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■私と京都


原発の過酷事故―その責任と解決をめぐって


             ティアナ・サンティニ・サルサノ

 

 三月の恐るべき事故が起こるまで、私は、他の多くの人々と同じように、原発に対してまったく注意を払っていませんでした。あの災害以後は心にかけるようになりましたが、今度は原発災害についての情報の問題に直面しました。それは情報の不足ではなく、むしろその過剰、とくに浅薄で表面的な事実や誤解を招くような情報の氾濫です。どれが信ずるに足る情報か、私たちは重大な選択を余儀なくされる状況に身を置くことになったのです。十分な教育を受けた者でも、大量の情報のなかから真実を選り分けることは大変困難です。

 あらゆる分野で日本の品質、効率性、高水準の専門的技術は国際的に高く評価され、後に続くべき模範ともされてきました。日本は地震多発国であり、災害管理において世界的な先進国でした。それにもかかわらず大規模な災害によって、原発はすべての安全手段が次々と断たれた末、制御不能となりました。すべての効率性や高度の技術にもかかわらず発生したこれらの機能停止は、誰にとっても衝撃でした。世界中の人々は、よその地域の原発であってもその安全性について憂慮することとなりました。全世界がこぞって問題の重大性について考えさせられました。悲劇が起こったとき、私は母国のウルグアイにいました。そして隣国のわが国との国境に非常に近いところにも、原発のあるのを初めて知りました。この問題は、これまでウルグアイの報道機関では、議論も注目もされてこなかったのです。

 国際的な報道において、問題にたいする接近の仕方が日本と西洋では異なっており、これは誤解を招きかねません。日本では多くの集団がある問題に巻き込まれたとき、まず第一に協力してものごとを進めるための合意と解決策を見つけることに努力を集中します。これに対して西洋諸国における一番の関心事は、常に事故や問題の責任を特定することにあります。これはもちろん本来社会学者によって説明されるべき複雑な文化的差異を単純化してしまうものです。しかしこの異なるアプローチによって西洋のジャーナリストや専門家は、当時実施された危機管理において、責任追及の「遅れ」を見ました。安全検査に偽りがあり、安全手段が国際基準に従っていなかったといわれています。また安全手段は法的な基準に従ってはいたが十分に高いものではなかったともいわれています。日本の報道機関は、この問題に関してあまり注目していないようですが、それはたぶん、責任追求にこだわっては、いまなお生命が危険にさらされている人々のことを忘れてしまいかねないからでしょう。

 議論は今エネルギー問題とエネルギー資源の多様化の可能性に集中しています。これは非常に複雑な問題です。一国の必要エネルギーを他の代替手段、とくに「環境にやさしい」ものでまかなうことは極めて困難です。原発を廃止することは、経済や工業を考えれば、選択肢とはなりません。さらに日本は世界経済に最も重要な役割を果たしている国の一つであり、日本の経済に起きることは他の国々に影響を与え、状況を一層複雑にします。

 同様に、いまや地域的に限定されないものとなった環境汚染のリスクについても考えなければなりません。原発は利点とともに、事故とその処理のような困難な多くの問題もあります。エネルギーの代替資源はありますが、世界は現在、石油と原子力に基礎を置くエネルギーシステムで維持されており、経済も社会も強くそれに頼っています。

 それは簡単には変えられませんが、今回のような大事件は警報として役立ち、代替エネルギー資源の研究において、政府と私企業による(人的・物的)資源の投入の増加を「呼び起こす」でしょう。「大きな絵」(全体の状況)を意識し、私たちが消費するモノやサービスがどこからくるのかを意識することは、私たちのような一般の人間にとっても重要です。この意識が私たちが消費する仕方を変え、一層責任ある方法でそれを行うのを助けるでしょう。              ―2011年9月記

(Tyana Santini Salzano ウルグアイ出身、京都大学大学院工学研究科)
 
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