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早川幸生の京都歴史教材たまて箱73

映画
スクリーンの中の人と現実の社会の人を結び、生きる勇気と感動を生み続けて


                    早川 幸生

 

――出会い――

 (学校で)

昭和三〇年代前半が小学校時代だった僕たちにとって、映画は最高の娯楽でした。

 特に正月は、どの映画館も超満員でした。小学生から老人まで人気があったのは「チャンバラ(時代劇のことを意味する当時の表現)」で、いくつかあった映画会社の中で、東映が男女共に時代劇俳優を抱える会社でした。

 東海道・三条通粟田口(京の七口の一つ)にあった「粟田小学校」の校区に、蹴上(けあげ)という所があり、東映の「職員アパート」があって数人の小学生が通学していました。

 同じクラスに「東映の子」がいて、時々割引券や招待券をくれました。招待券のことを「ただで見られる」ので「ただ券」と呼んで重宝し、もらった時は大喜びでした。

 彼達のお父さんは、映画の俳優さんではなく「照明さん」「大道具さん・小道具さん」「音声さん」等と呼ばれた方々でした。

 学校行事の「学芸会」で東映グループが活躍しました。教師の方も目をつけていたのでしょう、学芸会当日の舞台は、江戸・明治時代の出しものが幾つかあり、「かつら」や「衣裳」「小道具」「化粧」等、当時の学校では購入及び準備できないものを借りていたようでした。ただ、すべて子役用のものが揃うはずもなく、子役の頭には少々大きめの「かつら」、手に余る刀や鉄砲、長すぎる着物等、が笑いを誘ったのを覚えています。

(近所で)

 学校の真南に隣接して「青蓮院」があり、石垣や石段、大楠や寺門前でロケーションが時々行われました。「絶対に声を出さない」という現場助監督やカメラ助手さんとの約束に従い、下校中や通学路の神社やお寺、白川筋等で映画の撮影を年に何回か見ることができました。(写真・略)

 また、東山三条近くの生家でも映画俳優に出会えました。同じ町内はじめ隣の町内に旅館がありました。生家と同じ露地に「鶴ノ井」また、二軒隣に「中花」という旅館があり、昭和三〇年代に小・中学生だった僕たちの朝の話題は、「昨日○○旅館に大友柳太郎が泊まったらしい」とか「朝、集団登校の集合場所にいたら、○○旅館から月形龍之介が出てきて、待たしてあったハイヤーに乗ったのを見たで」等々でした。

――京都と映画――

 「日本映画は京都から生まれた」という活字を見たことがありましたが、あまり心に留めず何十年かが経ちました。が、「これはこれは」と身近に真剣に関心を持ったのは、一本の元保護者からの電話でした。

 「先生、立誠小学校の正門横に『日本映画発祥の地』と題した説明板が建ちました。ご存じですか。ぜひ一度見に来てください」

というものでした。新採用教員として勤務した立誠小学校でしたが、児童数の減少により統廃合され、今は廃校になっています。しかし、映画の上映や劇の上演、また大学等のアート等の展示場として位置づけ、活用されています。さっそく出かけて発見し、撮影したのが資料の写真です。現在も校庭に隣接して関西電力関係の河原町変電所があります。

 最近の映画関係の資料で「日本で初めて映画が上映されたのは四条河原・・・」と紹介されたものがあったようですが、それは間違いで、一八九五年フランス・パリに世界初の「映画館」が誕生し、映画上映が始められました。翌一八九六年に、京都出身の稲畑勝太郎がシネマトグラフの機材とフィルム、映写技師のジュレールと興行権を得て帰国します。

 帰国後、試写会場として選んだのが、後の立誠小の京都電燈株式会社の庭でした。屋内での火災の心配もあったようで、庭にスクリーンを張って雪中の上映会であったといわれています。(写真・略)

 その談話の中の「雪中京都四条河原の・・・」河原が鴨川の河原と解釈されたようです。

――牧野省三監督――

 足利尊氏の木像があることで有名な京都市北区の等持院の山門をくぐった墓地横に、衣笠山を借景にするかのように、「牧野省三先生像」が建っています。一九五七(昭和三十二)年に有志が集まって建設し、諸事情により一九七〇(昭和四十五)年に現在の場所に移されました。顕彰碑の碑文を紹介します。(写真・略)

 「生涯を、映画の発展と前進に尽くし、日本映画の父と仰がれたマキノ省三先生が、大正十年に最初の撮影所を創設せられたのは、実にこの等持院の地でありました。
 このたび 先生の銅像を 太秦より迎えましたのは ひとえに、日本映画史に一頁を飾るゆかりの此の地に 永く先生の遺徳を顕彰したいと念ずるからであります。
マキノ省三先生顕彰会」 

 牧野省三は、一八七八(明治十一)年に、丹波山国隊の父と義太夫を職としていた母との間に生まれました。京都西陣で寄席を経営していた母親の仕事を手伝う中で、一九〇一(明治三十四)年に西陣千本座の座主になり、千本座を訪れた横田永之助の頼みで、活動写真の制作を引き受けるようになったようです。

 一九二九(昭和四)年に没するまでの彼の功績は、プロデューサー制度の確立や教育映画事業の創始者として第一人者であったとも言われています。牧野監督の居た京都に、映画監督や俳優その他映画を志すものが集い、日本映画発展の基礎を築いたことです。

 ミレニアム二〇〇〇年を記念し、太秦大映通り商店街横の稲荷神社境内に建てられた顕彰碑が、それを伝えています。(写真・略)

