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■早川幸生の京都歴史教材たまて箱(71)

六斎・念仏踊り
(先祖の霊をとむらい、現世の人々の健康と幸せを祈念し続けて)

        早川幸生
   「ひろば 京都の教育」171号では、本文の他に写真・絵図など17枚が掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」171号をごらんください。 
 

六斎念仏との出会い――

@ 六道詣りの六波羅蜜寺で

 毎年八月初旬の夜、家族で「六道さんの迎え鐘」をつきに行っていました。正しくは、慶俊僧都が建立した珍皇寺と、六道の辻にある空也上人建立と伝えられる六波羅蜜寺の参拝と、五条坂で同時開催される陶器市が目当てでした。珍皇寺では、暗い境内での鐘つきと地獄図極楽図で肝を冷やした後、門前の槙(まき)とゆうれい飴そしてほおずきを買うのが定番でした。姉たちはそのほおずきの実の中の種を抜き、上手に口でグィグィと笛のように鳴らしていました。

 珍皇寺門前通りと五条坂(現国道一号線)は、裸電球や店先のカーバイト等で昔は昔なりに明るかったのですが、六道の辻から五条坂は本当に暗く、大きくなるまで一人では歩けないくらい本当に心細い夜道でした。

 でも、次々と人々が暗いお堂の段を登り入っていきます。もちろん我が家も続きます。そこが六波羅蜜寺でした。例年は静かにローソクの灯がゆれ、線香の香りが漂う堂内だったのですが、ある年、本堂内に大勢の人の気配を感じました。不思議に思い急いで段を昇ると、そこで目にしたのが、都名所図会のこの一枚と全く同じ光景でした。

 いつもと違う堂内、生き生きとした動き、手に持った小太鼓や鉦のひびきに子どもながらに立ちすくみました。手をつないだ父に「何したはんの」と聞くと、「これは踊り念仏ていうて、こうやって仏教をひろめたんやて」と言ったのでした。因みにこの図会は「空也堂」の都名所図会の挿絵ですが、全く同じです。

 最近久しぶりに六波羅蜜寺を訪れました。それも真昼間。初めて昼間の六波羅蜜寺は、カラフルで、今年の大河ドラマ「平清盛」の関係か、修学旅行生と老若男女の旅行者で混雑していました。手に資料や本を持った人が多かったのが印象的でした。

 資料館で出会ったのが、二枚の写真の空也上人像です。有名な鎌倉期の木像ですが、今まで教科書や資料集での出会いはあったものの、全身や後姿はやはり直接のたまものです。左の手の鹿角の杖、胸の前の鉦と右手の橦木。上人の口から出た六体の仏の姿。「南無阿弥陀仏」の六文字が仏の姿になったことを表現しています。道や橋を造り、病人や貧者に施しをし、京の東西の市に立ち、鐘を打ちならし、念仏唱和を説いて「市聖」と呼ばれた空や上人の踊躍(ゆやく)念仏の一瞬なのです。


A 空也堂と鉢たたき・茶筌売り

 古書籍商の保護者の方と、地域の郷土歴史研究家から借りた「都名所図会」(今から思うとよく本物を貸して下さったものです)で始めた子ども達との地域学習で出会ったのがこの一枚の絵図でした。

 「柳の水」という西洞院三条にある井戸とその周辺の様子や人々について説明しています。「空也堂鉢たたきは茶栓を売りて業(なりわい)とす。むかし村上天皇の御宇、疫病大いにはやりて死するもの数知れず。空也上人これを憐みて観音の像を作り、茶筌にて湯を和し、観音に供し、その茶湯を諸人に与う。それより疫たちまち平癒(ゆ)して長寿をせり。帝これを叡感ありて吉例とし、毎年元三には空也堂の茶筌にて茶をたて、これを服すれば年中邪気をまぬがるるとぞ。この帝より始めたまふにより、今も王服を祝ふとなり」

 これは現在も、空也堂と六波羅蜜寺で行われている「王(皇)服茶」の起源を説いたものです。上水道が無い時代に生水をわかしたり、茶を飲む習慣を勧めたものと考えられています。竹やみょうがの効用にもふれ、疫病対策にも念仏とともに拡がったようです。

