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子どもの「荒れ」に寄り添い、向かい合う
―「規範意識」の強要に抗して―



                 福田 敦志(大阪教育大学)
 

一 「規範意識の醸成」の提起と「ビシッとさせる指導」の蔓延

 今年度の「はじめの一歩」は、どのようなものであったろうか。ご自身が思い描いた通りの、確かな歩みとなっているであろうか。その歩みは、子どもたちとともに手を携え合いながら進むものとなっているであろうか。それとも……。

「規範意識の醸成」。

 これは、「生徒指導に関する学校・教職員向けの基本書」として、文部科学省が二〇一〇年三月に出した『生徒指導提要』なる文書のキーフレーズの一つである。『生徒指導提要』は、「小学校段階から高等学校段階までの生徒指導の理論・考え方や実際の指導方法等について、時代の変化に即して網羅的にまとめ、生徒指導の実践に際し教員間や学校間で教職員の共通理解を図り、組織的・体系的な生徒指導の取組を進める」ために編まれたものとされる(1)。「規範意識の醸成」はその文書全体において重要な位置づけを与えられているが、とりわけ「第六章 生徒指導の進め方 T 児童生徒全体への指導 第六節 校内規律に関する指導の基本」のなかで、「規範意識の醸成に関する指導について」という項目を立てられて論じられているものである。ここでの「規範意識の醸成」は、教育基本法(二〇〇六年版)第六条の「教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない」という文言ならびに学校教育法第二一条を根拠に提起していると主張されている。

 「規範意識」という言葉は、「判断・評価または行為などの拠るべき手本・基準」(『広辞苑』)という意をもつ「規範」と、「今していることが自分でわかっている状態」(同)という意の「意識」とが結びついてできたものである。あえて解釈するならば、「ある特定の基準に基づいて自分の行動を自覚的に制御できる状態」とでも言えようか。

 この解釈がある程度の妥当性をもつならば、「ある特定の基準」がどのようなものであるのかが、決定的な意味をもつ。ここで『生徒指導提要』でいうところの「規範意識の醸成」が、「校内規律の遵守」と密接に関連づけつつ論じられていることに鑑みるならば、この場合の「規範」とは、何ものかによってすでにどこかであらかじめ策定された基準に他ならない。すなわち、何が「正しい」のか、何が「善」であるのかはすでに決められているのであって、そこには子どもたちが納得し、合意していく過程など初めから想定されておらず、「正しい」から、「善」であるからという理由で「判断・評価または行為」を一定の方向へと導いていくことが期待されているのである。こうした方向づけの具体的な表れが、「最初にビシッとしつけておかないと、後で後悔するよ」という、一見良心的にも聞こえる囁きであり、「寛容な態度なんて必要ない」(=ゼロトレランス)という思想に基づいた「毅然とした対応」であり、「学校全体として一致した対応」であろう。このような、ある特定の「規範」を受けとめることが強要される情勢のなかで、子どもの「声」をきき、子どもたち同士のか細いつながりの糸を丁寧により合わせながら、何が正しいのか、本当にすべきことは何であるのかを子どもたちとともに考え、それに基づいて学級や学校を今よりももっとすてきな場所へと変えていこうと努力している教師たちの多くが苦闘を強いられ、深刻な傷を負う事態さえ、生じてきているのである。


二 「規範意識」の強要が生みだすもの

 どこか別のところで定められた「正しさ」や「善」に基づいて「毅然とした態度」をとり、「ビシッとさせる指導」を展開するという要請を受け入れ、実際にそれを行う行為は、ただ単に子どもたちに威圧的に振る舞うということのみを意味するものではない。それは一つには、何が「正しい」のか、何が「善」であるのかを目の前の子どもたちと吟味し、合意をつくりだしながら、教師自身も含めた互いの成長・発達を保障していく教育の場を創造していく教師として在り続けることを放棄することを意味している。したがってこのことは、どこかで誰かが定めた「正しさ」や「善」を、他ならぬ教師が無批判に受け入れることである。

 いや、そればかりではない。「ビシッとさせる指導」を展開することは、教師と子どもとの関係のなかで、「正しさ」や「善」を無批判に受け入れる状況を再演してしまうことでさえある。すなわち、「ビシッとさせる指導」を要請するというやり方で、どこか別のところで定められた「正しさ」や「善」を無批判に受け入れる身体をつくりだすことがすでに進行中なのである。

 こうした指導が展開されていくなかで形成されるものは、言うまでもなく、「指導―被指導」の関係ではない。「指導―被指導」の関係が含意するところは、「正しい指導には従い、誤った指導には拒否の姿勢を示し、対決する」ことであり、そうすることで何が「正しい」のか、どうすることが互いの成長・発達や幸福につながるのかを吟味し、実現する力を養うということである。だが、「ビシッとさせる指導」によって形成されるのは、「指導―被指導」の関係ではなく、「支配―服従」の関係である。

 ここで服従すべき存在であるのは全ての子どもたちのことであり、私たちのことでもある。したがって、「ビシッとさせる指導」の要請の背後にあるものは、個々の教師の指導力量への関心でもなければ、学級崩壊等の現象面への関心でもない。それは、「支配―服従」の関係の構築という野望である。それは、一人ひとりの尊厳を踏みにじろうとする暴力である。私たちは今やこうした暴力にすべからく巻き込まれつつあるのである。

