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特集 1
子どもの生きづらさ−−しんどい子どもたちに光を

総論  子ども・若者の「生きづらさ」に光を
     −−「迷惑」かけてもエエんよ−−


                  高垣 忠一郎(立命館大学)


1、大学生の「生きづらさ」

 先日京都府学連の定期大会に招かれ話をする機会がありました。そのときにいただいた決議案の「情勢」のなかに、今日の学生の「生きづらさ」として次のようなことが紹介されていました。

 「ひどく他人を意識しながら競争してきた」「就職活動に失敗して『負け組』にならないように頑張らなければならないという強迫観念が入学直後からある」「いつも明るく元気な人間にみえていなければならないと肩肘張っている」「人と比べてしまい『自分はダメだ』と劣等感を抱え込んで落ちこんだりする」「それらのしんどさや悩みはなかなか声に出して言えない」「本当の自分を押し殺して、相手に迷惑をかけないように過敏に空気を読みながら過ごしている」

 私たちはいま、このような「生きづらさ」を抱えているのですと書かれています。学生自治会運動の「情勢」の部分に、天下国家を論じるだけでなく自らの内面の「情勢」を吐露している若者たちに新鮮な驚きを感じるとともに深い共感を覚えました。

 私は心理臨床家として病院の精神科でカウンセリングを長年行ってきました。そのなかで会った多くの子ども・若者たちの姿や、大学のゼミのなかで触れあった学生たちの姿と重なって見え、社会に働きかける「元気な」当事者の声によっても、私の臨床・教育現場での印象を確認させてもらった感を強く持ちました。


2、しんどさ・辛さを他人の前に出せない子ども・若者たち

 私が直接・間接に接することができた子ども・若者たちの姿から、特徴的なことを思いつくままに列挙すると、たとえば次のようなことがあります。

@親に楽しいことは話しても、辛いことは話さない子ども

 ある学会で、最近の子どもたちのなかには親に楽しいことは話しても辛いことは話さない、辛いことはペットに話すという子どもが少なくないという報告がありました。それは私の臨床現場での経験と一致します。

Aマイナスの感情を表現するのが苦手な子ども

 たとえば、数年前に佐世保で小6の女児が同級生の女児をカッターナイフで殺害した事件がありました。その加害者の女児について長崎家裁の「決定」は、彼女が自分の気持ちを表現することが苦手であったこと、とりわけ否定的な感情を表現することができないと特徴づけていました。彼女は私の印象では発達障害やトラウマの存在を疑わせるところがありましたので、あるいはその障害特性からくる面があったのかもしれません。しかし、私はこういう特徴はいま、多くの子どもや若者たちの共有する特徴だと感じています。

B恋人に悩みを話せない女子学生

 私のゼミの女子学生が、大学に来づらいということで相談にきたことがあります。色々話を聞いたすえに彼女には恋人がいることを知り、彼に相談しているのかどうかを尋ねたところ、彼にはそういうことは言えないのだと言います。「なぜ?」と問えば、そんなことを話して彼に迷惑をかけ嫌われたくないからだという趣旨の答えが返ってきました。親しいからこそ嫌われたくない、だから暗い話を持ち出せないという感じ方をする若者の姿が浮かび上がり、私は内心驚いたことを記憶しています。

C親に迷惑をかけて申し訳ないと自分を責める子ども・若者

 親に高い学費を出してもらって大学に通うことが申し訳ないと肩身の狭い思いをしている学生、親の期待を裏切って申し訳ない、親に迷惑をかけて自分など消えた方がいいと自分を責めたり、自分を否定している不登校の子ども、ひきこもりの若者たちに私はたくさん会ってきました。日本の子どもや若者ほど、負い目や罪悪感、肩身の狭い思いを抱えて生きている子どもや若者たちはいないのではないかと私には思えるほどです。


3、自己否定感にとらわれる子ども・青年のこころ

 3年間中学でいじめられつづけながら、腹痛に耐えて休まずに通い続けた若者がいます。高校に進学した途端に彼は不登校に陥りました。「ぼくは30年間カウこうンセラーとしてあなたのように学校にいけない人にたくさん会ってきた。そのなかで一つだけ確実に言えることがある。それは『こんなオレでもエエンや』と思えるようになったら、元気になるということや。だから聞きたいのだけど、キミは自分のことをどう思っているのかな?」

 彼は「自分が嫌いや」と答えました。「そう。どうしてかな?」「みんな学校生活楽しんでいるのにボクは楽しめない。そんな自分が嫌い」「そうか。もうひとつ聞いていいかな?」「楽しめないのはいじめっ子のせいやろ(ウン)だったら、僕ならいじめっ子を嫌いになるけど、キミは自分が嫌いになるのか?どうしてかな?」「自分が悪いからや」「自分が悪いって?」「ボクは得意なものがなにもないし人と話すのが下手、だからいじめられる」・・・・これはほんの一例でしかありませんが、こんな風に思っている子ども・若者は少なくありません。

 ひきこもりの若者たちも、そうです。若者を使い捨てにする社会を「いじめっ子」扱いするのは極端だが、まあ似たようなものだと私は思います。彼らはその社会を批判し責めるのでなく、その社会についていけない「自分が悪い」と自分を責めているのです。

