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特集2 高校教育のあり方を考える

総論
「適格者主義」を乗り越える
−高校教育の真の改革に向けて−


          佐古田 博(京都府立高等学校教職員組合 執行委員長)
 

高校教育をめぐる新たな段階

 「高校問題はむずかしい」―――この十数年来、私たちはよくこの壁にぶち当たった。高校制度や高校入試の学習会では、「そもそも…」から始めなければならなかった。高校問題の研究者も少なく、教育運動の中で高校問題は義務教育と比べてやや遠い存在になっていたのではないだろうか。

 第一の要因は高校教育の多様化である。多様化=「特色化」は高校教育の複雑化を招くとともに、課題の個別化を進行させ、高校教育としての共通の課題を見えにくくした。

 第二は、新自由主義的教育政策の中で拡大した「選択の自由」に対して、私たちが対抗軸を構築できなかったことではないか。

 かつての高校三原則闘争のように、高校教育のあり方をめぐる共通の議論の基盤が見い出しにくくなっていた中で、高校無償化問題は重要な画期となった。高校教育の保障を社会全体の課題として位置づける機運をつくり出した。その延長上にある国際人権A規約一三条二項(b)(c)の留保撤回は、その機運を一歩前にすすめた。

 私が関わった日高教の「新たな高校教育政策」で投げかけたのは、無償化時代という新たな段階における高校教育の議論である。いくつかの雑誌で高校教育の特集が組まれている(1)。私たちが投げかけた問題提起が広がり豊かに発展していくことを願っている。自公政権への回帰によって無償教育政策が後退する危惧はあるが、多様化・個別化の中で見えにくくなっていた共通の高校像を構築する新たな段階に入ったのではないだろうか。


高校教育をめぐる政策動向と「新たな適格者主義」

 無償化時代の高校教育のあり方として考えなければならない中心的な課題は、「適格者主義」ではないだろうか。

 「適格者主義」とは、一九六三(昭和三八)年の「公立高等学校入学者選抜要項」(初等中等局長通知、以下「六三通知」)において、「高等学校の教育課程を履修できる見込みのない者をも入学させることは適当ではない」とした上で、「高等学校の入学者の選抜は、…高等学校教育を受けるに足る資質と能力を判定して行うものとする」と規定した点をさしている。高等学校の進学率が約六七%であった時期の考え方である。

 その後、進学率が九四%に達した一九八四(昭和五九)年の通知(以下「八四通知」)では、「高等学校の入学者選抜は、各高等学校、学科等の特色に配慮しつつ、その教育を受けるに足る能力・適性等を判断して行う」とあらためた。

 この変更について、行政側は「高等学校の入学者選抜は、飽くまで設置者及び学校の責任と判断で行うものであることを明確にし、一律に高等学校教育を受けるに足る能力・適性を有することを前提とする考え方を採らないことを明らかにした」(2)と説明している。つまり、「六三通知」にいう「適格者主義」はとらないとしている。

 確かに表現は異なるが、本当にそうなのか。「六三通知」は高等学校教育全体への「適格性」を問うものであるのに対して、「八四通知」は「各高校の特色に応じた適格性」を問うものに変化している。高等学校教育の多様化と各高校の特色化に対応し、その「特色」への「適格性」を持った生徒を集める発想である。これは、「適格者主義」を放棄したのではなく、多様化のもとでの「新たな適格者主義」に他ならない。

 現在、中教審の初等中等教育分科会に設置された高等学校教育部会で高校教育問題が審議されている。今後の高校教育のあり方に関して、当初、事務局側(文科省)は高等学校の「類型」化を持ち出してきた。第七回部会に示された「課題の整理と検討の視点(案)」には、「高等学校という一律の括りではなく、…各学校の育成すべき人材像に応じて類型を念頭に置いた施策」が有効として、五つの類型が示された。それは@社会経済活動の基盤を担う人材育成をめざす学校(注:普通高校のこと)、A専門的職業人に必要な資質・能力の育成をめざす学校(注:職業高校)、Bリーダー層やグローバル社会において国際的に活躍できる人材育成をめざす学校(注:「スーパー高校)、C芸術・スポーツ等の特別な才能を伸ばす学校、D自立して社会生活・職業生活を営む基礎的な能力の育成をめざす学校(注:「エンカレッジスクール」などの例)、である。「八四通知」と関連させれば何をめざしているかは歴然としている。

 ただし、この「類型」化に対しては委員から疑問や反発が相次いだ。「『類型』という言葉には違和感を覚える。時代に逆行している」「タイプ別学校は望ましくない。進学校の先生が楽をするためと思われても仕方がない」「今までの多様化路線への反省がない」「従来の多様化路線の小手先の改革ではインパクトがない」など、文科省に刃向かわないメンバーを集めた中教審らしからぬ白熱した議論となった(発言要旨は傍聴者の記録による)。結局、「類型」化は取り下げざるを得なくなった。

