氏、京都府農牧学校のウィード氏等のアメリカ人が知られています。


「牧畜場記念碑

 左京区修学院校区の元畜産業従事者から聞いた「鴨(おう)東(とう)牧場」について、詳しく調べないまま十数年が経ちました。今回の牧場シリーズのため、京都歴史資料館と府立総合資料館を訪れたのですが、意外と資料が少なく困りました。学芸員の方に教えていただいた「京都府誌」と「農業全書」に資料館で出会え、「牧畜場記念碑」の所在を知ることができました。

 京都市左京区荒神橋鴨((おう))川東((とう))畔。現在地名は京都市左京区吉田下阿達(あだち)町。幕末には、愛宕(おたぎ)郡聖護院村と呼ばれ、会津藩松平屋敷があった所です。文久四年(一八六四)に徳川幕府軍事総裁兼京都守護職代行に任命された会津藩主松平容保(かたもり)が、三七〇〇〇坪の当地を副邸地として与えられ、練兵場としていたようです。

 明治維新直後は、新政府兵部省の屋敷兼練兵場敷地となった所です。

 僕が見た本では「現在の京都大学東南アジア研究センター前庭南側に小さな築山が見え、その木陰にひっそりと畳一畳大の石碑が立っている」と書かれていました。さっそく次の日「牧場記念碑」の写真を撮りに、荒神橋東畔の京大東南アジア研究センターを訪れました。しかし、川端通からは以前のレンガ建てのセンターは見えず、「稲盛財団記念館」があって前庭の築山はもちろん、畳一畳大の石碑もありませんでした。

 記念館の受付の方に尋ねると、「何の石碑かわかりませんが、大きな石碑なら敷地の北西隅に・・・」と教えてもらったのが、写真の碑です。同時に「明治天皇行幸所牧畜場址」(明治十年二月一日行幸)の碑も発見することができました。

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