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北山杉
(成育中は景色に溶け込み、伐採後は伝統と暮らしに溶け込んで)


         早川 幸生
   
  「ひろば 京都の教育」172号では、本文の他に写真・絵図などが掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」172号をごらんください。
 

京都府を代表する木が「北山杉」です。

寺院の庭園をはじめ、旅館や料亭の庭、個々人の庭ももちろんのこと、学校や官公庁の施設等、京都ではあらゆる所で見ることができます。

一説では、昔杉の木は「神の木(神様が宿る木)」と考えられていたことがあったようです。「一本杉」とか「二本杉」とか呼ばれ、幹にしめ縄を張られた木が残っていたり、その杉のある場所が地名になっていたり、聖地とされ大切に守られている所がありますね。

杉の木は、梢のあたりの葉のかたまりさえあれば、太陽光を採り入れ光合成ができます。下の方の枝や葉には用がないと言わんばかりに、上へ上へと伸び横には枝は拡げません。このすーっと直立した杉の木の姿から、「直(す)ぐー直(す)ぐ木(き)―杉」になったのではとも言われています。もともとは日本海側の多雪山岳地帯に生育していたアシウスギ(ウラスギ)が北山杉と言われ、京都では北山杉とよばれ中川地域が中心の小野郷、梅ヶ畑そして鷹ヶ峰を含む北山一帯で植林されています。


――京見峠・氷室への遠足――

講師時代の二つ目の勤務校は鷹ヶ峰小学校でした。北区千本北大路にある仏教大学前の、鷹ヶ峰街道の上り坂を登りつめた、玄琢の血天井で知られる源光庵と隣接する学校でした。学校のある高さは京都タワーと同じ高さと言われ、冬にはよく雪が降りました。また、春と秋は、京都の北山と呼ばれる山々へのハイキングに行く人々が、学校の前の道を行き来していました。

春の遠足の行き先は、一年生が大宮交通公園、そして担任をした二年生の行き先は、京見峠から大宮小学校氷室分校のある「氷室」でした。学校から北山ハイキングコースを歩き、京都の町が一望できる京見峠を通り、杉坂への分れ道を右にとり、氷室の集落に下って行くのです。

京見峠付近の集落には在校生の家があり、教育委員会が準備した通学用の車で、保護者が交代し送り迎えされる毎日の登下校でした。

途中から、道に沿ったガードレール沿いや山側・谷側に北山杉が並び始めました。杉の幹の周りに丸い割りばし状の物を、ネットで落ちないようにしっかり固定した、人口絞りをした北山杉や、木に登りせん定や枝打ちされている方の仕事風景にも出会えました。

ハイキングコースから外れ坂道を下ると、氷室集落のメインストリートに出ます。土道の両側には田んぼや畑に混じり、所々に何かの苗が植えられているようです。近づいて見ると、杉葉のようなものが直接、赤土のような畑に斜めに横倒し状につき差してあったのでした。初めての光景でした。しばらく進むと、紺色の仕事着の三人の女性が先程と同様の畑で、何やら作業をしている最中でした。春の遠足の目的地は目と鼻の先だったのですが、学年の先生にお願いして、臨時の休憩をとってもらいました。水筒のお茶が飲めると、子ども達は大喜びでした。その中の一人が、後のプロテニスプレーヤーになる伊達公子さんでした。

年長の女性に尋ねてみると、「この畑は北山杉になる白杉という杉の苗畑であること。今(春五月)は植栽の作業も始まること。そして今しているのは、枝打ちしてきたさし木用の枝に、泥状の土を一本一本つけた後、斜め横倒しに苗畑に差し苗木にする作業中」であることを話してくださいました。

植栽してから五〜六年は、下草の草刈りを繰り返し、二メートルくらいになったら、初めての枝打ちがされる。この枝打ちが、真っすぐに伸び、節目の無い円形の杉の成育にとって必ず要る手入れになること。そして軽業師のような、木から木へ地面に降りずに行われる枝打ちを繰り返し、二〇〜三〇年を経たものから伐採する。手短にではあるものの、北山杉の一生を教わったのでした。収穫多い春の遠足でした。


