トップ ひろば一覧表  ひろば170号目次

早川幸生の京都歴史たまて箱(70)
豆腐――人々の健康と食文化を支え続けて――



                             早川 幸生
 
 「ひろば 京都の教育」170号では、本文の他に写真・絵図など14枚が掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」16号をごらんください。

 
 
○豆腐との出会い――「回り」と国語教材で

 「パープーパプーパープー」

 豆腐屋さんの「回り」の到来を告げるラッパの音です。今では減りましたが、以前はリヤカーを引いた豆腐屋さんが各町内を回って商いをしていました。これを「回り」と呼んで、町の人々は活用していました。

 このラッパの音は、何度聞いても「トーフー、トフー、トーフー」と聞こえ、メンコやビー玉で遊ぶ手を止め、声高に真似たものです。

 水槽に入った豆腐を、注文に応じて大きな豆腐用の包丁で切ってくれます。それを、昔はどんぶりや鉢、桶、鍋等にもらい、恐る恐る水をこぼさないように、また豆腐をくずさないよう注意して持ち帰りました。今のように一丁ずつパックされていない時代には「回り」の豆腐屋さんを本当にみんなが待ち望んだのです。

 確か、おからはただでサービス品でした。

 次の出会いは、小学校三年生の国語の教科書にある「すがたをかえる大豆」という教材の中でした。多くの人がほとんど毎日口にしている食材として大豆があげられ、意外とその事実が知られていない理由として、いろいろな食品にすがたを変えていることが述べられていました。

 煮豆、きな粉、納豆、味噌(そ)、醤油そして豆腐とその関連製品等です。そして「こんなに多くの食べ方が工夫されてきたのは、大豆が味もよく、畑の肉といわれるくらいたくさんの栄養を含んでいるからです」と結ばれています。

 以上の学習をした子ども達は、総合的な学習で大豆の栽培をし加工に挑戦しました。昔から伝わる道具も使いチャレンジしたのは「きなこ作り」と「豆腐作り」でした。

 豆腐作りで困ったことは、にがりを入れるタイミングと量でした。そして分かったことは、受け皿付石臼の便利さとその工夫でした。


○豆腐の歴史――中国伝来・仏教文化と京都の水

 発祥は中国で、豆腐の「腐」は腐(くさ)るという意味ではなく、中国でヨーグルトを乳腐というように、固体であってかつ柔らかくて弾力性のあるものを言ったようです。前二世紀、漢高祖の孫淮南(えなん)が創作したという説もあり、淮(え)南(なん)遺品という名も残されています。

 おそらく北方から伝わったヨーグルトをヒントに発明されたと考えられ、「乳」を原料である「豆」に置きかえ「豆腐」になったようです。中国でも唐末期や宋時代に「豆腐」という言葉が使われた書物が見られ、日本では、春日大社の記録に一一八三年に見られるものが古く、鎌倉時代には「すり豆腐」という名が見られるようになります。禅宗とともに伝来したと言われます。

 その当時は「奈良豆腐・宇治豆腐」という呼び名から奈良・宇治が名産地で、京都にまで売りに来ていたようです。やがて大消費地であり水の良い京都で盛んに作られたようです。また、寺社が多く、精進料理・普茶料理・雲水料理に不可欠な品として発展したことが考えられます。


○湯豆腐――門前の名物・南禅寺界隈

 南禅寺の門前町は、幼い頃は遊び場であり、教師になってからは疏水学習には不可欠のフィールドワークです。水路閣・インクライン・第二疏水・田辺朔郎像へと続く道です。

 南禅寺の両側に「湯豆腐」を出すまたはメイン料理とする料理屋が並んでいます。「菊水」「竹千代」「順正」「五右衛門」等です。子ども心に「なぜこんなに湯豆腐屋さんが多いんや。家で食べる湯豆腐は、たいしておいしくないのに」と。一緒に遊んでいた仲間はみんな同じ思いを持っていました。

