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■特集テーマ 1

 乳幼児の健やかな育ち--気になる「新システム」

総論
子どもたちの「遊びにくさ」のおおもとにあるもの


             神谷栄司(京都橘大学)



 近年、幼児や小学生の「遊びにくさ」が顕著になってきました。そこに現代の幼児の生活・発達・保育に関するあらゆる主要な問題が錯綜して現れている、と思われます。なぜなら、遊びは、遊んでいる子ども自身と、彼を取り巻く生活世界を映し出す鏡であるからです。


崩壊しやすいルール遊び

 今日の「遊びにくさ」の最も鋭い特徴は、遊びのなかでルールの公平性が確保されにくくなっていることです。それは部分的な現象かも知れませんが、小学校低学年によく見られ、はなはだしい場合は四歳児にも観察されます。

 ルールの公平性の確保しづらさとは、一緒に遊んでいる誰かが、自分が負けそうになると急にルールを変更してしまう、そして、その子はずっと勝ちつづけようとする、というようなことです。当然ながら、他の子どもたちは面白くないので、遊びは崩壊してしまいます(麻生奈央子「勝ち負けを遊べない子ども」『アエラ』二〇〇九年三月九日)。そうした子どもたちを待ち受けているのは各種のゲーム機であるので、ここに集団的な遊びが終わり、個人的な遊びが台頭することになります。

 ここで考えておきたいことは、ピアジェの名著『子どもにおける道徳判断』(一九三二年)の冒頭にある「ビー玉遊び」の考察に照らして、次の二つの点をどう受けとめるのか、という点についてです。

 第一には、ピアジェは五〜八歳の子どもは遊びのルールを神聖不可侵なものと見なす傾向を持つこと(道徳実在論)を実証的に明らかにしていますが、この傾向はルールを自分勝手に変更するという上述の事例と矛盾しているように見える、という点です。にもかかわらず、ピアジェの著作をよく調べてみると、それは外見上の矛盾にすぎないことが明らかになります。ピアジェはこの傾向を、昼と夜の規則的な交替とか散歩のときにいつも見る風景の存在などの物理的規則性からとともに、より有力なものとして、人間的要因から説明しています。

 「義務の感情は、子どもが敬意を抱く人たちに由来する強制を彼が受け入れたとき以外には現れない」。つまり、子どもが最も信頼を寄せる大人の言動が、この時期の子どものルールへの態度に色濃く反映している。それ故に、ルールを神聖不可侵なものと見なす傾向も、ルールを自分勝手に変えてよいという傾向も、ともに、そうした大人の言動がそれらの根本的要因になっている、ということになります。ひるがえって考えてみると、子どもの遊びは、ごく稀に、生活世界を超えて大世界を映し出す鏡にもなりえました。戦時下の「兵隊さんごっこ」とか一九六〇年に「アンポ・ハンタイ」と訳の分からないことばを大声で唱えた「デモごっこ」とかが、そうした大世界の鏡の事例です。これらはその時の社会の鋭い転換を映し出しているのですが、ルールを自分勝手に(自分だけが有利なように)変更する今日の子どもを左右する大人の言動は、八〇年代の3K(国鉄、米、教育)改革にはじまる新自由主義改革が生活世界のなかに入り込み、そうした社会システムに怯え(負け組や非正規職員にならないようにと)、それに過度に適応しようとする「子どもが敬意を抱く人たち」によるものなのです。これが今日、大世界が生活世界に浸透してくるメカニズムです。

 第二には、ピアジェは、子どもは五〜八歳のルールの神聖視(道徳実在論)から一〇〜一二歳頃には、遊びの利益(遊びをより面白くすること)のために、遊び手の皆の合意にもとづきながら、ルールを変更するようになる、とルール意識の発達を展望しました。これは、一方向的敬意から相互的な敬意へ、他律性から自律性へ、道徳実在論から社会契約的な相互主義にもとづく協同的・民主主義的道徳へという人格の発達、さらには、デュルケームが刑法(一種の社会的ルール)の歴史の研究をもとに描いた未開社会における機械的連帯から文明社会における有機的連帯へという図式と、パラレルなものでした。この展望からすれば、小学校低学年で集団的なルール遊びが崩壊するという事実は、将来の相互的敬意、自律性、相互主義的な協同的・民主主義道徳への道を閉ざしてしまうことを意味しており、ヨーロッパがすでに離脱しつつある、新自由主義的社会システムの形成という大世界の罪の大きさを如実に表しています。かつての「兵隊さんごっこ」や「デモごっこ」は、それ自体として見れば、遊びでしたが、今日の「遊びにくさ」は、遊びが大世界を映し出したとたんに自らを堀崩してしまうところに特徴があり、それだけに深刻な事態であるのです。