――台杉――

台杉の美しさと歴史そしてその知恵や工夫に出会ったのも、鷹ヶ峰小学校でした。

千本北大路から北に伸びる鷹ヶ峰街道と紙屋川に挟まれた間に「松山(しょうざん)ボウル」と呼ばれていたリゾート施設がありました。創業後間のない頃で、ボウリングが全盛期でした。約四〇年近い昔で、その頃まだ珍しかった大規模な新築マンションに家庭訪問に行った時のことでした。転校生のお宅に伺いました。

「先生、ほら見て下さい。これが我が家の自慢です」と、お父さんがカーテンを開けて見せて下さったのは、居間から見える景色でした。学校の名前と同じ鷹ヶ峰・鷲ヶ峰と呼ばれたお椀を伏せた形の山と、その前に並ぶ北山杉でした。マンション捜しでこの部屋に来たとき、この景色に魅入られ即決したとのこと。

その後、マンションの西側の谷のようになった所が「松山ボウル」等の施設であること。そして谷の立ち上がりが、秀吉が約四〇〇年前に京都の町をぐるりと囲い込んだ土塁である「御土居」の、自然の山や谷川を活用した部分であること、そして施設の北部地域に、北山杉の台(だい)杉が一千本、古い物では三百年ほど前の物もあり一見に値する「しょうざん庭園」なるものを紹介されました。

最初に訪れてから早四〇年。現在の様子が写真資料です。台杉をパッと見ると、燭台に何本ものロウソクを立てたように、大きな切り株から何本、何千本もの杉が生え直立しています。北山台杉について調べてみました。

「台杉は株杉とも言われ、昭和の初期までは、現在の苗畑で枝打ちした枝から採った苗木をさし木し育てる方法以前の、主体の植林方法でした。地上五〇センチくらいで親幹を切ると、何本もの支幹が出てきます。数本を選んで残し、つぎつぎと下枝を切り梢のあたりにだけ葉を繁らせると、細くて丈夫な杉に育ちます。

十五世紀に始まった方法だといわれ、当時京都で発達し流行した「茶の湯」の必要に応じた植林方法であったと考えられています。細くて頑丈な「台杉づくりの北山杉」は、床柱や垂(たる)木等々当時の数奇屋づくりに欠かせない建材でした。

戦後は、空前の建築ブームの影響から、白くて太い、一本仕立てで作った一代限りの「磨丸太」が必要とされ主流となった」以上。

手軽に見られる北山台杉は、鷹ヶ峰の「しょうざん庭園」で、また本格的自然のままの歴史的な北山台杉は「ほおづき谷の台杉が一番」と言われ、川端康成氏も訪れています。


――畑の姥(はたのうば)――

再び地域学習の教材として「北山杉」に出会ったのは、右京区の高雄小学校でした。学校の正門を入ったすぐ右側に、写真のような自然石に銅のレリーフのはめられた石碑が建てられています。初老の女性が真ん中に描かれ、頭の上には梯子とくらかけを乗せ歩いているようです。

よく見ると、その女性背後には、高雄小学校前を通る周山街道沿いの山や家屋、そして見事に生えそろった北山杉がくっきりと見えています。

その石碑の後に回ってみると、大きな文字で「畑の姥」と彫られていました。昭和六十年三月吉日建立と。学校創立百周年記念のようです。さっそく「畑の姥」とは何か調べてみました。すると「現在の高雄小学校の校区は、昔から梅ヶ畑と呼ばれていました。そして『畑の姥』とは、この地域から『はしごやくらかけ(脚立)いらんかえー』と大きな声で京都の町中を振り歩く、京の女性の労働着を着た人々の呼び名でした」また、「京都の働き者の代名詞として、平安京への薪や炭の供給地であった大原からは『大原女・小原女』。北白川からは花売りの『白川女』。桂からは飴売りなどの『桂女』そして梅ヶ畑からは、はしごやくらかけを売る『畑の姥』が、京都の働く女性の代表として昔から有名でした。(昭和三〇年代までは、町中でよく見かけたものです)」以上のことがわかりました。