 南禅寺参道の「湯豆腐」のことを理解したのは、大人になってからでした。お寺の多い京都では、精進という「身を清め行いを慎むこと」「肉類を食わず菜食する」仏教の教えを食に表した「精進料理」が普及したこと。また京都の寺院では、賓客用の精進料理を料理屋に一任することが多かったことから、寺院より周辺や門前の料理屋が盛んになったことが解りました。

 その中の一つ「順正」についての紹介です。江戸末期天保十年(一八三九)に発行された花洛名勝図会に挿絵入りで載っています。「順正」発行のパンフレットの一節です。

 「順正書院は天保十年(一八三九)、新宮凉庭先生によって開設された学園で、当時の京都所司代、鮮江藩主・間部詮勝の命名による医学関係の学問所です。「順正」とは「逆ならず邪ならざる」という意味で、人倫の道に従い、邪悪にくみせず正しい道を教える学問所として開設されました。

 新宮凉庭先生は、天明七年(一七八七)に丹後の由良で生まれ、蘭医学や儒学を修め京都で開業しました。当時の名医として知られ、幕末に来日し西洋医学を日本人に教えたシーボルトも、自分の著書の中で新宮先生の人格と手腕をおおいに称えています。豊富な山水を使い、門下生とともに自ら鴨川から運んで造ったと伝えられる庭園と、「名教楽地」と刻まれた石門をくぐれば果樹が生い繁り、広々とした薬草畑には貴重な薬草が栽培されたといいます」

 創設当時そのままの構築を永い間私邸とされていたのを、各界からの声に応えて南禅寺名物の「ゆどうふ」に京風料理をおりこんだ雲水料理等の料亭として公開されたのでした。

 医学校としての「順正」の名が、今では南禅寺名物ゆどうふの名店(名園)になっています。一七三年前の図会そのままの建物や庭園に生かされます。一見の値打ちスポットです。


○祇園二軒茶屋――豆腐と長崎出島オランダ人

 現在も東山区の祇園神社の南入口に「二軒茶屋」という料理屋があり、営業しています。

 江戸時代の天明七年(一七八七)に出版された拾遺都名所図会に、次のような記述が見られます。二軒茶屋についての説明です。

 「社頭の南、大鳥居の内にあり。いにしえは茶店に鑵子(かんす)(茶釜)をかけ湯を滾(たぎ)らし、香煎を立てて社参の人の休息(やすみ)所とす。(中略)今より百八十年前慶長の頃、東方(かた)にも建てて東西両翼のごとし。これを二軒茶屋という。(中略)毎歳六月朔日には炙餅(あぶりもち)を串にさして豆腐に合わせ味噌引とし、これを合餅(あわせもち)という。この日祇園会(祇園祭)鉾の児(ちご)、その他参詣の人々にもこれを出だす。また六月六日にも、神楽所において祭儀の役人にこれを出して嘉例(吉例:めでたいしきたり)とす。これ加茂社御手洗(みたらし)団子の類ひなるべし。この茶店今はいにしえに変わりて、つねに豆腐を切りて田楽の形とし、この一種を出して酒飯をうる。この所の風俗(ならわし)なりとて、魚肉をあきなう事を禁ず。これはむかし、比叡山の末院にして仏ろうのほとりゆえなるが、今も山門の阿闍梨(あじゃり)、一夏中洛辺の神社巡拝したまう時、西方の茶店にやすらいたまい、日毎に昼食あるは、これむかしの遺風ならん。また阿蘭陀(おらんだ)人洛東通行の時、東方の茶店にやすらひけるも流例になりしとぞいう」挿絵もそえられています。

 文中の阿蘭陀人洛東通行とは、江戸期鎖国の時代二一八年間に「貿易の国」として、毎年の定期来航の唐(中国)蘭(オランダ)の二カ国のうち、毎年江戸まで出向いて来る使節は「オランダ・カピタン(商館長)一行」のことでした。「カピタンの江戸参府」と呼ばれ記録もよく残っています。