 他方で、「規範意識」の強要の具体化たる「ビシッとさせる指導」は、子どもたちが今まで生きてきたという事実や今まさにこの瞬間を生きているという事実を、さらには子どもたちがどのような関係性のなかで生きているのかという事実を、つまり子どもたちが生きる文脈を教育実践から排除する方へと作用する。なぜなら、「規範意識」を強要するということは、その「規範」に基づいた判断や行為ができているか否かのみが問題となるということであり、そこにはその行為がなぜできたのか、その判断がなぜできなかったのかという「理由」が入り込む余地など皆無であるからである。そこは、「一〇〇かゼロか」という価値観が支配する世界に他ならない。

 当たり前のことではあるが、四六時中「キレ」続ける子どもも、暴力をふるい続ける子どももいない。絶対にいない。このことは、その子どもが「キレ」たり暴力をふるったりすることには、どんなに分かりにくかったとしても、その子なりの「理由」が必ずあるということを示唆している。多くの教師たちはその子どもをケアしながら、かすかな手がかりをもとにその「理由」を推測しつつ、あきらめることなくその子どもの自立を願って働きかけ続けてきたのである。これこそが、この国の教師たちが積み重ねてきた教育の遺産であるが、「規範意識」の強要は、こうした教師の存在を否定する方向で影響力を増していくことになろう。


三 「共有課題」の発見と連帯の構想

 「自己責任」の原理に貫かれた新自由主義が席捲した後の世を生きる私たちは、「『一部の彼らの問題』を『私たちの社会の問題』として、拓いていく回路が閉じられている」状態にあると、千田有紀氏は指摘する(2)。つまり、「荒れ」る子どもの「理由」が仮にわかったとしても、「ソンナノハアイツノモンダイダカラ、ワタシタチニハカンケイナイ」「ワタシダッテシンドイオモイヲシテモガマンシテイルノニ、キレチャウナンテアマエテルンダ」というように、かえって「アイツラ―ワタシタチ」という境界線が引かれ、みんなの問題として考えようとする土俵にすら立てない現実のなかを、子どもたちも私たちも生きている。この現実が、固有名詞をもった個々の具体的な子どもに生じている事象から世界の在り様を見つめる私たちのまなざしをますます劣化させ、その結果として、「ビシッとさせる指導」を受け入れる余地をさらに拡大させられるという悪循環のなかに、私たちは在る。

 それでもなお、この状況に抗して生きていく手がかりはどこにあるであろうか。

 その手がかりは、他でもない、「荒れ」る子どもたちが私たちに示してくれている。

 この国の教師たちは、子どもたちの「荒れ」るという行為の背後にいるはずの、「こんなふうにしたいわけではない」と願ったり、「○○な人になりたい」と願ったりしている「もう一人の自分」の存在を信じ、その「もう一人の自分」に呼びかけながらその子どもの自立への営みを支え続けてきた。この呼びかけはあるとき、共感的なそれから、自立へのハードルを乗り越えさせようとするような、共闘的なものへと質的な転化を必要とする。先にふれた「一〇〇かゼロか」という価値観は、こうした実践のなかで発見されたものである。つまり、「ビシッとさせる指導」のなかで最も傷つけられてきた子どもに、「規範意識」を強要するような「指導」が生みだそうとした価値観がもっとも明瞭に刻み込まれていたのである(3)。

 このように考えるならば、「一〇〇かゼロか」の価値観は、ほとんどの子どもたちに多かれ少なかれ刻み込まれているものとして自覚することが可能となる。それはすなわち、「アイツノモンダイ」ではなく、「私たちが共有している課題」として認識しうることを意味する。「共有課題」を見い出すことが可能であるならば、そこに共同の取り組みを立ち上げ、連帯を実現させていく境地は手を伸ばせば届くところまで近づいていよう(4)。

 思えば先人たちは、苦境のなかにこそ、光を見い出してきた。私たちは今、暗闇のなかにこのまま埋もれていくのか、それとも暗闇が濃くなるからこそ凝縮された光に気づくことができるのかの岐路に立っているのかもしれない。こうしたとき、先人たちのそばにはつねに保護者や地域の人びとも含めたなかまと、子どもたちがいたはずである。

 今や、まぎれもなく私たちの番である。なかまと子どもたちとともに、光を見つける旅に出よう。昨今の状況だからこそ、その光はきっと見つかるはずである。

<註>

(1) 文部科学省『生徒指導提要』、二〇一〇年、「まえがき」参照。
(2) 千田有紀「新自由主義の文法」『思想』第一〇三三号、岩波書店、二〇一〇年五月、一八一頁参照。
(3) 高木安夫「隆信の自立に向けて」『生活指導』明治図書、第六六八号、二〇〇九年七月、一二‐二五頁所収参照。
(4) 「共有課題」の発見と共同、連帯の問題については、暴力という言葉を「荒れる」という自動詞ではなく、「おかす」という他動詞でとらえ直しながら、平和の地平を見い出そうとした竹内常一氏のモチーフにも示唆を得ている。竹内常一「おかす・禁忌の言葉―『侵す』『犯す』『暴す』」『リニューアルひと』太郎次郎社、二〇〇〇年七・八月、八−一四頁所収および竹内常一『教育を変える―暴力を越えて平和の地平へ』桜井書店、二〇〇〇年参照。竹内氏が提起している構想の批判的かつ発展的な継承の試みについては他日を期したい。
 
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