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■早川幸生の京都歴史教材たまて箱64 歌舞伎――「かぶき」は「傾く・かぶく」から 早川 幸生 |
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−顔見世− 「今年も一人来はるえ」 毎年十一月になると、教員室で話題にあがる会話でした。四条木屋町を少し上がる(北に行く)にあった、京都市立立誠小学校でのできごとです。転入生の連絡です。続いて 「住所はいつもと同じ、○○屋さんです」 これは、木屋町通の旧舗の宿屋です。少し解説するとこうなります。 毎年、年末恒例の南座の歌舞伎「顔見世興行」が実施されます。演目の中には、子役の必要なものがあり、その子役を演じる児童が「顔見世興行」の期間だけ、立誠小学校に在籍し、宿屋にお母さんと仮住まいして通学するのでした。学業も歌舞伎も両立することの、家族共々の努力に感心する毎日でした。 「顔見世、もう行かはりましたか。良ろしおしたえ」この言葉は、京都の町で十二月に聞かれるものですが、先に顔見世に行った人の、ちょっと自慢したい気持ちの入った挨拶でした。 そもそも「顔見世」とは、劇場年中行事の一つで、江戸時代には毎年十一月(京都・大阪では十二月)に役者の新しい顔ぶれによる一座で興行を始めるのがならわしでした。その最初の興行を「顔見世」と言い、一年のうち最も重大で華やかなものでした。 現在では、京都南座の十二月を顔見世興行として、年に一度の大きな興行を行う形でわずかにそのおもかげを残しています。 「歌舞伎」という言葉は、語源的には「かぶ傾く」という動詞の連用形が名詞化された「かぶき」で、「常軌を逸するもの」「並外れたもの」という意味です。流行の先端を行く髪型や服装、精神的な異風異装から、乱暴狼藉という行動面、現象面についても広く使われた言葉です。戦国時代からしだいに天下統一の世の中に移る激動の時代を、端的に表現する独特の流行語として、安土・桃山時代、江戸時代初期にもてはやされ、盛んに使われた言葉です。 −南座・北座− 「南座にまねきがあがりましたな」 このあいさつが交わされると、いよいよ京都の年の暮れの始まりとされています。「南座」とは、四条大橋を東に渡ると南側にある劇場の名前で、「まねき」とは、見物人を招き寄せるため劇場や芝居小屋の正面に掲げられた看板や飾り物のことです。 「南座にまねきがあがる」とは、恒例の顔見世の宣伝が始まり、「もう十二月。年の瀬(年末)が近いですね」という意味です。 そのまねきには「かんてい勘亭琉」という独特の書体が使われます。資料のように、筆太ですき間なく内へ丸く曲げるように書かれています。内へ丸く曲げるのは、観客が入るという縁起をかついだものだそうです。 「寛文の新堤(一六七〇)」と言われる新堤が鴨川両岸に築かれたことにより、鴨の河原の風景は一変しました。河原は「新地(新造成地の意味)」となり、ここに広大な芝居街と茶屋町が出現しました。 延宝四年(一六七六)の絵図では、四条大橋周辺に六軒の芝居小屋が、十七世紀の元禄時代には七軒描かれています。十八世紀の記録によると「四条北側の芝居は井筒屋助之丞・両替屋伝左衛門の所有」そして「南座芝居は、大和屋利兵衛・越後屋新史郎・伊勢屋嘉兵衛の三者が所有者」と記されています。 しかし、度々の大火で、資料の花洛名勝図会(一八六四)に見られるように、十九世紀末には北側に一軒、南側に一軒になりました。これが現在「北座」「南座」と呼ばれるものですが、その「北座」も明治二十六年(一八九四)の四条通り拡幅工事によってなくなりました。 −阿国(おくに)歌舞伎− 南座の川端通沿いの西入口に、写真のような石碑が建てられています。「阿国歌舞伎発祥之地」 そして四条川端をほんの少し北に行った桜と柳の植え込みの中に、出雲の阿国の銅像が建っています。