遊びを救うもの──幼児期におけるイメージの力

 そうしたなかで、遊びを救うものは遊びの「面白さ」以外にはありません。

 小学生の遊びについては、ルールの改良が必要となるでしょう。学童保育における遊びの実践の蓄積から言いうることは、(1) 低学年の子どもにとってはルール遊びにイメージが必要であること(例えばオニごっこの一種である「泥警」の泥棒と警察のイメージ)、(2) 異年齢の子どもが楽しく遊べるように、年長者には「ハンディ」を設けること、(3) 勝ち負けが個人の責任に帰されないように多人数で遊ぶこと、(4) 偶然の勝ち負けという要素を大切にすること、などのルールの改良でしょう。重要なことは、子ども自身の力では残念ながらそのような改良をなしとげることができず、大人のデリケートな指導や援助が必要であると認めることです。

 幼児においては、たいていの場合、イメージの力が遊びを救い出してくれます。

 ある三歳児には自宅で「カクレンボしよ」としきりに親を誘う時期がありました。親がそれに乗ってオニになり、隣の部屋のカーテンの陰に隠れている子どもをすぐに発見しても(ゴソゴソするのですぐ判ります)、わざと「どこに隠れているのかな?」と子どもに聞こえる声で言いました。子どもは「ここや」といって満面の笑みで出てきました。その同じ子どもが小学一年生のとき、同じように「カクレンボしよ」と親を誘いました。今度は親がいくら探しても見つからず、一〇分近く経過した後で、「どこにいるか見つからないから、カクレンボはおしまい」と言われて、その子は押入れの奥の奥から満足げに出てきたのでした。

 この事例から、三歳児はまだルールに沿って遊びえないこと、小学生になった頃から、ルールに沿った遊びが喜びとなることは、おわかりでしょう(ただし、この場合、子どもがより忍耐の要るオニでないことに注目する必要はあります)。

 五歳児ともなればルール遊びを楽しむことができると考える保育者もいますが、そこに落とし穴があります。ルール遊びは必ず勝ち負けを伴う遊びなのですから、「勝ち負け」に鋭敏な子どもにとって負けた場合には遊びどころではなく、パニックになる子もいます。そのような五歳児がイメージによって救われた事例を紹介してみましょう。それは遠足が中止になり、保育室で行われた「手押し車」(二人一組になり前の子は両手で前に進み、後ろの子は前の子の両足を持って前に進む)のリレーについてです。

 この子は、このリレーが始まる直前の練習時間において、何度も崩れ、上手く進むことができない自分たちの「手押し車」に苛立っていた。ペアとなった押し手の子どもを「おまえがちゃんと持たへんからや!」「こんなんやったら負けるやんけ!」とすごい剣幕で怒鳴りつけていた。
 その状況は大いに気になるものであったので、私は、この子に対し「ガソリンはちゃんと入れたか?」と突然にたずねてみた。彼は当初何のことだか理解できないといった表情でこちらに顔を向けただけであったが、すぐに合点がいったのか、表情を明るいものに一転させ、胸を張って「俺はクラウン(車種)だ!」と大声で答えた。さらに「タイヤの空気はパンパンになっているか?」と問うと、目を輝かせ「大丈夫!(タイヤの空気は)パンパンだ!」と答え、さらに「(ガソリン)どこから入れるの?」との問いには、腰のあたりを指差し、「ここ。ここから入れて!」。「どこが、タイヤなの?」との問いには、「ここだ」と両腕を得意げに曲げて見せる姿が見られた。そのやりとりを見ていた周囲の子どもたちも「車のライトはこれ(車役の子どもの両目)だ!」とウインクをして見せる、「こっちでもガソリン入れるよー。いらっしゃーい。」とガソリンスタンドの店員になる、などそれぞれが役割をもって遊びはじめた。そしてリレーが始まるまでの間、イメージの世界でガソリンを給油し、タイヤの空気を充填した子どもたちは和気あいあいと「試運転」し続けたのであった(代田盛一郎による観察)。


 この子が示していることは、勝ち負けのあるリレーは楽しめないが、そこに虚構、想像、イメージがあるとき、子どもの遊びは一変することにあります。

 今日の幼児の「遊びにくさ」は、主要には、このように勝ち負けに鋭敏な子ども(根本的には新自由主義的社会システムを映し出している)と、そうした子どもたちの騒ぎのなかで不安定となる「発達障害」の疑いのある子どもたちとによって、つくりだされています。AD/HDの疑いのある四歳児が劇遊び(つまりイメージの遊び)をクラスに溶け込んで遊んでいる事例、自閉的傾向のある五歳児が独特な形で(描画によって)クラスの劇遊びに参加している事例は、筆者が書いたエッセイ「『軽度発達障害』のある子どもたちが教えてくれたもの」(『京都教育センター通信』再刊二二号、二〇〇八年四月一〇日発行)を参照してください。また、六名の「気になる」子ども(アスペルガー症、AD/HD、軽度の知的障害二名、家庭的要因による不安定、後にLDと診断)のいる五歳児組を担任した保育者の記録を見ると、年度後半に、彼らがクラスに溶け込んで行った主要な要因がイメージの遊びの積み重ねにあったことも、イメージの力が遊びを救い出すことを証明しているように思われます。

