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■早川幸生の京都歴史教材たまて箱63

時と時計
−人々のくらしを刻み、時刻を伝え続けて−



                   早川 幸生)
 「ひろば 京都の教育」163号では、本文の他に写真・絵図など9枚が掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」163号をごらんください。


−日の岡と日時計−

 山科の山階南小学校で地域学習や総合的な学習を取り組んでいる時、保護者や地域の方々は、小中高の教師、大学や諸研究機関の学者・研究者と児童・生徒そして私達との交流が一段と進みました。校区にあった山科本願寺寺内町と土塁の保護と啓発のため結成された「山科本願寺・寺内町を考える市民の会」や、旧東海道に敷設された江戸時代の車石や車道を保護・研究そして正しい展示と解説のため発足した「車石・車道研究会」への参加は、本当に「ひらかれた学校づくり」また「地域に根ざした学校づくり」の大切さを身でもって実感し、学習することができる機会でした。

 とくに市民講演会後の巡見やフィールドワークには、予定し準備した資料が不足し、主催者側があわてるくらい多数の参加者が集まることもありました。

 「車石・車道研究会」で、旧東海道を日の岡から四の宮まで車石を巡り歩いた時のことでした。

 「何でひ日のおか岡て言いますの」参加者からの質問でした。「山州名跡志」などによると、「日の岡」という地名は、この地が山科盆地の中で日の出とともにいちばん最初に太陽が当たる所という「日の当たる岡」から「日の岡」と名付けられたと伝えられている旨を説明しました。

 もう少し東へ進むと、天智天皇陵前に出ます。そして天皇陵参道の入口・西詰めに大きな日時計があります。「天智天皇と日時計て、またなんでです」とまたまた質問です。

 「この日時計は、昭和一三(一九三八)年に京都時計商組合が創立二十周年記念に建てたものです。天智天皇陵前に建てられたのは、天智天皇が宮中にろうこく漏刻(水時計)を置いて時刻に合わせ鐘や太鼓をならす、日本で初めて報時制度をつくった人なので、ここを選んだと考えられています」と答えるのでした。

 「そしたら日時計と水時計どっちが古いんです」と質問が続きます。その答えは、

 「時計のはじまりは、紀元前三千年から四千年ころ古代エジプトと言われています。地面に棒をたて、その棒のつくる影の位置によって時刻を知りました。日時計の始まりです。オベリスクも日時計ではないかと言われています。天気の悪い日や夜には使えないという欠点はありますが、七世紀に中国から伝わった水時計より歴史は古く、また正確でした」と。


−時の記念日−

  「時の記念日」は一九二〇(大正九)年に始まりました。そして六月十日です。なぜ六月十日。また何を記念してなのでしょう。「時間をきちんと守り、時間を大切にするように」との願いを込めて始められましたが、制定したのは、当時の文部省と生活改善同盟でした。

 記念日を決めるにあたって根拠とされたのは「日本書紀」でした。天智天皇は六七一(天智一〇)年四月二十五日に、漏刻(水時計)で時を計り、文武百官の出勤時を決め、この時計の示す時刻にあわせて、鐘や太鼓を鳴らすことを始めた「漏刻が初めて候時を知らせ鐘鼓を鳴らす」と記されていたことと、この日付を今日の暦に直したと言われています。

 滋賀の近江神宮には、時計博物館があり、境内には水時計がおかれ、時の記念日には毎年「ろうこく漏刻さい祭」という祭が行われています。

 館内や境内には、珍しい火時計や和時計、中国の線香時計などが展示されています。


−ハト時計は日本人好み−

 我家にも、かわいい「ハト時計」があります。孫達が時報を知らせるハトが顔を出すたびに「アッポッポや。ポッポ。ポッポ」と共鳴しています。ハト時計を調べてみました。

 ハト時計は、本来「カッコウ時計」だったようで、昭和の初めにドイツから伝わったようです。同じ鳥類ですが"カッコウ"と"ハト"では異なり、なぜ変化したのでしょうか。

 「カッコウ時計」が誕生したのは、一七三〇年のドイツ、黒い森で有名なシュワルツワルトのアントン・ケッテラーが「森の中のモミの木で鳴いているカッコウの姿」をイメージして制作したのが始まりだそうです。この地域では、冬の農閑期の副業として森のモミの木を使って一六四〇年頃から時計作りが始まり、一八世紀にパイプオルガンとヒントに、ふいごで鳴き声を出す掛け時計が考えられました。

 最初はニワトリだったようですが、評判は良くなく、カッコウにしたところ好評を得たとのこと。またデザインもシュワルツワルトの狩りの様子が典型で、シカ、キジ、ウサギと鉄砲という具合でした。

 ドイツから日本に入ってきたのは昭和の初めとされるのは確かなのですが、「カッコウ」がなぜ「ハト」になったのかは、諸説があります。一つは、「日本の子どもたちにカッコウはなじみが薄かった」とか「カッコウは自分の卵を他の鳥に温めさせるなど性格が良くない」また、「ハトは平和のシンボルとして良いイメージがある」等です。

 でも最も有力な理由は、カッコウを漢字で書くと"閑古鳥"となって縁起が良くないということだったようです。「閑古鳥が鳴く」とは「寂しい様子、商売などがはやらない様子」とあります。日本でのイメージですが。