 江戸参府の経路は、長崎から小倉間は長崎街道を進み、小倉から下関へ船で渡り、下関から兵庫もしくは室津までは船旅、その後大阪を経て京都から江戸まで東海道でした。

 京都には、往路復路とも四、五日滞在した定宿“阿蘭陀宿”があり、三条河原町の「海老屋」に泊まったと記されています。

 阿蘭陀人洛東通行の洛東通行とは、帰路の二日目に洛東(現東山区周辺)の知恩院・祇園二軒茶屋・清水寺・京都大仏・三十三間堂から稲荷大社の見物のことです。「耳塚」を見、説明を聞いた一行が「肝を冷やした」との記録も残されています。

 二軒茶屋では「酒肴」が出され、豆腐切りを見学したそうです。「茶代百疋」「豆腐切り百疋」の祝儀(チップ)がはずまれたとのことです。現在のお金では約一四万円と高額です。座敷の会食の様子を見ようと、通りや軒先、店先まで多くの見物人が集まったようです。図の右端に半分だけ見える大鳥居が、祇園南口正面の、京都で一番大きい石の鳥居です。

 随行の医師として参府したシーボルトも、一日でも長く京都にいて日本研究に従事したいと、いろいろ画策した記録も残されています。

 さて、豆腐を口にした肝心のオランダ人達の食後の感想はどうだったのでしょう。

 ある随行員の日記の一節に、京都で食べた物についての記述があります。紹介します。「白く冷たい物を食べた。歯ごたえは無く、つるりとして、味はなかった」と。

 食べた物の名前や「豆腐」という言葉は出てきませんが、何となく「豆腐」の冷奴の感じがします。もう一度「二軒茶屋」の図を見ると、二人のオランダ人の視線の先にあるのは日本女性の持つ包丁と「奴豆腐」でしょうか。

 いくつか確認したいこともあり、実際に「二軒茶屋」に行きました。三つの収穫がありました。@当時と同じであろうと伝えられる「祇園豆腐」が食べられたこと。A店に伝わる話によると「幕末期に坂本龍馬や伊藤博文が来店し食した」とのこと。B都名所図会の豆腐切りをしている女性の切っているのは、どうやら現在も店の名物として売られている「祇園豆腐」の木の芽味噌田楽用の豆腐を、串が刺せるように等分の大きさに切って見せている様子だということが判ったことです。


○門前の豆腐――「嵯峨豆腐森嘉」

 最近、神社仏閣の門前や近くの豆腐屋さんに、お客さんの行列を見ることがあります。北野神社の門前や近くに、創業明治三十年(一八九七)百年以上の老舗が含まれています。

 高雄小学校の秋の縦割遠足は、高雄小を出発し、平岡八幡宮から山越えで北嵯峨高校前を通り、直指庵、五山の送り火鳥居山の麓を抜け、保津峡を眼下に見る嵐山の亀山公園展望台までの、コスモスと抜群の紅葉のコースでした。歩きながら一人の女の子が話しかけてきました。

 「先生、飛龍頭(ひろうす)好き?おあげは?」

 「好きやで。おあげのたいたの大好物や」

 「ほな教えたげる。釈迦堂前に森嘉(もりか)さんていうお豆腐屋さんで売ったはる。メッチャおいしいし、先生行ってみ。お豆腐もおいしいえ」

 おじいちゃん、おばあちゃんが五山の送り火保存会の鳥居本町にお住まいでした。お父さんは、嵯峨祭の剣鉾の差方の継承者でした。その子も僕もともにおばあちゃん子だったので、話がよく合いました。特に食生活で。

 安政年間創業。一五〇年の老舗の森嘉さん。先々代の森嘉は、天龍寺の禅刹に出入りして、いろいろなアドバイスを頂かれたとのこと。そして地下三〇メートルの深さまでボーリングして得た軟水の井戸水。陰の努力の賜物です。飛龍頭(ひろうす)と辛子豆腐が、豆腐とともにお勧めです。

 水と品質、味と食の安全を大看板の「森嘉」さん。紹介してくれた少女に感謝しています。

 
「ひろば 京都の教育170号」お申込の方は、こちらをごらんください。
トップ ひろば一覧表