慶長八年(一六〇三)から慶長十二、十三年(一六一二、一六一三)ごろまで四条河原町周辺で、出雲の阿国という女性芸能者が、当時流行していた「かぶき者」といわれる「意気がった若者達」の茶屋に通う姿を男装して、長い太刀を持ち、派手な衣裳を身にまとい、当時の流行歌や踊りを演じ、歌舞伎踊として人気をとりました。これが歌舞伎という芸能の始まりになったとされています。関ヶ原合戦後のすさんだ社会に、京都の人々を驚かせ絶大な賞賛を浴びたようです。 阿国について伝えられていることは、出雲大社の巫女で勧進のため一座を率いて入洛し、北野神社の定舞台で有名になり、その後各地を巡業し、さらにその人気を上げたそうです。江戸時代になり「女歌舞伎は社会の風紀を乱す」とのことで「女歌舞伎禁止令」が出されました。それ以降歌舞伎では、男が女を演じる「女形」が登場し、今日の歌舞伎に発展しました。 京都の最初のガイドブックと言われる「京童『明暦四年(一六五八)』」の四条河原を紹介します。「そもそもかぶきといふは、出雲みこ神子の舞をまなびそめしなり。このみこ仏号をとなへどら鉦をならし、念仏をどりせし後また刀をよこたへ男の装束にて歌舞す。それをかぶきといひしきたれるなり」と、当時の様子を書き記しています。 阿国は、晩年故郷の出雲に帰り、尼になり生涯を終えたと伝えられていますが、伝説の域は出ません。 −歌舞伎人形(伏見成田屋人形)− 六年生の歴史学習で、江戸時代の文化を勉強した時のことでした。教科書には「歌舞伎と版画」の項目があり、資料として、成田屋七代目団十郎の十八番である「暫(しばらく)」の花道の場面が描かれた江戸版画が載せられていました。その版画の団十郎の衣裳をよく見ると、大きな両袖に特徴のある三重の枡形(正方型)が描かれていました。「あれ、この模様」と思い出したのが、写真の伏見人形でした。昔、伏見の古道具屋で見つけた全体が茶色の土人形です。 詳しいことが知りたくなり、伏見人形の窯元の丹嘉(大西)さんを訪れました。 「これはたしかに暫(しばらく)です。今では歌舞伎人形と呼ばれていますが、昔は専売店があって、伏見成田屋人形と言われたようです。この『暫』と『助六』『矢根』の三体がセットになっています。この本に詳しいことが書かれています」と、一冊の本を貸して下さいました。 その一部を紹介します。 「そもそも江戸歌舞伎の七代目団十郎が京阪に来た訳は、彼の天才的な技法に魅せられた当時の大奥のお局たちは、争って自分のお気に入りの衣裳を団十郎に贈り、後に彼もそれを着て舞台に立ち演じるようになった。それが公儀に聞こえて『河原者の分際で豪奢に過ぎる』という理由で「江戸払い」になった。そこで彼は仕方なく浪花の地にやってきた。大阪・京都に来ても彼の天才はたちまち評判となり、各地の子女を熱狂させた。(後略) この噂が江戸まで聞こえて評判になり、嘉永二年(一八四九)十二月ついに赦されて江戸に帰ることができた。その帰東の折、伏見の割松屋に命じて、自分の十八番中の『助六』『矢根』『暫』の三つの型をとらせ、都合三百の人形を注文して土産として持ち帰った」 というものです。また、興味あることは、元来伏見人形は昔から罪人が流罪にされる際、見送りの者が「もとの土(土地)に還れ」という意味で投げたものであったことからも、七代目団十郎も江戸帰還がかなったので、この人形を造らせたのだといわれています。 伏見人形の種類には信仰対象として作られたもの、訓話的なもの、節句飾りのもの、子どもの玩具として作られたものそして観賞用のものがありますが、この成田屋(歌舞伎)人形は、観賞用に作られた代表的な人形です。 また、日本人の茶色好きもこの「暫」が一因との説もあり、江戸時代に茶色の朝顔が作られるほど、茶色熱が高まったとの話もうなずけますね。 −茶歌舞伎(ちゃかぶき)(闘茶(とうちゃ))− 京都伏見区の向島小学校では、四年生の総合的学習で一年間を通し「宇治茶」をテーマに毎年取り組んでいます。