 掛け時計は、家や店の新築祝いや何かの記念に良く使われますが、「これでは縁起が悪い」ということになり、国産化するに当って、灰色のカッコウが白いハトになったようです。


−長岡京の役人の出勤時刻と漏刻(水時計)−

 伏見区の羽束師小学校は、長岡京内に位置する京都市内では数少ない学校の一つです。学校建設に伴う発掘調査の結果、学校の建っている場所は「左京三条三坊」(長岡京の左京の三条大路と東三坊大路の交わった所)であることが判明しました。

 平城京、長岡京、平安京の貴族の時代の体験学習として、毎年六年生が当時の役人が歩いた道を辿り、学校から大極殿跡まで歩きました。次の作文は、その時書いたものです。


「大極殿まで歩いて」
            (六年 男子)

今日は、ぼくも長岡京時代にいた役人になったつもりで、大極殿まで歩きました。昔の人も、毎朝早くから起きて歩いて、しんどかっただろうと思いました。冬は六時から、夏は四時三十分から歩いたのです。

 学校を出発した時は、こんなに遠いとは思いませんでした。歩いて行くうちに、まだかなまだかなと、思うようになりました。今はバスで行けるけど、昔はたいへんだったと思いました。・・・・


 向日市の歴史資料館の学芸員さんから、長岡京の役人の夏と冬の出勤時刻を教えてもらった児童は、それに加え当時の役人は出勤してから役所で朝ご飯を食べたこと、官位により献立が違っていたことも知りました。

 児童に一つの疑問が残りました。夜や朝暗いうち、また太陽が照らない日などは日時計が主な時計だと思っていたので、日時計は無理だと思えたのでした。そして質問が出ました。

  「長岡京時代は、どんな時計で時間を計ったのですか。日時計だけでは無理だと思います」

  「当時使われていたのは、ろうこく漏刻と呼ばれた水時計でした。それは日本書紀という本に、日本では斉明天皇六年(六六〇)五月に中大兄皇子(後の天智天皇)が初めて漏刻を作り時を知らせたと書かれていることから、長岡京時代も水時計が使われていたと考えています。ですが、残念なことに水時計があった場所が、長岡京ではどこであったのかは判りません」

 学校に帰ってから調べてみると、多分中国のものを手本にしたと考えられていることや、平安時代には、漏刻博士という官職があり、陰陽寮という所で漏刻の管理をしたということが判りました。

 また、昭和五十六(一九八一)年の九月から十二月にかけて奈良国立文化財研究所が行ったあすか飛鳥みずおち水落遺跡の発掘調査により、この水落遺跡が六六〇年に日本で初めて作られた漏刻の遺跡である可能性がとても高くなりました。


−時の鐘と半ドン−

 時刻を広く知らせるために、太鼓や鐘をたたくことは、昔から行われていたことが伝えられていますが、記録に残るのは前述の天智天皇の業績に関係する「日本書紀」と、平安時代の「延喜式」陰陽寮の条に見えるものです。

 御所の門を開閉する時刻を告げたとされるもので、とき辰刻毎には太鼓を打ち、一とき辰刻を四刻に分けていたことから、各とき辰刻間には、一,二,三,四,と刻の数だけ鐘を鳴らしたことが記されています。

 時代が移り、戦国時代も終わり江戸時代になり平和が回復すると、江戸幕府は江戸の町にこくちょう石町をはじめ十数ヶ所に時鐘楼を建て、時の鐘を打たせたと「江戸名所図会」に書かれています。町人から月に四文ずつ鐘料を徴収したという石町の記録も残されています。

 京都では「京都御役所向大概覚書」という書物に、六角堂前に時の鐘があり、鐘は慶長年間(一五九六−一六一四)に鋳造した六角堂の鐘が使われていたという記録が残っています。念のため、何か図会に見ることができないか調べてみると、「二十四輩順拝図会」の一巻に、六角堂があり資料の図の左下に鐘楼があり、六角堂表門に京都の時の鐘があったことが証明されました。

 六角堂は「京のおへそ」と呼ばれ、江戸時代の京都の町の中心地と考えられていましたが、時の鐘を鳴らす場所として、立地条件としても、最適であったとも考えられます。京都の昔の人(父や母の世代、明治・大正生まれ)は、六角堂のことを「ろっかくさん」と呼んでいました。時の鐘が打たれた親しみのあるお寺だったのかもしれませんね。

 現在のように週休二日制でなかった時代、土曜日のことを「はん半ドン」と呼んでいました。「明日は半ドン。昼からどっか行こうか」職場や家庭でもよく使われたことばです。

 調べてみると次のことが判りました。明治四(一八七一)年九月九日に太政官で「日々正午に大砲を一発発射すること」という布告が出されました。それ以来全国の主要地域で、正午に大砲で「ドンが一発(空砲)」撃たれました。はじめは音の大きさのため人々を驚かせていましたが、やがて親しまれるようになり、正午のドンが午前の仕事の終了合図となりました。

 「ドン」は、大正十一(一九二二)年九月に、陸軍省の予算縮小のため廃止となり、サイレン等に取って代わられました。後年、土曜日の勤務が半日になると「半ドン」という言い方が使われるようになったそうです。なつかしいことばの語源が判り、うれしくなりました。

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