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教育行政のあり方を考える


                 野中 一也(京都教育センター)
 

はじめに 〜教育委員会制度無用論の危険性〜

 「教育委員を免職する」と言っているのは大阪市長・橋下徹氏です。つまり、教育委員会は無用で、首長である自分が教育行政を支配するというのです。これまでも無用論はありましたが、これほど教育行政の自立性を露骨に否定する首長が現れたことに危機感を覚えます。教育行政はどうあるべきか、教育行政の執行機関である文部科学省と教育委員会はどんな関係にあるべきなのか考えなければならないと思います。

 まず橋下氏・「大阪維新の会」の主張をみましょう。橋下氏は、2008年に「子どもが笑う大阪を」と言って知事に当選しましたが、2011年5月に「国旗・国歌条例」を提案し強行可決させました。さらに9月に「教育基本条例」「職員基本条例」を発表し、2012年2月、職員アンケート(=思想調査)を業務命令で実施し、凍結に至っています。「君が代」の斉唱で口元をチェックする現実まで生まれました。この一連の施策は、教育を支配し、財界が求めるエリートを養成する教育体制に日本を変えようとしていると言えるでしょう。

 大阪の教育行政では、選挙を通じて「民意」を代表する首長と教育行政との乖離が大きいので変えなければならないと主張し、具体的には、「グローバル社会に十分に対応できる人材育成」につとめ、そのために高校校長(任期制)を「公募」し、教員を「評価」し、「免職」も可能といった教育政策を教育委員ができなかった場合は、首長が教育委員を「罷免」できるという教育システムが構想されています。

 橋下氏や「大阪維新の会」の動きは、教育行政を一般行政にくみ込み、教育委員会制度を無用視することにつながります。全国に波及する危険性があります。そこで、まず教育委員会制度の成立過程から考えてみましょう。


T 教育委員会設立の歴史的な意義

 戦前の教育は、個人の内面まで絶対主義的天皇制に奉仕する教育でした。教育行政は、天皇の命令である「勅令」ですすめられ、内務省が管轄していました。「大日本、大日本、神のみすゑの天皇陛下」とか、「日本ヨイ国、キヨイ国、世界ニ一ツノ神ノ国、」(国定教科書から)というものでした。教え子を戦場へ送り出した教師は、いかに後悔・懺悔を繰り返しても自らの戦争責任に良心的に苦悩してきました。戦後、総理大臣吉田茂氏から「曲学阿世」と罵倒された東大総長南原繁氏は、戦前のファシズム下で良心的苦悩にもがきながら無言を通さざるをえない体験をしました。1945年8月の敗戦で、彼は口を閉ざした「罪」を痛切に反省して行動に出たのです。

 46年3月に、マッカーサー占領軍最高司令官の要請でアメリカから教育使節団が来ます。その米国教育使節団を迎え入れる日本側の31人の「日本教育家委員会」(のちの教育刷新委員会)の委員長が南原繁氏です。日本人の手によって日本側の報告書が作成されたのです。戦前の教育が政治に完全に従属させられた苦い経験を二度としてはならないという決意のもとに報告書がつくられ、3月のアメリカ教育使節団報告書に結実しました。具体的には、教育は政治から独立したものでなければならず、制度として政治的中立を保つ「人民統制」の公選制教育委員会制度を提案しました。南原繁氏は、家永教科書裁判の証言でも何度も繰りかえして「米国教育使節団報告書」が日本側の自主的な判断にもとづいて作成されたものであると繰り返し強調していました。憲法・教育基本法がアメリカから押しつけられたものであるという主張に反論する証左であると思います。戦前の圧政の中で、民衆を思想的基盤として教育は民衆のものであるという考え方が育っていたことに誇りに思います。国民の民主的主体形成において現実的「弱さ」をもっていたとしても、思想として燦然と輝いていると思います。

 米教育使節団の報告を受けて、中央集権的教育行政を否定し、教育委員会制度の設立が決められ、47年に「教育委員会法」が成立しました。この法律に基づく教育委員会は、教育行政を一般行政から独立させ、予算・条例などの議案を議会に提出できる権限をもつ独立した機関として位置づけられました。教育委員の選出は、地域住民の主体的参加を考慮した「公選制」としました。「民意」を教育に反映させる画期的な公選制教育委員会制度としてスタートをしました。しかし教訓をいっぱい残して、1956年(昭31)に「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(地教行法)が国会へ警察官導入のもとで可決され、任命制教育委員会制度に「改正」され、今日に至っています。