地域的には宇治市と隣接しており、茶業農家やお茶屋さんも校区にあり、地域学習として格好の学習教材になっています。市の農業指導所や茶業農家の方の尽力で学校に茶畑もできました。 春は茶摘みと手もみのお茶作り、製茶工場の工場見学。秋は茶臼をひいて茶を作り、お抹茶の体験です。亭主とお正客両方を体験します。そして冬は、抹茶を使ったスイーツ作り。まとめは、おうちの方やお世話になった方を学校に招いてのお茶とスイーツの会と、一年間の取り組みの発表で終わりです。 二年ほど前に、茶摘みや製茶の体験学習で毎年お世話になる、地域の茶業家の方から新しい行事の提案がありました。それは、 「先生、子どもさんらといっぺんちゃ茶かぶき香服をしてみたいと思うんですけど、どうですか」 というものでした。説明を聞きました。 茶歌舞伎とは、闘茶とも言われ、茶道家や製茶の盛んな日本各地の茶業家の間で、現在も伝わり実施されているそうです。茶の産地別による色や味を飲み分けて勝負を競う茶会の一つで、鎌倉時代のおわり頃から室町中期の足利義政の頃にかけて爆発的な流行があったと言われています。闘茶の紀元もお茶の伝来と同様中国であり、宋時代のようです。 『祇園社家記録』にも「本非十種茶」の勝負記録が残されており、賭け物を出し合って行われていたことがわかります。これは、本茶と呼ばれていたとが栂のお尾茶(京都高雄)と、非茶と呼ばれたそれ以外の産地の茶を飲み分けて勝負を競う遊びでした。栂尾はお茶の伝来・発祥地です。 その後、本非にかかわらず四種十服の茶勝負である十種茶が中心になりました。しかし、千利休時代(十六世紀後半)には「かぶき茶」といわれ細々と伝えられていたようです。江戸時代の中期に、千家七事式の一つに「茶歌舞伎」として再び取り上げられ現在に伝えられています。遊び方の基本は「三種五服」といい、三種の茶を五服(五杯)飲み、その味を飲み分けるものです。 向島小の子ども達が、総合学習で体験させていただいたのは「ちゃ茶かぶき香服」でした。戦争前までは、向島には「大池」と呼ばれた「お巨ぐら椋池」があったのですが、戦争中の食料増産のため干拓され、多くは米作農地になったのですが、戦後その干拓地に宇治川沿いの両側に点在していた茶畑を移転または増殖された、七軒の茶農家の「仲間」がありました。その仲間の方が学校に集まり、向島小初の「茶香服」を催してくださったのです。 その時は「五種五服(杯)」でしたが、五列に座った子どもたちに対し、一列ずつさかずきだい杯大の湯飲みに入った違う種類をのお茶を配り、試飲させるため、湯沸かし・分注・配膳そして器の回収・洗浄と目の回る忙しさでした。 飲み終わったら「花・鳥・風・月・客」と書かれた各自五枚の小さな札を、グループ毎の入札箱のようなものに一人一列ずつすべらせて入れていきます。五種全部全員が判定、入札したら、箱の前のカバーをあければ正答がグループ毎に一目瞭然です。「茶香服」独特の道具です。この時のお茶の種類は「花が玉露」「鳥がてん?茶」「風が煎茶」「月がほうじ茶」そして「客が玄米茶」でした。 五十六人のうち、三人が五問正解でした。まとめの会で、お世話して下さった方から質問が出ました。「あなたは、何を手がかりに答えましたか」と。一人の子は「お茶の色とにおいと味です。私がお客さんにお茶を出すことが多いので、ちゃんとしたお客さん。ふつうのお客さん。おじいちゃんおばあちゃんが飲まはるお茶。それから私らが飲むお茶です。夏飲む麦茶はありませんでした。あとは勘です」と。 茶香服は冬、茶農家の農閑期に、仕事の情報交換と茶の味に対する「舌が鈍らないように」という意味もあり、以前は毎年されていたそうです。 その四年生以来、向島小では毎年四年生の総合学習の年中行事の一つになっています。 |
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