 高校部会では、興味関心・能力・適性・進路等における「高校生の多様化」を前提としながら、@「高校教育ですべての生徒に最低限学ばせるべきもの(=コア)とは何か」、A「高校教育の質保証のあり方」という二つのテーマの審議をすすめている。部会審議のキーコンセプトとして、小川正人部会長は「高校教育におけるコアと生徒の適性や希望、進路等に応じた多様でていねいな学習支援と保障(各学校へのとりくみの支援と振興方策)、それらの質保証を国や自治体、学校がどう図っていくか」としている(3)。

 第一六回部会に提示された「審議の経過について(骨子案)」では、高校多様化の「成果」をあげる一方で、「『高校教育として共通に求められるものは何か』という視点が弱くなっている」「生徒の学習意欲の後退」「高等学校教育に対する信頼性のゆらぎ」等を指摘している。その上で、「多様化が進展する中にあって、『高校教育とは何か』についての共通認識を改めて構築し、その上に立って、高校教育としての質の保証を追求」していくなどを課題認識として列記している。これを読むと、高校多様化が深刻な行き詰まりを起こしている状況を反映していることがうかがえる。「審議の経過」は一月末に開催される次回の部会で決定される予定である。今後の審議と具体化が注目される。


京都の公立高校改革と「適格者主義」

 昨年十一月、京都府・市教育委員会は「京都市・乙訓地域公立高校の新しい教育制度(案)」を発表した。かろうじて維持されてきた総合選抜制度の完全廃止を含む改編である。府教委の担当課長によると、一九八五年の高校三原則廃止以降の「高校改革の総仕上げ」としている。

 制度(案)にもとづく改編にあたって、府立高校の中で排除の論理による「むき出しの適格者主義」が見られる。
 一つは、各高校の「特色づくり」である。

 京都市・乙訓地域を一つの通学圏とし、普通科二一校を自由に選べる単独選抜とするため、各公立高校に「特色づくり」が求められている。これは生徒の選択肢をつくるというより、各高校の差別化を図り、「特色づくり」を競わすためである。教育委員会は「各学校に任せたものであり、決して押しつけるものではない」としているが、中学生に示す紹介資料のサンプル(教育委員会が作成?)には「コース名記載」の例示や「写真・イラストを記載」「数値目標などを盛り込む」などの指示がある。

 府立高校が三校設置されている乙訓地域では、A高校は「英語」、B高校は「文化」、C高校は「スポーツ」というように、校長どおしで「特色づくり(=コース設定)」の調整が行われているということらしい。「文化」コースのB高校では、「伝統文化」を強調し、着付け教室や華道・茶道教室を教科の時間に行っている。

 こうした動きは、「八四通知」をもとにしてすすめられている。学校ごとに設定された「特色」を選ぶことは「新たな適格者主義」に他ならない。しかし、子どもたちの興味関心・能力・適性・進路がこうした「特色=類型化」で括れるわけではない。公立高校の役割は、どの地域にあっても、基礎学力や自治活動など高校生として必要な学びの場を保障することではないか。求められているのは、多様な子どもたちに対応するために多様な高校をつくることではない。

 もう一つは、「土曜授業」問題に典型的にあらわれている。

 二〇一二年度に京都府教育委員会は、公立学校を実践研究指定校として土曜活用事業を実施した。小・中学校では授業参観の他、地域学習やPTA・体育行事などが行われたが、府立高校五校はもっぱら授業であった。

 これと軌を一にして土曜授業問題が浮上した。先に述べた「特色づくり」が背景にある。例えば鳥羽高校は、中学生に示す一三年度入試の「特色選抜」資料に「土曜を含む週三六時間授業」を明記した。月〜金に三四単位の授業(一日は六限、他は七限授業)、土曜日は月二日授業(二単位分)という形態である。

 鳥羽と同様の動きは京都市・乙訓地域の公立高校で見られる。そこには「週の授業時数が三〇では中学校・保護者から『進学校』と見られない」という心理が働いている。逆に言えば「三〇にすると勉強嫌いが集まる『底辺校』と見られる」という「恐怖感」がある。土曜授業を導入する理由を「困難な子が選ばない学校にしたい」「1年目にいい子を集めたい」とする府立高校もある。公立高校の使命も公教育の役割もかなぐり捨てた理屈が横行し、それを教育行政が後押ししてるのが実態である(4)。

 そもそも単独選抜は学校ごとの偏差値がないと立ちゆかない制度である。保護者向けの説明会でも「教育委員会が偏差値を出してくれ」という意見が出るほどのゆがんだ制度である。「適格者主義」が偏差値にもとづく「輪切り」を生み、これがいかに子どもたちを傷つけるか、今一度思い起こすことが重要ではないか。