U 教育委員会の民意を歪める「変節」

 教育委員会は、学校やその他の教育機関を管理し、学校の組織編制、教育課程、教科書、その他の教材を扱い、教職員の身分に関する事務を行い、社会教育などの事務も行います。

 そして未来を背負う子どもの健やかな成長を保障する条件整備を行う義務をもっています。

 1947年に成立した教育基本法第10条は、

「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。A教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行わなければならない」

と記しました。教育行政は、教育の内的事項に関わってはならず、外的事項の条件整備にあたるべきであるという宗像(誠也)理論に沿ったものです。

 任命制教育委員会制度になってからは、教育委員会は文部省に忠実に従い、改憲を党是とする自民党の意に沿う教育施策を実行するようになっていきました。

 勤務評定は、1956年の愛媛県での実施から始まって全国的に拡大されていきました。教育内容では、文部省が1958年に学習指導要領の官報告示による法的拘束力強化を打ち出し、それに従って、地方教育委員会が講習会や指導案提出強要などといった教育内容への介入をおこなってきました。

 支配層は、80年代の臨教審答申、98年の中教審「今後の地方教育行政の在り方について」答申を出すなどして教育委員会制度の更なる「変節」を迫ってきました。それに対して、文科省は「地方分権改革」などと称して対応してきました。2006年には、教育基本法が「改正」され、「上」から教育計画を押しつける道がひらかれました。しかし支配層は教育委員会を有効に活用・使用してきましたが、「無用」とは考えてこなかったと言えるでしょう。そこには教育行政条件整備論が隠然として歯止めになっているからだと思います。


V 下からの教育の政治的中立性を求める重要性

 47年教育基本法では、「この(憲法)理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」と書かれています。

 教育行政が憲法の精神から逸脱しないようにするには住民の支えが必要です。京都府蜷川民主府政時代(1967年)に、岡田教育長を文部大臣が承認しないという事態が生じました。地教行法で、教育長を文部大臣が承認する権限を与えて地方を支配・統制しようとしたのです。蜷川知事が「憲法を暮らしに生かそう」と努力している時に、教育長を文部大臣が不承認にすることは権力で教育の政治的中立性を侵すものであり、府民が大きな運動を起こしました。岡田教育長は「教育長職務代理」として任期いっぱい務めました。

 1978年、東京都中野区で教育委員の準公選を求める住民運動が起こりました。それは教育を政治的に利用してはならないという素朴な親の願いからでした。中野区長は「違法性の疑いがある」と言って反対しましたが、美濃部東京都知事が「合法」と判断しました。それが実を結んで、「準公選制教育委員会制度」として成立しました。さまざまな妨害を受けながらも、81年から4回、15年にわたって実施されたのです。画期的と言えます。

 以上2つの事例からも教育の「住民統制」がいかに重要であるかが分かると思います。


W 在るべき教育行政とは

 まず第1に、教育行政は、人類の普遍的価値(日本国憲法に結実)を追及する教育が実現できるように条件整備にあたることです。そして、同時に住民参加で子どもの全面発達(教基法では「人格の完成」)という教育観をつくりあげていくことです。

 第2に、不当な支配に服することなく、「政治的中立性」を堅持することです。法律に基づく行政は本来権力的要素を内包しています。だから禁欲的でなければならないのです。現実は残念ながら全く逆の権力的行政が横行しています。行政担当者には教育的識見が強く求められます。

 第3に、本来の教育行政に立ち戻らせるために、日常的に批判的に考察し、場合によっては裁判も含めて下からの運動が必要です。批判されることによって問題の内容がより明確になり、教育論議が深まり、本来の教育に近づくでしょう。

 第4に、住民の主体形成に教育行政が「援助」等の関わりをもつことです。かって蜷川民主府政の時、「ろばた懇談会」という社会教育での取り組みがありました。地域の教育力が高まることを“想起”し、未来の展望を考えていきましょう。

 
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