そして高雄小学校百周年記念誌「郷土のあゆみ」の中に、当時三年生だった児童の作品が載せられていました。紹介します。

「ぼくのおばあちゃんは今は『商い』にいきませんが、今まではずいぶん遠いところまでいったといいます。商いに行くには、かすりの着物に、てっこう、かっさんというもんぺのようなものに、わらじをはいて、頭には『わっぱ』というわらでこしらえた丸いドーナツのようなものを入れたきれをのせ、その上にはしごやしょうぎをのせて売りに行くのです」

今から四十年ほど前の作文ですが、この畑の姥の売り歩いた商品の原材料が北山杉(主に間伐材)なのです。写真の姿と一致します。

平成になってからの「畑の姥」について調べたいと尋ねていると、平岡八幡から少し坂を登った場所で毎朝登校指導をして下さっている方が、地域で最後の「畑の姥」であることが分かりました。「畑の姥」姿で授業に来られました。

児童の質問から分かったことは、(一)京阪・近鉄・国鉄(今のJR)等電車で奈良や宇治まで行く時は、馴染(なじ)みの家に商いの品物を置かせてもらったこと。(二)自分の幼子を置いて商いに行くのがとても辛かったこと。等を教えてもらい、女子数名は衣装を着せてもらいました。


――北山杉の皮はぎと丸太磨き――

三〇年ほど前の京都の中学年用社会科副読本には、必ず北山杉の項目があり、北区中川地区の人々のくらしや産業が紹介され、学習したものです。

初めて北山杉の丸太磨きに出会ったのは、北区鷹ヶ峰小学校近くの民家の前でした。秋から春にかけて軒先で、紺色の女性の作業着(かすりの着物のもんぺ)姿の方が黙々と、二つの木の乗せ台に渡しかけた杉の丸太に手を加えられていたのでした。それは杉皮をはいでいたり、時には砂のようなもので丸太をごしごしこすっていたり、色々な工程でした。「この辺でも北山杉の仕事があるのだ」くらいで最初の出会いは終わりましたが、二度目の出会いで実際に児童とともに体験することができました。

右京区高雄小学校は、旧京北町・美山から福井県に出て日本海へと続く周山街道沿いにあり、登下校中目にする山々や学校から見える景色に必ず北山杉が写りました。また造園業や、持ち山に北山杉を植林し育てている家庭もありました。

四年生の地域学習で出会った「北山杉」の学習は、五年生の林業、そして伝統産業へと続きました。当時NHKの番組で放映された「プロジェクトX」で、桂離宮や茶室のことを知ったクラス児童十六人は、高雄小学校の校区の茶の木栽培の発祥地である高山寺や、地元の北山杉の業者、父兄の造園家、石屋そして「北山杉資料館」に宮大工等に聞き取りや資料集めと見学に出かけました。キーワードは「栂尾(とがのお)茶」と「茶の湯」「北山杉」でした。

児童の動きが活発になり、父兄から様々なニュースや紹介が学校に寄せられました。その中で一番児童の関心を引いたのが「皮むきと丸太磨き」でした。衣笠小学校のPTA会長さんで中川に北山杉の作業場を持っておられる方を紹介されました。父兄の依頼に快く見学と体験学習を引き受けて下さったのです。周山行きのJRバスに乗り、作業場に出かけました。

作業場に着くと、児童十六人がいっせいに北山杉の「荒皮むき」ができるよう準備されていました。今は水圧を利用したホース状の物ですが、昔の手作業同様、竹べら等を使っての作業でした。集中して丸太に取り組みました。その後、会長さんから、次の工程である「小むき(内皮のシブ皮とり)」や、一晩水に漬けてから砂で磨きをかけることを教わりました。そして、ツルツルの丸太になったら、木割れを防ぐために「背割り」をして出荷することも。会長さんの話の後、会長さんと一緒にいつまでも作業場の「磨き丸太」を一本一本なぜていた十六人の五年生児童でした。

 
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