「適格者主義」を乗りこえる−高校教育改革への視点

 以上のことを考えると、「適格者主義」を乗りこえることは、高校教育観を根本的に転換するための重要なカギといえる。

 第一の視点は、無償教育の理念をこれからの高校教育に生かすことである。

 無償化を議論する際、「教育費の無償化」という表現がよく使われるが、無償教育を教育費の問題だけに狭くとらえている。「教育の無償化」こそがこれからの高校教育に求められる概念だと考える。お金の心配なく教育を受けるという点では教育費問題であるとともに、誰もが等しく豊かな教育を受ける権利を保障されるという意味で、無償教育=「教育の無償化」でなければならない。

 当たり前のことだが、無償教育の理念と「適格者主義」は相容れない。高校無償化を唱えながら、一方で「適格性がない」という理由で子どもたちを排除するのは許されない。「社会全体で学びを支える」とは、授業料さえ公費でまかなえば事足りることではない。無償教育とは、学力面・生活面で課題を持つどんな子であっても、教育を受ける権利=学び成長する権利を保障することではないか。

 「適格者主義」はすべての高校で検討されるべきだが、現実にはそうではない。志願倍率の高い(人気が集中する)上位校では、多数の不合格者を出しても批判されない。不合格者を出すことが「偏差値が高い」「優秀校」とさらに評判を高めていく。ところが、学力低位の子が集中する高校での「定数内不合格」は非難される場合が多い。「定数内不合格」そのものは問題だが、そのことだけを見ていたのでは問題の本質は隠れてしまう。「適格者主義」によって正当化された高校の「多様化」、すなわち格差と序列の構造そのものが問題なのである。

 京都における「子どもたちに格差のない、豊かな高校教育を保障するための私たちの提案」(5)では、「格差を固定し拡大する方向ではなく、格差を縮小し、どの公立高校に行っても格差のない教育を保障」するという観点から、@普通科は「地域の高校」としての性格を明確にする、A幅広い学力の生徒で構成される普通科は少人数編成の学級・授業を基本にする、B学力的に困難をもつ生徒の学力回復をはかるため学び直しのしくみを導入する、等を重視した。とくにBでは、中学校と高校での重層的なとりくみが必要である。

 第二の視点は、「適格者主義」を乗りこえる教育実践である。

 教育運動の中心は、子どもたちの可能性を信じ高校生の成長を育む教育実践である。困難な「底辺校」での実践(6)はもちろんだが、これから重要になるのは「進学校」(「上位校」)での実践ではないだろうか。日高教の元副委員長である埼玉の小池由美子さんの実践は参考になる(7)。国語や総合学習などでの協働学習や生き方を問う進路学習など、学ぶ意義を問うすぐれた実践である。教育実践の中心課題は、高校生に主権者として未来を創造する力を教科実践や自治活動の中で培うことによって、「適格者主義」を乗りこえていくことではないだろうか。

 第三の視点は、高校教育問題を「入口」「中身」「出口」の総体としてとらえることである。

 「適格者主義」は、入学者選抜という「入口」だけに横たわっている問題ではない。高校教育全体、さらには「出口」の問題、高等教育での学び、若者の雇用や社会的支援のあり方など多岐にわたっている。「適格性」にあてはまらない若者を「自己責任」の名で切り捨てていく、そういった社会のあり方を問い直さなければならない。高校生を含めた若者の問題を学校、あるいは教育という枠の中だけでとらえていては根本の課題は見えてこない。「社会全体で学びを支える」とは、学校の内外を問わず、すべての若者の成長と発達の権利を保障することに他ならない。




(1)『教育』二〇一三年一月号(かもがわ出版)、『高校のひろば』の最近の特集(日高教・高校教育研究委員会発行)、『前衛』(日本共産党中央出版局)二〇一二年五月号〜一三年一月号など
(2)中央教育審議会初等中等教育分科会高等学校教育部会「課題の整理と検討の視点」(二〇一二年八月一〇日第十一回部会)
(3)『高校のひろば』八六号、インタビュー「中教審高校教育部会長小川正人さんに聞く」
(4)京都府教育委員会は「教育課程特例校における土曜授業の取扱いについて」(二〇一二年一〇月四日高校教育課長)を出し、教育課程特例を受けた場合、「月二回程度」「一日四時間単位」を上限に教育課程に位置づけた授業をできるとした。
(5)京都府高ホームページ参照 http://www.kyoto-fuko.com/category/kenkai
(6)『高校のひろば』八六号、白鳥勲「若者の希望を閉ざす適格者主義」
(7)『教育』二〇一三年一月号、小池由美子「進学校の開かれた学校づくりと学びあい」。『前衛』二〇一三年一月号、小池「競争の教育ではなく、社会の主人公となる主体形成の教育を」。
 
 
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