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■ 好評連載 平和教育34

日米親善友情人形(青い目の人形)
 紙芝居で人形の歴史を伝え平和を語る



          中野恭子(元京都府小学校教員)
 

はじめに

 私が初めて青い目の人形の歴史を知ったのは2000年戦争遺跡で平和を学ぶ京都の会から三重県にフィルドワークに行き小学校で保存されている人形を見たときです。人形の歴史を聞き京都にも残されているのではないかと関心を持ちました。故池田一郎先生の後押しもあり少しずつ調べ始めました。

 青い目の人形は1927年(昭和2年)に親日家で宣教師でもあったシドニー・ギューリック博士が中心になり日米親善のためにアメリカ合衆国から日本の幼稚園や小学校に贈られた人形のことです。当時は「日米親善人形」とか「日米親善大使」と呼ばれていました。「青い目の人形」と呼ばれるようになったのは1921年(大正10年)に野口雨情 作詞・本居長世 作曲の童謡「青い目の人形」の歌が流行していたからは青い目の人形と呼ばれるようになったそうです。セルロイドの人形とは違います。

 贈られた当時は「日米親善人形」として大切にされた人形でしたが、太平洋戦争が勃発すると敵国人形としてかなりの人形が処分されました。この青い目の人形は処分を免れた人形たちのことです


人形が贈られた当時の日米の世相

 19世紀末から20世紀初めのころアメリカやブラジルなどへ日本からたくさんの人たちが移り住みました。アメリカで生活する移民の数は約12万人にもなりました。

 日本人は低賃金でも苦情を言わず、危険な仕事も行い、日本の文化を愛し風習や習慣を固く守りながら異国での生活をしていた。真面目によく働く日本人が、白人労働者の職場おびやかすようなことがあり反感を招いていました。「アメリカに来たのだからアメリカ人になれ」と奇妙に思われたり、人種の偏見もあったのでしょう移民を制限しようとする動きがアメリカに広がっていきました。1924(大正13年)アメリカの議会でアメリカ移民法が改正され「新移民法」が可決されました。アジア人の入国が禁止されました。これは日本人を排除する排日法でした。世界的不況の中移民が禁止され、残された日系の人々は排日の動きの中で大きな苦難の生活を強いられました。日本とアメリカの溝はだんだん深まっていきました。


人形交流の計画

 親日家で何度も日本に来ていた宣教師のシドニー・ギューリック博士は日米関係の悪化に心を痛め何とか日米の親善を図ろうとしていました。仲良くなるためには人と人の交流が大切である。そのためには次の時代を担う子供たちを中心とした日米親善計画を考えました。日本には子供の健やかな成長を願うひな祭りや、端午の節句の行事があり人形が大切にされている。アメリカ人に人形を通して日本の文化や日本人を理解してもらおうと考えたギューリック博士から人形交流の計画は日本の外務省に伝わりギューリック博士のよき理解者であった渋沢栄一氏が「日本国際児童親善会」という受け入れ団体を作り外務省、文部省が協力する体制が作られ1927年(昭和2年)にアメリカからの交流が実現しました。人形は「日米親善大使」として日本に贈られました。


友情人形のしくみ

 「平和は子供から」を合言葉にアメリカで人形計画が進みました。日本の雛祭りに間に合うように贈られたのです。この人形は世界児童親善会から用意された裸の人形にそれぞれに手製の服を着せるように指示されていた。残されている人形を見るとアメリカの子供たちが縫い上げた様子がうかがえる。セルロイドではなく、合成物で固められた人形は
3社の人形メーカーがつくり背丈が1フィート5インチ(40センチ前後)手足が動き、「ママー」と声をだす装置を内蔵し、目を開閉する仕組みになっておりしっかりした丈夫な作りで実用性を備えていた。人形の背に会社のマークが残っている。