――「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助――

 映画スター第一号と呼ばれた尾上松之助は、一八七六(明治九)年に岡山市に生まれました。六才でたまたま町にやってきた旅芝居に出演したのが初舞台と伝えられています。

 身軽で運動神経が抜群だった彼は、トンボ返りの名手として注目され「トンボの松」と呼ばれました。牧野省三との出会いは、彼の一座が京都の千本座に出演したのがきっかけで、五年後に牧野が岡山でカツドウ写真(映画)に誘ったそうです。

 牧野の目にくるいはなく、運動神経の良さからくる動作はテンポと軽快さが抜群で、トンボ返りをはじめ、チャンバラで使う真剣は迫力満点であったと言われました。

 出演の三作目で、櫓の上から敵軍をにらみつけた、歌舞伎の見得を切ったシーンで、観客から「ようっ、目玉」の声がかかって以来、「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれました。

 牧野監督の編み出したトリック撮影が、松之助扮する英雄を、映画のスクリーンいっぱい自由自在に躍らせました。宙を歩き、ヒラリと飛び上がり姿を消す彼の姿に、拍手が鳴り止まなかったとのことです。(チャンバラ・忍者等)(写真・略)

 一九二六(大正十五)年に彼が没すると彼の死を悼む新聞号外が出され、葬儀の参列者は三千人、葬列を見送る沿道には二十万人が詰めかけたと記録されています。

 出町柳西の下鴨三角州にある鴨川公園南端に、尾上松之助の胸像が建てられています。建立者は、元京都府知事蜷川虎三氏です。像の裏に「尾上松之助氏は、目玉の松ちゃんの愛称で親しまれた時代劇俳優の先覚者であった。この像は氏が社会の福祉につくされた数々の功績をたたえるとともに、その精神である平和な社会を念願して建造したものである」と。(写真・略)

 これは、大正十三年に松之助が京都府に寄付を行い、それを基金にして南区西九条開町に二十戸の公営住宅が建てられましたが、老朽化が進み払い下げられることになりました。その際、松之助の功績を消さないよう知事の提案で建立されたそうです。日本映画界の大スターの一面です。

――「羅生門」――

 四〇〇年近く都であった京都は、映画の題材として登場し、映画史の中に輝いています。
 特に平安京は好んで題材とされましたが、中でも映画『羅生門(一九五〇年作品)』は、ヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞しました。続いて平安京を舞台にした『源氏物語』がカンヌで撮影賞を獲得するなど国際的に注目されたのです。

 芥川龍之介が、平安京の正門として存在した羅城門を原型に、荒廃した平安時代末期を、羅生門の下で雨宿りした三人の出会いに始まり、人間のエゴイズムと弱さを描き出したもので、門自体は九条大宮に面して建ち、東西三十三メートル、奥行き十八メートルという高層建築でした。写真は、セットに作られた巨大な羅生門ですが、創建後一三二〇年近く経った現在では、写真のように一本の石柱が児童公園内に建っているだけになっています。

 が、右京区の太秦中学校に、映画『羅生門』国際賞受賞記念碑を見ることができます。校門左側には「大映株式会社京都撮影所」の門標があり、ここが大映の京都撮影所跡地であったことを伝えています。

 また、校門右側には、昭和二十五年京都撮影所が制作した『羅生門』で受賞した金獅子像とオスカー像をモチーフにした記念碑を建立し、グランプリ広場として親しまれていたことを伝えるべく、撮影所閉鎖後跡地である太秦中学校に復元されています。

 日本の“ハリウッド”と呼ばれた地元太秦と映画文化の歴史を今に伝える貴重な空間になっています。(写真・略)

――御室(おむろ)湯――

 仁和寺の北側に位置し、嵐電御室駅および御室小学校を南に下った所に、京都初の貸スタジオであった「双ヶ岡(ならびがおか)撮影所」がありました。

 一九二八(昭和三)年にマキノプロから、阪東妻三郎に続き、片岡千恵蔵や嵐寛寿郎などが独立してそれぞれのプロダクションを設立し「日本映画プロダクション連盟」を結成しました。連盟は数ヶ月で挫折しましたが、その間に、後に名優と言われた入江たか子等も活躍していたと言われています。その後は新興キネマ、松竹が入居し、戦後は立石電機(オムロン)の工場となりました。一九五一〜五二(昭和二十六〜七)年には宝プロが敷地内にスタジオを設け、時代劇を制作したそうです。

 オムロンの正門前の長泉寺は、俳優部屋に使われていたと伝えられています。また、撮影所西側に昭和二年にオープンした銭湯「御室湯」のご主人の話として

「昔は俳優の家やプロダクションが建ったり消えたりで、撮影所があった頃は、アラカン(嵐寛寿郎)をはじめオモロイやつらがドーランを落としに、うちの風呂にきとった。アラカンの他に、丹下キヨ子、殿山泰司・・・それに無名の俳優やらドーッときて、お祭りみたいやった」と。

 創業八五年の御室湯は、無数の俳優を育てるとともに、俳優と地域の人々との正に裸と裸の付き合いの場として存在していたようです。場所は、双ヶ丘中学のすぐ北側にあります。(写真・略)

――京都の町と映画・撮影所――

 右京区太秦周辺三条通一筋南に「大映通り商店街」があります。大映京都撮影所が近くにあったことから商店街名になったといわれ、写真のような旗や看板・模様が路面に描かれています。映画産業はなやかなりし頃は、時代劇姿の俳優や映画関係者が通りを歩き、商店街も買い物客で賑わっていたと聞きました。京都各所にあった各映画会社の撮影所は、中学校・大学・大型スーパー・マンション・工場等になっています。唯一、当時の様子を伝えるリニューアルオープンされた現東映太秦映画村には、日本内外からの観光客・修学旅行生でシーズンや日祝日は大賑わいです。(写真・略)

 
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