 幼児期のイメージと学童期のルールの改良がそれぞれの時期にもたらすものは遊びの「面白さ」です。詳しく述べる紙数がありませんが、この「面白さ」がルールに何をもたらすかについては、一七世紀の哲学者スピノザに学んだヴィゴツキーの遊び理論が明らかにしています(「子どもの心理発達における遊びとその役割」一九三三年)。

 人間は意志の力によって感情を克服できると考えたデカルトに対して、スピノザは感情を克服できるものは感情(克服される感情とは反対の、より強い感情)の力だけである、と考えました。ヴィゴツキーはこの考えを子どもの遊びのなかに見出したのです。──子どもは、遊びの面白さの故に、遊びのなかでは、自分の即自的、直接的な衝動に反して、ルールにもとづいて行為している。即自的衝動やルールからの逸脱を克服するものは、「面白さ」というより大きな感情である。生活のルールは子どもにとって窮屈に従うか破るかするしかない外的なルールであるが、遊びのルールは面白さを保証する内的なルールであり、そこにルールと自由のパラドックス、スピノザの表現を借りれば、「自由なる必然性」がある、と。そうした意味で、ヴィゴツキーは遊びのなかに人間の自由を求めたスピノザの理想の原型がある、とさえ述べたのです。子どもは、遊びのなかで、面白いから、とくに自覚せずに、自分たちを自由にするルールに従っている(ピアジェのいう相互的尊敬や自律性、協同的道徳はすでに幼児の遊びのなかにあります)が、それは将来の生活のなかに同様のルールを準備するものであるから、遊びは発達の最近接領域をつくりだしている、ということが、ヴィゴツキー理論の含意でありましょう。  


「子ども・子育て新システム」の新自由主義的核心

 子どもたちの今日の「遊びにくさ」のおおもとは新自由主義の社会システムにあること、そこから遊びを救い出す道は、年齢的・発達的にはイメージであったりルールの改良であったりするが、基本的には、遊びの「面白さ」であること、ピアジェとヴィゴツキーの所説に依りながら遊びは人格発達にとって極めて重要な活動であることなどについて、述べてきました。

 昨(二〇一〇)年六月に政府の検討会議で固められた「子ども・子育て新システムの基本制度案要綱」についても、幼児の遊びの視点から捉えることが重要になりましょう。

 この「新システム」は一見するとかなり大胆な改革案を示しています。

 その外見的概略は乳幼児の保育(幼児教育を含む)と学童保育について、財政(子ども・子育て勘定)、行政(子ども家庭省の設立)、保育・幼児教育施設(こども園)、資格制度などのすべてを一元化ないし一体化しようとするものです。

 着目すべきことは契約制度や「利用券」システムの導入です。さらに、学校法人、社会福祉法人のみならず株式会社、NPOも「こども園」設立主体に数えあげていることは、保育所分野で部分的に起きていることを幼稚園も含めて乳幼児分野に一挙に広げ、市場化に道を拓くことでしょう。経営上は種々の保育サービス(小規模保育サービス、短時間利用者向け保育サービス、早朝・夜間・休日保育サービス、広域保育サービスなど)を含まねば成立しなくなるような仕組みでありましょう。

 問われているのは、義務教育イメージの原理(国家と地方自治体の公的責任)に立つのか、それとも、商品提供者−消費者の市場イメージの原理に立つのか、という点に本質があります。国家と地方自治体に課される学校設置義務をはじめとする義務教育イメージの原理は、今日、小学校から高校まで貫かれ、私学(幼稚園から大学まで)については「教育の公共性」にもとづく公費助成の根拠となり、保育所については市町村による「保育に欠ける」乳幼児への保育義務という形で具現されています。これを、就学前の分野で一挙に掘り崩そうとするものが「新システム」にほかなりません。

 子どもが生活し保育を受ける保育園や幼稚園が市場イメージの原理、つまり、新自由主義の原理にさらされていくことは、遊びの崩壊にさらに拍車をかける、と予想されます。そして、何よりも、経営上のことから保育者の精神的・身体的な余裕を減らしてしまうことは、子どもの発達にとって不幸極まりないことと言わねばなりません。


(註)文中に掲げた、麻生奈央子、代田盛一郎の事例、五歳児組の年間保育の事例は、筆者の編集による『子どもは遊べなくなったのか?−「気になる」子どもとヴィゴツキー=スピノザ遊び理論』(三学出版、近刊)に詳しく述べられている。

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