大歓迎された人形

 1926年12月から人形を乗せた12隻の船が日本をめざしてアメリカの港を出港し1927年1月17日にサイベリア号が横浜港に到着してから続々と横浜、神戸港に到着しました。友情人形(フレンドシップドール)を青い目の人形と呼んで大歓迎をしました。3月3日人形の歓迎式典が東京の日本青年会館で催され、外務大臣、文部大臣、米国大使、渋沢栄一、アメリカンスクールの子供たちなど2000人が集まったそうです。人形は色々な服装でした。パスポートやアメリカの子供たちの手紙、シドニー・ギューリック博士のなどを持っていました。贈られた数は約12000体。各地に配られた数は11973体です。日本国内だけでなく当時の植民地だった朝鮮に193体、中国(関東州)10体、台湾83体、樺太20体、一斉に送られた後それぞれの都道府県、各学校、幼稚園で歓迎会が催しされました。配布条件として文部省から通達残されている

イ、 都道府県師範学校付属小学校及び幼稚園
ロ、 都道府県庁所在地公私立小学校及び幼稚園
ハ、 都道府県主要都市邑の公私立小学校及び幼稚園
ニ、 外国人の多数居住する地方又はその出入り多き土地の小学校及び幼稚園
ホ、 其の他知事の適当と認めたる公私立小学校及び幼稚園

・人形を受け取った学校幼稚園は歓迎会を開いて多くの人々に紹介すること
・寄贈者に対し、感謝状・写真・絵画・歌・絵葉書等送ること
・大切に保管して3月のひな祭りなどの諸行事には陳列して子供たちに語る資料とする。


京都にやってきた人形たち

 京都には昭和2年2月26日神戸港に着いた船から262体の人形がやってきました。

 京都駅には府庁の学務課、小学校の代表が迎えにいき盛大に歓迎しました。

 3月3日には京都市公会堂で262体が並んで歓迎式典が行われました。この日盛装して参加されたと聞いています。そのあと高島屋、大丸、丸物の百貨店で展覧されたくさんの人々が見物されました。この時の様子は当時日出新聞(現京都新聞)に掲載されています。

 そのあと京都府下の小学校や幼稚園、京都市内の小学校幼稚園に送られました。「校長先生が代表で府庁まで行き駅に着いた人形を学校まで抱いていった。」と当時のことを覚えておられる人もいました。各学校でも歓迎会を催した。迎える歌を作ったり、絵をかいたりお礼の手紙を書いています。人形は子供たちの目に触れるよう校長室に飾られて大切にされていました。


太平洋戦争と人形

 1941年(昭和16年)太平洋戦争がはじまりました。青い目の人形はアメリカの人形です。あんなに平和は子供からと願って交流が始まり歓迎され大切にされていた人形が敵国人形になったのです。戦争がだんだんひどくなり鬼畜米英と国民の間で言われるようになり英語を使うことも禁止されました。同時に「青い目の人形」は憎しみの対象となりました。1943年毎日新聞は『叩き壊せ「青い目の人形」』『恐ろしい仮面の親善大使』『にくい敵だ許さんぞ』等の記事が書かれました。このような風潮の中で人形を学校に飾り続けることが出来なくなりました。戦意高揚のために人形を壊し始めた学校が出始めたのです。子供たちの前で壊したり、燃やしたり 捨てたりしました。京都ではこのような処分は聞いていません。宝鏡寺(人形寺)に持って行った学校もあると聞きました。

 人形処分は家庭でもっている西洋人形も隣組で集められて悲しかったと話された方もおられました。このように次々に人形たちが姿を消しました。しかし「人形には罪がない」「子供たちの前でひどいことはできない」と勇気をもって人形を守った学校もありました。1960年ごろから校舎の改築時に見つかり始めました。現在全国で334体確認されていますが4体は所在が確認されていません。 京都では7体確認しています。