 堀川の蛸薬師を東に入ると「空也堂」があります。堂内には、空也自作という空也立像と「鉢たたき」と称された空也僧が六斎念仏の際普及活動で使った鉢や、ひょうたん、鉦など、また寺の行事で使われる鹿角杖を見ることができます。住職にうかがった話の中で、江戸時代「東海道中膝栗毛」作家として有名だった十返舎一九が、当時の京都の流行・名物として空也堂の踊り念仏を見に来たということを聞き、空也堂の知名度の高さに驚きました。


B 同僚の教職員の弟さんが伝承者

 最後の勤務校の職員の方と話をしている中で、話題が六斎・踊り念仏になった時「私の弟も吉祥院六斎やっているよ」と話されました。「春の天神さんのお祭と八月のお盆にするし、また見に行ってやって。吉祥院天満宮の境内にお堂があってそこでします。出店や夜店も出てけっこうにぎやかえ。もうすぐ春祭やし」とのこと。

 夕方からがお勧めとのことで、出店をブラブラした後、暗くなった夜店で夕飯をすますと、人々の流れが境内の片隅に向かい始めました。そこには舞殿と呼ばれる、吉祥院六斎念仏専用の施設が建っていました。能舞台のような舞殿の周りにはいつかしら提灯に火が入り、集魚灯のように人々は集まって来ます。舞台の正面は早くから「場所取り」をした人々と、カメラを手に人々が陣取っていました。

 夜八時に「発願」で始まります。鉦の一人が導師となり拍子に合わせて「発願」の文が唱えられます。それが終わると念仏となり、称名に合わせて鉦、太鼓が拍子を打ちます。左右対称に人が立ち、昔から伝わる六斎の原型を感じさせます。合掌するお年寄りの姿も。

 静かに始まった演目から、動きが活発になり、曲のテンポも速まります。「岩見重太郎」から「獅子太鼓」「和唐内」「土蜘蛛」にはヒヒ・獅子・蜘蛛が登場し興味津津です。蜘蛛が撒く糸に人々は競って手をのばします。財布に入れておくとお金がたまるとか。

 現在、吉祥院六斎は、他の六斎念仏とあわせて「重要無形民俗文化財」に指定されています。幾度かの消滅の危機を克服した地元住民の努力、特に菅原町の六斎組の伝統のとりくみが現在に伝わっています。たいへんな苦労があったそうです。


干菜寺――

 後柏原天皇から「六斎念仏総本寺」の勅号を賜ったと伝わる通称「干菜寺」は、左京区出町柳駅の東にあります。干菜の由来は、文禄二年(一五九三)に豊臣秀吉が鷹狩りの途中、寺に立ち寄った時に、住職宗心が乾菜(ほしな)を差し上げたことにより、秀吉から干菜山光福寺の称号を与えられたといわれています。

 寺伝によれば、寛元年間(一二四三〜四七)に道空上人が現長岡京市に建立した一寺(斎教院)が起こりで、天正十年(一五八二)に月空宗心によって現在の地に移されたと伝えられています。

 道空上人は「六斎念仏」を世に広めたことで有名です。六斎念仏とは、毎月の六斎日(八・一四日・一五日・二三日・二九日・三〇日)を精神潔斎(身を清めること)として念仏を唱えることが起源でしたが、時の流れと民間に広まる中で、鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らす念仏となりました。大きく分けると干菜寺系と空也堂系の二つに分けられますが。空也堂系が踊り念仏で芸能的色彩を帯びていったのに対し、干菜寺系は六斎念仏の原型を留めたものとして現代に伝えられています。

 「花洛細見図」にも「干菜寺六斎念仏」として紹介されており、秀吉の時代には、六斎念仏総本寺の地位を確認したといわれています。

 明治頃までは六斎を演じる六斎組が市内各所にありましたが、現在では六斎保存会がこれにあたり、吉祥院・梅津・郡(こおり)・久世・小山郷・西院・西方寺・嵯峨野・六波羅蜜寺・桂・千本・中堂寺・壬生・上鳥羽・円覚寺などに保存会があり、主に八月のお盆前後に各所で行われています。


エイサーは踊り念仏。それも京都から――

 一五・六年前に京都市の教職員のグループで、沖縄の平和ツアーを実施しました。

 タイガービーチと呼ばれた所のホテルに泊まっていたのですが、夕方に有線放送が流れてきました。「七時から○○で○○の練習が始まります」という感じで、肝心の内容が解りませんでした。館内だったからと思い、外へ出て門衛さんに尋ねると「近くの公民館で今日からこの集落のエイサーの練習が始まります」という内容であることが分かりました。