 だから、いまの子どもや若者は「何でも他人のせいにする」という評論はまったくの嘘っぱちです。私が30年余りの間、そんな子どもや若者たちと向き合って悪戦苦闘してきたのが彼らの内側に壁のように立ちふさがるこの「自己否定の心」なのです。

 彼らを調子の悪くなった車を修理するかのように扱う人も少なくありませんが、私の心得る心理臨床の使命は、彼ら自身が自分を「治して」いくのを手伝うことです。そのためには彼ら自身の内にあるはずの生命の働き(自己回復力)に依拠しなければなりません。

 それが活性化するように援助するのです。それが援助の要諦です。その自己回復力にダメージを与えるもの、それが自己否定の心です。その自己否定の心から彼らが自分自身を解放することを手伝いたいと四苦八苦してきた私の実践のなかで生まれたのが、私のいう「自分が自分であって大丈夫」と存在レベルで自分を肯定する自己肯定感なのです。(注)


4、しんどさ・辛さを誰にもいえないのは何故か?

 先の自治会連合の学生たちの「しんどさを声に出して言えない」のはなぜでしょうか?彼ら自身の文章には「私たちにとってこれらは、弱音に思われ『もっと努力したら?』と突き返されたり、楽しい場を重くしてまわりに迷惑をかけてしまったり、過度な心配をされて恥ずかしかったりと、相談する前よりもしんどくなってしまった経験があるからです」と述べられています。

 とてもよくわかります。そうだろうなと頷けます。私のカウンセリング論の授業に参加する400人の学生に「人に悩みを相談するときに不安があるか?」と問うたところ、98%の学生が「ある」と答え、その理由として、「真剣に聞いてくれるか」「ダメな奴だとバカにされるのでないか」「迷惑じゃないか」「引かれるのでないか」「他人に話されるのでないか」・・・とさまざまなことがあげられていました。

 貧困・格差を生み出す社会構造からくる親の生活の不安定さを背景にして子どもの貧困が盛んに問題にされていますが、そのうえに彼らの精神的・心理的不安に拍車をかけている最たるものが自分の辛さやしんどさを受け止めてくれる人のいない孤立感なのです。

 問題はそういう相手がいないというだけではありません。彼ら自身のなかに自分を表現することに対する恐れや絶望感があるのです。「ダメな奴」と責め、嫌い、否定する自分を人前に出すことには勇気がいります。さらにいまのとくに子どもや若者たちの人間関係には、明るい=○、暗い=×という雰囲気が支配しています。だから、辛さやしんどさという暗いものは人前に出せません。常に明るい自分をつくっていなければなりません。

 カウンセリングルームで、にこやかに辛いことを話す若者たちは少なくないのです。


5、「人に迷惑をかけるな」の大合唱を超えて

 「迷惑をかけるな」が彼らの心をきつく縛っているのです。「自立自助、自己責任」の掛け声のもと、声高に「迷惑をかけるな」がまかり通っているだけではありません。

 「ポンポンが痛いねん」「正露丸飲んどき」「頭痛いねん」「バッファリン飲んどき」「お腹も頭も痛いねん」「病気かもしれんなあ、医者行ってこい」・・という調子で、お腹や頭に手を当てて痛みに寄り添ってもらえずに育った子どもはどう感じるでしょうか。「痛い・つらい」と表現することは「相手には迷惑なんやな」と感じることでしょう。私ならそう感じます。そうして、安心して自分の痛みや辛さを出せなくなるでしょう。

 親が「しつけ」としてよく言うことばは「人に迷惑をかけないように」ということです。その意味や趣旨はわからないわけではありません。でもいまの子どもたちにそれを押しつけるには慎重さが必要でしょう。そして、いまの子どもや若者たちには「人間関係を取り結ぶ力が欠けている」「コミュニケーション能力が貧しい」と子どもや若者の弱点を評論家のように言い募る大人が多いなかでは、とくに指摘しておきたいことがあります。

 相手に迷惑をかけることを恐れて自分の辛いことやしんどいことを表現できないで、どうして深い人間関係をつくっていけるのでしょう。深い人間関係をつくろうとしても、「迷惑じゃないか」という恐れが立ちふさがります。そういう状況を大人や社会がつくりだしておいて、そのことを棚上げして「いまの子どもや若者たちの人間関係は浅い、人間関係をつくる力が育ってない」などと、評論するのは筋違いでしょう。

 私が子どもや若者たちに伝えたいメッセージは、「迷惑をかけるな」ではありません。人が生きるには何ほどかの迷惑を周囲にかけている。迷惑をかけずに生きることなどできない相談だ。それをお互いに赦しあって生きている。だから、「迷惑かけてごめんなさい、赦してくれてありがとう」という気持ちで生きたらいいよと、私は伝えたい。今の社会には脅しの「評価」ばかりがまかり通り、「赦し」が失われている。いろいろあるでしょうが、「赦し」の欠如が「生きづらさ」をつくっていると今回は強調しておきます。

(注)本論と関わって、私の提唱する「自己肯定感」について知りたい方は、拙著「自己肯定感って、なんやろう?」(2008年・かもがわ出版)最近の拙論「自己肯定感って、なんやろう?−「評価」ではなく、「赦し」−」(女性のひろば・2009年8月号)「『評価』ではなく『赦し』の自己肯定感」(児童心理・2010年3月号)を参照していただければ幸いです。

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