京都に残っている人形

○京都市 崇仁小学校(保管 京都市下京区いきいき市民活動センター ) 「アン」
       当校に勤務の女教師が保管し戦後当校に復職し持参

○京都市 清水小学校(保管 元清水小学校)「エイダ・ジェンビー ・クノックス」
       昭和60年備品整理中放送室の古い戸棚の中から見つかる

○京都市 高倉小学校(保管 高倉小学校)  「メリー・シュネイダー」
       旧本能寺小学校が保存し大切に移転

○京都市 常葉幼稚園(保管 常葉幼稚園)  「ジョイス・アダムス」
       園長が代々受け継ぐ

○福知山幼稚園 (保管 福知山文化資料館) 「ヘレン・ウッド 」
       園長が代々受け継ぐ

○舞鶴幼稚園 (保管 舞鶴幼稚園 )  「ベティ・メイ」
       園長が代々受け継ぐ

○太秦小学校 (保管 個人)       「メリー」
       当校に勤務の女教師が保管し所蔵


日本からアメリカに渡った答礼人形

 青い目の人形のお返しとして日本から58体の市松人形が贈られました。

 青い目の人形が贈られた学校や幼稚園が中心となって寄付活動を始め立派な日本人形を贈りました。現在47体の保存が確認されている。


紙芝居を通して語り継ぐ人形の歴史と平和

 戦前、戦中、戦後どの時代にも人形とともに歩む多くの人たちがいました。

 処分が始まったとき、この交流にかかわった人が悲しい思いをされたこともわかりました。

 子供たちが仲良くなり平和な時代を築いていこうとこの交流を計画したシドニー・ギューリック博士は1945年日本の敗戦の時に亡くなっています。

 私は小学校退職後、子供たちに戦争と平和を伝えたいと思い立命館国際ミュージアムのガイドをしていました。「人形の話を紙芝居にして戦争展で子供たちに伝えてはどうか」と助言をいただき友人に絵をかいていただきました。絵を見せながら歴史を語ると子供たちは真剣に聞いてくれました。様々なところから人形の話を頼まれ発表しています。

 当時の情報を教えてくださる方も現れてなんだか人形が呼んでいるのではないかとおもうときもありました。人形を見せると「古いから気持ち悪い」と声を出す子供たちもいました。今年で85年たっています。人形の話は戦争中の出来事としてリアルに考えることが出来、現在も大切に保存されていることに平和な様子が伝わってきます。今も人形がみつかることを願っています。


I小学校の平和学習の感想

・今日平和学習で説明していただいた方はすごく説明が上手でわかりやすかったです。

・昔戦争をしていたんだから、生まれるのが今でよかったと思いました。でもなんで人形とか交かんしていたアメリカと戦争をしたのかなーと思います。戦争を国のためと言ってよくやったなあーと思いました。今はこんな時代で戦争はなくよかったです。これからも戦争なく平和でいれたらいいなーと思います。( 小3 女子)

・今日中野先生が平和学習をしてくれました。最初こわい話かなと思っていたけどそんな怖い話ではありませんでした。昔はアメリカと仲良くなるために人形を贈ったりもらったりしていたなんて初めて知りました。人形さんがパスポートまでもってきたなんて全然知りませんでした。お人形を隠してくれた校長先生はいい人だなーと思いました。昔は男の人が国のために命をかけて戦いに行ってかわいそうだなあとすっごく思いました。日本はアメリカと仲良しになりそうだったのに戦ったのはいやな気持になりました。( 小4 女子)

・今日平和学習がありました。青い目の人形話をしてくれました、最初は人形が来て子供たちが喜んでよかったなあと思ったけど戦争が始まってその人形がボロボロになり捨てられたりしてかわいそうだった。だから人形を隠したという優しさに感動しました。今になっても他の学校で見つかったときは驚きでした。私はこの話を聞いてもう絶対に戦争をやってはいけない。そう思いました。(小 5女子)

・今日2時間目平和学習がありました。今日初めて聞くお話でした。私たちが生まれる前にそんなことがあったなんてとてもびっくりです。まだまだ私が知らない過去がたくさんあるんだなと思いました。最初体育館の壁にはってある人形の写真はなんだろうとイもいました。それから話を聞いてとっても怖かったです。戦争でぐちゃぐちゃにされた人形たちはとてもかわいそうで想像するのが嫌でした。でも優しい人がいてよかったです。83年前に隠された人形が出てくるのがびっくりです。燃やされたり水に沈められていない人形があってよかったです。これからも戦争のことや昔の話を沢山聞いて勉強したいです・(小 6女子)


参考文献

・青い目をしたお人形  武田英子 著  太平出版社
・渋沢研究会資料  渋沢史料館
・人形大使「ミス三重」  答礼人形「ミス三重」の里帰りを実現させる会
・青い目の人形メリーちゃん 武田英子・文 小学館
・日米友情人形交流85周年・答礼人形「ミス京都市」里帰り記念
・海を渡った人形大使たち  同志社大学人文科学研究所
・日本はきもの博物館2011年度年報
 
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