 教えてもらった道を行くと公民館に着きました。そこには男女の高校生らしいグループが館から外の広場へ、大小の太鼓を運び出しているところでした。見学を申し込むと、「もう少しすると責任者が来ますので・・・」とのことで待っていると、作業服姿やサラリーマン姿の青年が加わり練習が始まりました。最初はテープでの練習でしたが、一時間近く経った時、浴衣姿に手に蛇皮線の男性が加わり、生演奏での練習に変わりました。暫くすると休憩になりました。二人の蛇皮線の男性が責任者でした。招かれた公民館には、毎年のエイサー姿の青年達の写真が並べられていました。お二人との話で分かったことは、「エイサーの練習に集まったのは集落の十六才〜二十六才の男女。すなわち青年団」とのこと。そして「エイサーは沖縄では旧盆の夜明けから日没まで、一日中集落を回り、一軒一軒に門付けし、エイサーのお礼を頂く」とのこと。また、その浄財が青年団活動の一年間の財源であることも知りました。休憩中に話が弾み「本土から来られたんですか」「京都からです」というと、「この集落では、エイサーは盆の日の各家の先祖供養の踊りです。一種の念仏踊りで本土京都から伝わったとも聞いています」とのことでした。意外な話で驚きました。

 学校では、運動会や学習発表会等で、沖縄の民族芸能・伝統文化として踊りの側面を強調していたので認識を改め、京都で調べることを決意しました。また、各集落で曲や踊り方など違い、固有のものが多く、即興で流し、演じられることも教えてもらい、その後のエイサー練習を楽しくまた感慨深く見せていただきました。


檀王法林寺と袋中(たいちゅう)上人――

 三条大橋の北東詰に、年二回境内に「三線」とパーランクーそして大太鼓の響き渡るお寺があります。「檀王法林寺」京都の人は親しみを込めて「だんのうさん」と呼びます。

 二〇一一年に開創四百年を迎えたこのお寺が、沖縄でエイサーと京都のつながりを教えてもらったお寺でした。京都の念仏踊りを調べて左京区出町柳の干菜寺を訪れたときに、袋中上人と「袋中庵」および「檀王法林寺」を紹介されました。「だんのうさん」は、新採の勤務校であった立誠小学校の子ども達がお世話になった保育園があり、写真展等で何回か訪問していました。開創は慶長十六年(一六一一)で、開祖が袋中(たいちゅう)艮定上人です。袋中上人は福島県いわき市の出身で、現在もいわき市に伝わる「じゃんがら念仏踊り」にヒントを得て、沖縄での布教の際に参考にし実施したと伝えられています。

 袋中上人と琉球との関係は、青年時代からの夢が発端です。中国(明)に渡り、中国僧から直接教えを受け、日本にない教典等を持ちかえりたいというものでした。五十二才の時(慶長八年・一六〇三)に中国へ渡る船を求めて長崎平戸に着いたものの、定期的公的な中国への船便はありませんでした。私的な貿易船に乗り中国渡航を試みるものの上陸が許されず、結果的に東南アジア、ルソン(現フィリピン)から琉球国(沖縄)にたどり着いたのです。

 当時の琉球国では、尚寧(しょうねい)王が中国と日本(薩摩)との板ばさみの立場で悩んでいた時で、布教を始めた袋中上人の教えに敬服し、小禄(那覇(なは)市小禄)に桂林寺を建立し、上人を招請しました。踊りながら念仏を唱える布教と教えに国王はじめ民衆は教化されました。その結果「小禄浄土」「エイサー踊り」「ニンブチャー(念仏者)」といった現象が出現しました。慶長十四年(一六〇九)琉球は薩摩の侵攻を受け、日本への従属を強いられます。尚寧王は徳川家康・秀忠へ拝謁のため来日します。

 その帰路、京都に三年前に別れた袋中上人を訪れ、現・祇園祭黒主山の前かけの、中国の官服等を贈り、念願の再会を果たしたのです。また、袋中上人の一生を描いた袋中上人絵詞伝は、尼僧道場として建てられた袋中庵(御室)に所蔵されています。

 
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